13.もうひとつの生き方 I 1
智慧もサマディも悟りではありません
今月から、新しいお話を始めます。まず、短い経典を見てみましょう。
完全な悟りはどうやって得るのか
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サーリプッタ尊者だったのです。
ある日、サーリプッタ尊者のところへ、ウパワーナという名のお坊さんが来て、こういうふうに質問するのです。「サーリプッタ尊者、『智慧』 (vijjā) によって完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」尊者の答えはこうでした。「いえ、できません」
そこでウパワーナは次の質問をするのです。「では『行』(caraṇa) によって、完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」
これはちょっと説明しなければわからないと思います。『行』というのは『生き方』のことなのですが、一般的な言葉で言うと、『道徳的な生き方』ということになるかと思います。何も悪いことをしないで良いことだけして、嘘も言わない、大変正しい道徳的な生き方、戒律をきちんと守って生きる、生き方。
また、瞑想して集中力を持ち、サマーディと呼ばれる状態を完成させることも、この『行』に入ります。瞑想のサマーディというのは、第一禅定、第二禅定など、だいたい八種類くらいに分かれています。つまりこのときウパワーナ僧が尋ねたのは、ここまで含めた内容、心もできているという状態になることだったと考えられます。「智慧で最終解脱が得られないなら、行でもって最終解脱が得られますか」と聞いたのです。しかし答えはやはり「得られません」というものでした。
そこで三番目の質問は、「それなら智慧と行、この二つがあれば最終解脱が得られますか」答えはやはり「得られません」でした。
そこで四番目の質問をします。「では智慧と行のどちらも関わりなく、最終解脱を得ることができますか」やはり答えは同じ、「得られません」でした。
なぜこのような質問をしたかというと、仏教においては、智慧と行という二つは、大変大切な修行だと認識されていたからなのです。どちらがも欠かせない仏教の二本柱だと、誰もが思っていたのです。日本の『箸』のようなものですね。何かをつかむには、二本ともなくてはいけません。
ウパワーナ僧は困ってしまって、片方でもだめだし、両方あってもだめ、だからといって両方やめてもだめだという、一体全体、何をおっしゃりたいのですか、と問いただしました。 そこでサーリプッタ尊者は次のように説明されたのです。
智慧に執着しないこと
「もし私が智慧(vijjā)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なので、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それでも「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のものもない状態なのですね。
サーマディに執着しないこと
二番目の質問に対する説明も、同じなんですね。生き方を完成したならば、あるいは、瞑想してサマーディが究極的なレベルまで達したならば、それが悟りかというと、違う。そこにもまた、「サマーディが完成した」という、執着がある。それで悟れるというのなら、執着があるまま悟ることができると、言ったことになるのだと。
「行」ということを、少々説明してみましょう。ふつう、「行」というと、修行すること、善い行いをすることなどが考えられます。ここでは「悟りに至る行」に対する質問ですので、一般の修行とは比べられないほど、レベルの高いものを意味します。ここで言う「行」は、瞑想の経験のことです。瞑想すれば「サマーディ」という、普通の人に経験できないほど高度な、精神統一が生まれます。仏教では、精神統一も究極的なレベルまで上達する方法を教えています。サマーディ状態には、八つのレベルがあります。最初の四つのレベルでは、からだと心の、完全な喜悦感が現れます。五番目のレベルでからだに対する意識が完全に消えて、心だけを感じるようになります。八番目まで達すると、心も、あるかないかわからないほど、集中力が高まります。集中力には、これ以上の成長はありません。八番目は、サマーディの最高位です。心が欲と怒りで汚れていると、一番目のサマーディでさえも、作ることができません。八番目になると「自分がいる」と感じられないほど成長していますので、心の汚れはすっかり休眠状態になっているため「悟り」だと勘違いする恐れがあります。もし「私には、サマーディ、行 ( carana ) がある。ゆえに悟っている」と思うならば、それは解脱ではなく、サマディという状態を『持っている』ということになります。
では、智慧(vijjâ) と行(caraṇa) 、両方が完成したらどうなるかというと、同じことで、やはり『執着があり』ながら『悟った』という矛盾になるのです。
また、少し説明してみましょう。ここで執着というのは、欲や物を欲しがる、ごく一般的な心のことをいっているのではありません。八番目までサマーディを作っている行者の、サマーディに対する執着、智慧に対する執着のことなのです。究極的な智慧、究極的なレベルの、サマーディ、その両方があっても、その人にはその智慧が『あり』禅定が『ある』という問題があります。それは執着であり悟りではない、そう言うのです。
四番目の質問は、簡単です。それでは、智慧(vijjā)も行(caraṇa)もなくても悟れますかという質問です。もしそうであるならば、一般人も皆、悟っていることになります。そんなことはありませんね。
悟りには主語がない
そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマーディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧と超越した集中力がある人だけなのです。そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」…それが答えでした。
言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けていて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。
そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。
そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないのですね。(次号に続く)