12.お経に何が書かれているのか 2
正しい生き方は君が知っている
先月号では、ヴェーサーリーの国に滞在中のお釈迦さまに、バッディヤという若い国会議員のひとりが質問した内容とお釈迦さまの答えについてお話ししていました。お釈迦さまは、さまざまな例をあげながら、常識だからと言って正しいと思うな、私(お釈迦さま)が言ったからといって正しいと思うなとお話されました。証拠に基づき、自分の智慧で正しいと理解すべきであるともお話しされました。
そして逆に質問を投げかけながら、欲・貪り、また怒りが人を幸福にしないことを説かれます。
無知とは勉強ができないことではない
次に出てきたのは、「無知」の話です。無知というのは、知恵がないということなのですが、本当の意味はなかなか理解できないものなんですね。無知の状態では、人はどうしようもない状態になってしまうんですね。活動力を失ってしまうのです。心も体も、何か、止まっているような状態になるのです。「一体どうすればいいのか」というような混乱状態に陥る。判断力がない。頭がまったく明晰さを失い、動かない。そのような状態は「無知」な状態なんですね。
ただ勉強ができないというのは、仏教では無知とはいわないのです。たとえばある人は、何かを理解するのにちょっと時間がかかる。それはただ理解が鈍いというだけであって、無知とはいわない。ゆっくりゆっくりと理解しても、しっかり判断する人はしっかりした人なんですね。無知というのは、自分の手も足も出ないような状態。自分が止まった状態。すごくかたくなって、言葉も出てこない。頭の中も概念も、もう止まってしまう。混乱状態。それが無知です。そのようなときも人は、うそを言ったり、悪いことをしたりします。
恨みは体の毒
次に出てくるのは、「サーランバ(sārambha)」という悪い心の状態です。「サーランバ」は怒りに関係することですが、何かちょっと怒った体験があればそれはずっと心に残るのです。
怒りには二種類あるんですよ。自分に対する怒りと他人に対する怒り。たとえば自分が何か失敗した。たとえばせっかくがんばって働いているのに病気になってしまった。そのようなとき人は、ものすごく機嫌が悪くなってしまうんですね。暗くなってしまう。それは自分に対する怒りなんですね。何もしないで、そればかり考え込んでいるんですね。
たとえばちょっと病気になったら、私の体は弱いんだとか、もうすぐ死ぬんだとか、あのときの無理が悪かったとか。
また、他人にいわれた一言をいつまでも忘れられない。言われた瞬間は相手に対して怒ったかもしれませんが、それはそれでしょうがないのです。それよりも、そのことがずっと心の中に残ってしまうということが問題です。
人間というのは、物忘れはものすごくひどいのに、そのような悪いことだけはしっかりと覚えているのです。10年、20年経っても忘れません。あの人に、こういうことを言われたと。良いことはすぐ忘れるのに、また勉強したことはすぐ忘れるのに、学校で覚えていることは、誰かにいじめられたことだけ。それだけはしっかり覚えているんです。人間というのは、不幸になるようにできているようなものですね。その性格のことをパーリ語で「サーランバ」というのです。悪いことは忘れないということ。
もし病気になったとしたら、それはそれでどうということもない、と考えた方がよいのです。治してもらえればそれでいいし、もう治らないならそれでまあいいのではないでしょうか。
そのことばかりが気になって、気になって、自分に対して怒り、暗くなる。それでさらに不幸になり、病気もひどくなって早死にしてしまう。
他人に対して怒ったら、その人に対して恨みを持ち始めて、どんどんどんどん不幸になるのは自分の方です。自分が他人に対して恨みの心を持っていると、誰がひどい目に遭うかというと、自分なんですよ。「恨み」はからだの中に「毒」の成分を分泌しますから。自分のからだが壊れるだけであり、自分の心が壊れるだけであって、相手にとっては何ということもないのです。言った人はとっくに忘れているかもしれませんし。
人間にはそのような特徴がありますから、気をつけた方がいいのです。他人の「良いこと」を覚えておくことは素晴らしいのですが、悪いことだけはすぐ忘れてしまいましょう。もし人に、何か腹の立つことを言われても、すぐその場で忘れた方が幸せになれるのです。
ですから、この「恨みを持つこと」「恨みを忘れないこと」、そういう気持ちが心に生まれたら、それはその人のためになりますか、それともその人をダメにしますか、お釈迦さまは、やはりこのように聞かれるのです。するとバッディヤが答える。その人は幸福にはなれない、不幸になるのだと。人は恨んで殺生したり、人のものを盗んだり、いろいろな悪い行動にも出る。それでは幸福になれません。
自分自身の理解のもとに
最後にお釈迦さまはこう聞くのです。今私が言ったこと、つまり貪ること、怒ること、無知の状態になることそれから恨みを持つこと、これらは善行為ですか、それとも不善の状態ですか。いわば、心の清らかな状態ですか、心の汚れた状態ですか、という質問ですね。答えは決まっていて、バッディヤは、心の汚れた不善な状態だと答えました。そのような状態で生きることは正しいですか、間違っていますかとお釈迦さまは聞かれました。彼は、間違っていると答えました。そのような状態で生きることは、知恵のある人々にほめられることですか、けなされることですか。けなされることです。ではそのような汚れたままの状態で生きる人は、苦しむことになりますか、幸せになりますか。確実に苦しみを味わいます。
まるでどこかの裁判のように、すべて、質問があって答えがあるという形で、このお経は進むのです。
そしてお釈迦さまはこう言います。私は先ほどあなたに言いました。伝統的だから、経典にあるから、言葉上手だから、理屈に合うから…そんな理由でものごとを信じるなと。自分で理解するなら結構ですと言ったその意味は、このようなことなのです、と。あなたは決して伝統で、貪りは良くないと言っているのではない、経典にあるから恨む心がよくないと言っているのではないでしょう、あなた自身が、自分で理解して言っていることですから。
良い心の状態は幸福につながる
つぎにこのお経は、良い心の状態についての話へと進んでいきます。貪りのかわりに貪りのない状態(アローバ alobha)が生まれたらどうですか。それはよい状態ですか、悪い状態ですか。それはよい状態ですよと答える。欲張りもしないし、人を殺そうとも、盗もうともしないし、人の奥さんを犯すこともないし、人々に悪行為を強いることもない、それはよい行動ですか、悪い行動ですか。それは素晴らしい行動です。では素晴らしい行動をしている人は幸福になりますか、不幸になりますか。その人は必ず幸福になりますよ。…
さらに怒りのない心。いわゆる慈しみの心です。生命に優しくする心は良い心ですか。それは素晴らしい心です。その素晴らしい心の状態では人はうそも言わないし、殺生もしないし、他人に迷惑もかけないし、他人にも慈しみの心はよいと言ってあげたりする。そういう生き方をする人は幸福になりますか、不幸になりますか、と聞けば、そのような人々は確実に幸福になりますよと答えるのです。
三番目には知恵の人生。しっかりした心、いつもきちんと冴えた心で物事を判断し、行動的に活発に、明るく元気で生きている状態は、知恵の状態なんですね。そういう知恵の状態は良い状態ですか。それは素晴らしい状態です。そういう状態では、人は元気で殺生もせず、みんなで助け合って生活する。ほかの人々にもしっかりと生きていきましょうと教えてあげたりする、そのような生き方は正しいのかどうか。それは正しい。その人は幸福になりますか、なりませんかと聞けば、その人は確実に幸福になりますと答えました。
それから恨みを持ち続ける心「サーランバ」の反対。まったく恨みを持たず、悪いことだけはすぐ忘れる、人にきついことを言われても、その瞬間怒ってもすぐそれを忘れて、にっこり笑ってその人と仲良くできるような状態なら、それはよいことですか。それは、素晴らしいことです。そういう人は幸福になりますか、なりませんか。そのような人々は確実に幸福になります。
そしてお釈迦さまは最後におっしゃいます。そういうふうな、貪りのない、怒りのない、恨みを持たない生き方、知恵のある生き方をすると、その人は、幸福になりますか、不幸になりますか。バッディヤは、その人はちゃんと幸福になりますと答えます。
さらにお釈迦さまは、その生き方は善行為であり正しい行為であるのではないかと聞く。それはそうですと答える。知恵のある生き方をする人々からほめられるものか、けなされるものか。そういう行動は、どんな知識人にもほめられるものですと認める。
お釈迦さまは、ですから私は最初から、伝統や理屈に合うから、ニュースに出たから、自分の気持ちに合うからといって信じる必要もないし、私(仏陀)が大変有名な、偉い人だからといって信じる必要もない。この法は、あなた自身でわかるのだから。この生き方は正しいと、自分でわかるのだから。それなら、自分で、その生き方をしなさいよと、お釈迦さまはその若者、バッディヤに言うのです。(次号に続く)