根本仏教講義

9.心の法則 4

精進は必須

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月、心はどこにあるのかというお話をしていました。ヒンドゥー教では人の心臓の中に心があるといい、ヨーガ瞑想では尾てい骨のところにあって、瞑想しているとだんだん上へ上がって頭の真ん中から出ていく、それが解脱だと唱えているという話をしました。

心とは「知る」はたらき

ヨーガ瞑想でするように、どこか一点に意識を集中すると、いろいろなものが見えてくるのです。遠い空の方へ手を掲げ、しばらくじっと見つめた後さっと手を動かしてみてください。
さっきまで手のあった場所に、ちやんと手が見えることと思います。神秘的なものに憧れる人は、そこには手のオーラが残ったのだと、あるいは「気」が残ったのだと解釈しようとするのです。たとえば私が皆さんの真ん中に立って、私を十分間見てください、それからこの場所を離れますからその場所を見てください、と言ってみたらどうでしょう。そして誰かが、私のオーラが見える、と言ったらどうでしょう。素晴らしい、ということになるかもしれません。あまりに合理的な真実より、そういう神秘性のある話の方が、楽しかったり気持ちよかったりするものです。

ともかく、何かに集中すると、たとえば自分の指先でもいいのですが、じ一っと集中してみていると、いろいろな形に変化して見えてくるのです。また何か見えるのではないかと期待すれば見えなかったり。そういう風なすべての働きを心というのであって、心には場所があるわけではないのです。心臓の中にあるのでもなく尾てい骨にあるのでもない、魂がからだの中に棲んでいるのでもない。我々の一個一個の細胞の中に、心は働いているのです。心というのは生命としてのいろいろな働きにまとめて付けた名前、いわばグループネームなんですね。

それは果物とリンゴの関係と同じです。果物と言えばちゃんと存在するものです。リンゴもバナナも桃も全部果物なんですね。では本当の果物とは何か、リンゴですか、バナナですか、桃ですか。考えてみると、リンゴは果物ですが果物はリンゴではない。バナナは果物だが、果物はバナナではない。結局果物というのは特別にあるのではなくて、グループネームなわけです。いろいろなものについてこのグループネームを使って「果物」というのです。同様に「生きる」という働きがいろいろなものにありまして、それにグループネームをつけて「心」と言うのです。

ところで果物というには、定義が全くないわけではありません。ご飯は果物と呼べないし、魚も果物とは言えません。では、バナナやブドウやリンゴ、そういうものをまとめて、何か特色があるのかといえば、だいたい甘さがあって食事の後で食べるものであるとか、いろいろと特徴を言うことは出来ます。そのように心についても特色を言うことはできます。

どういうことかというと、まず認識すること、知ること。その「知ること」は心なんですね。目で知る、耳で知る、舌で知る、頭で知る、足で知る、鼻で知る…どんな道具を使っても、とにかく我々は「知る」。ですから、知ることが心ですよと仏教は定義します。心は知る働きですから、心に聞けば、自分が何者かということはわかるはずなのです。しかし正直者でなければわからないのです。宗教哲学的、また精神的、神秘的、形而上学的概念などで心の働きを美化すると、心というのはわからなくなります。

心という働きを美化することそのものが、一種の「うそ」の働きだということなのです。わかりやすい例で言えば、人間は芸術の世界が好きですね。音楽や、舞台の上での演出や…そういうものはすべて現実ではなく、虚構の世界です。何かを見せる。「見せる」と言うくらいですから、ないものを見せるわけです。舞台は表から見るとすごくきれいですが、裏から見るととんでもなく汚いのです。人間の世界というのは、舞台と同様に「見せる」世界なのです。

たとえば皆さん、敬語を使ったりして挨拶をしますが、それも「見せて」いるのです。ごみを捨てるとき、本当は隣の奥さんと顔をあわせたくないと思っている。それでも会ってしまったら、にこやかな顔で「おはようございます」とかなんとか言うんですね。言葉もそうですが、心も、本当の状態を隠して何かを見せているのです。だから同じ言葉をしゃべっていても、お互いに通じないのです。

人間は、皆同じ「人間」という動物なのに、どうして同じ言葉がしゃべれないのでしょうか。それは人間が、「見せる」ことをしているからです。カラスなら、アメリカのカラスでも日本のカラスでも同じ言葉でしゃべっているのです。縄張り争いはあるかも知れませんが、それ以上は何もありません。たとえば、日本で何か鳥を飼っているとして、それがメス鳥なので、オスがいないからとアメリカから輸入してつがいにしても、何の問題もないのです。日本の鳥の言葉を教える必要はまったくありません。でも人間は、日本の人が外国の人と結婚したら、やはり言葉の問題にぶつかるのです。そういうことが起こるのは、我々が「見せて」いるからなのです。いわゆる「うそ」の世界に生きているんですね。服を着るときも、自分を隠す。お化粧するときも、自分を隠す。すべてそういうことなのです。美学というのはそういうところから生まれました。なんでも美しくする。そういうのは、人間の文化であり、心の勉強をする場合は、そこは破らなければなりません。この「破れ」ということは、今の社会を否定しなさいということではありません。社会は社会で置いておいて、心の勉強の場合はそれとは別なのだと考えてください。社会のことは物質の勉強、道具の勉強ですから、それはそれでいいのです。ですが、心の勉強の場合はそれとは違うと理解していただきたいのです。心の話になると、きつい言葉とか、聞きたくない言葉とかを、聞かなくてはいけなくなってしまうのです。

心は本来、怠けものである

次に、心の育て方ですが、まず、なぜ心を育てなければならないかという問題が出てきます。心というのは、私も皆さんもものすごく怠け者なのです。いかに怠けようかということで必死なのです。それは認めていただきたいのですが、いかがですか。よくがんばっているのだと言うときは本来怠けてしまうから、それでもなんとかやりましたということで、だからこそ「がんばっている」という言葉が出てくるのです。また、「我慢」という言葉がありますね。立派な言葉に聞こえますが、それは本当は、我慢したくない、それでも何とか我慢しました、ということだから「我慢」なんて言葉が出てくるのです。

とにかく、心というのはものすごい怠け者なのです。そして、人間に差がでてくるのは、その怠けにどのくらい打ち勝ったかによるのです。どんな人でも勉強はしたくない。それでも我慢して勉強する。そしてよく我慢できた人は成功するし、我慢できなかった、途中でやめた人は他の方向へ行ってしまう。怠けたい心を制していやなこともやる、それで、自分が自分に勝ったことになるのです。そこまでいくと、その人はプロとなって成功するのです。心の本来の姿は「怠けること」ですから、心の本来の姿をぶっこわしたところで、何か獲得できるのです。そんなわけですから、心は放っておけば地獄なのです。放っておかずに、蹴飛ばして、たたき上げれば、幸福になれるのです。仏教の悟りというのは、心を完全に壊した状態をいうのです。そこまでいくのは結構むずかしいことでしょうが、普通の社会でも、少しだけ自分の怠けに勝てれば何か得られますからね。

そしてまた歳をとってくると、また本来の怠けがもどってきて、怠けたくなる。若いときのように動けなくなってきますからね。それでもゲートボールでも毎日楽しもうとすれば、その分は元気な年寄、明るい年寄になるのです。いやな年寄にはならないんですね。

「精進」という真理の大切さ

このような真理を、仏教では「精進」という道徳の言葉で表現しています。現代の言葉では「努力」です。仏教においては、この「精進」ということは欠かせないことなのです。人間にとって、絶対的に必要であるもののひとつなんですね。
仏教家であろうが、それ以外の人であろうがこの「精進」に水を差すようなことは、不幸を招くことになります。つまり、甘い話は毒なのです。ご存知のように社会の中でも、話は甘ければ甘いほど怖いものですよね。盛大に宣伝して、大変な特典がついていて、ものすごく欲しい気がするものは、だいたいなくてもいいもので、ほとんど宣伝しないものが必要なものなのです。とにかく甘い話は毒であり、「欲」なのです。

宗教にも、大変甘い話があるのです。信仰さえすれば天国に行けますよ、とか、懺悔さえすれば神様があなたの罪を償ってくれる、とか、とても甘い言葉ですよね。ですが、真理からいえば、がんばらなければ地獄なのです。天国はありえません。ですからお釈迦さまは、精進に水を差す宗教にだけは、きつい言葉を言われました。他の宗教でも、精進に励む場合は批判しておられないのです。たとえばヒンドゥー教に対しては、それほど批判しておられません。なぜなら、ヒンドゥー教は一生懸命修行しなさいと説く宗教ですからね。ただ、その道をはっきりさせなさいとはおっしゃっています。ですが、人間は神に作られたのだから、神に救われるだけで、人間の自由意志はない、そういう考え方に対しては、強く批判されているのです。真理はまったく違う、努力によって成り立つのだと言われています。生まれたての赤ちゃんは何もできませんよね。まわりの大人が手をかけて育てながら、食べ方を教え、箸の持ち方を教え、子供の方もいやなんだけれど、一生懸命がんばってご飯を自分で食べ、箸を使うよう努力する。そうやって努力を積み重ねていきます。

怠けに関しては、人間の中に矛盾もあるのです。心は何もしないで怠けていたいんですね。ですが、怠けると刺激がないんですね。怠けたいからといって、怠けてみるとどうでしょうか。お腹いっぱい食べて、九時ごろ寝て、お腹がすくまで寝て、起きて、またご飯を食べたら寝て…それを三日くらい続けることを考えると、想像するだけでかなり気持ち悪いのではありませんか。だから、心というのはずっとその矛盾で苦労しているのです。同じ理由で、子供は学校に行きたくないと言いながら、行くのです。怠け心で「勉強したくない」という子供に「勉強したくないならいいよ、やめてゲームやればいいよ」と、お菓子を買ってあげたりおもちゃを買ってあげてみてください。また「あらよかった。お母さんもどこかへ行きたいと思っていたの。いっしょにパチンコでも行きましょ」と連れていったりね。起きたくなければ、いつまでも寝ていたらいいのよ、起きたいとき起きてきたら、お母さん、ごはん作ってあげますからとさんざん子供のわがままを聞いてあげてみてください。どうなるかというと次の日から自分で早く起きて、学校に行くんですね。大人でも子供でも同じです。

そういったこともすべて、心の「法則」なのです。心の法則さえわかれば、なんでもできるのです。(以下次号)