根本仏教講義

14.因縁の話 3

「因縁」を見れば怒りも消える

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今現在の私たちの苦しみ、悩みをなくし、問題を解決し、あるいはすべて解決しなくても、心の悩み、からだの悩みをともかくなくして、今というときを自由に、軽やかに、生きていくために、因果説を使いましょうという話を、先月始めたところでした。仏教というのは、実践したならば、実践した分だけすぐ、自分に幸せが返ってくる、そういう即効性のある教えだということをお話ししましたね。

怒りを解消するには外界を変える?

ある日、お釈迦さまの第一の弟子であるサーリプッタ尊者が、どうやって怒りをコントロールするのかというお話をされました。このお話の中でも、サーリプッタ尊者は因果説を使っておられるのです。たとえば、もし自分の心の中に怒りが現れたら苦しいのは自分です。

怒りがあると、心は苦しく、からだも苦しくて、まわりとの関係もうまくいかなくなり、どんどん複雑な状態になって、問題が多発していきます。ほんの少しの怒り、一日で終わる怒り、あるいは五分、一分怒っただけでも、人間にとっては決してよいことではないのです。

通常私たちが怒ったら、それは外に向かってぶつかっていくのです。あなたが悪い、ここが悪いと、外に向かい、自分の中の問題を外にぶつけて何とかしようとがんばるんですね。それは一般的なやり方なのです。外にぶつかっていく人々は、自分を変えないで世の中を直そうとがんばっているのです。だから、あなたが悪い、子供が悪い、自分が住んでいる家が悪い、自分が住んでいる地方が悪い、自分のまわりの人が悪い、誰々が悪いと、自分が怒らなくてすむように、まわりを変化させようと、がんばっているんですね。しかしそれは、はっきり言って無理なことなんですね。私たち小さな人間が、自分以外のすべてを、自分に都合のいいように世界のすべてが変わって欲しいと思っても無理なんです。

たとえば冬は寒くてしょうがない、寒いのは嫌だ、だからといって、冬を変えることはできないのです。できることといえば、自分が何か厚い衣類を着込んで、暖房でもひいて、自分のからだをあたためること。冬が寒くて嫌だからといって、冬と戦っても仕方がないですし智慧ある人はけっしてそうはしないのです。

海に行った人が、海は水が多くて渡れないのが嫌だからと、すべての水をかきだして、からっぽにすることはできないのです。常識のある人はそうは考えないものです。常識的な人は、今海を渡りたい自分が渡れないのですから、自分が、海を渡れるように変わるのです。たとえば船を持ってくれば渡れるわけですね。そのように、渡れない海に怒りを抱いて海を変化させようと思うのでなく、渡れる自分になりましょうと努力することで、心の中に現れてくる怒りはなくなるのです。その考え方は、因果説からでてくるものです。

怒りの原因をシャットアウト

サーリプッタ尊者が怒りについては、このようにおっしゃっているんですね。もし、心の中に怒りが現れたら、その対象を考えないこと。

それはひとつの解消方法なんですね。たとえば何か「モノ」を見て怒りが現れたら、そのモノのことを考えないこと。何か音を聞いて怒りが現れたら、その音を聞かないこと。そのようにその対象を考えなければ、怒りは現れません。
あるいは、現れた怒りがなくなるのです。それはどのように因果説に関係あるのかというと、たとえば音を聞いて怒りが現れたら、音が原因であって、心の中に現れた怒りが結果ですから、この、原因となった「音」に触れないこと、それが自分の中に入らなければ、自分の心の中に怒りは現れないのです。

なぜ怒りが現れたのかというと、音を聞いたら、その音を心が追いかけて行くからなのです。あの人がしゃべったあの言葉は自分のプライドを傷つけた、あの人はそんなことをしゃべる権利はないのだ、あの人の言うことが間違いなのだと、どんどん音という対象を追いかけて、頭の中で考えがめぐり、怒りとなるのです。
目で見たものの場合でも同じですね。何かを見て怒りが現れるとその見た対象を追いかけて行くんですね。なぜこれは悪いのか、なぜこれは汚いのか、それが人であるなら、この人は自分や家族の敵であると、あるいはライバルであると、いろいろなことを頭の中で考えたうえで、怒りが現れるのです。実際には、自分が目を通して何かを見て、見たものを原因にして、自分の心の中でいろいろ考えたのです。自分がいろいろ考えて、怒りをつくり出したのです。自分の心の中で考えた行為が、怒りの「直接の原因」です。「見たもの」は怒りにそれほど関係のない「遠い原因」なのです。人が何か自分の悪口を言うのを聞いて怒ったならば、その悪口(音)が遠い原因となる(第一の原因)。心がそれを追いかけて考えて作り出した概念の山が近い原因(第二の原因)。次にその概念の山、仏教では「妄想」と言いますが、この妄想をもって作り出したのが怒り。

目から入るモノと、耳から入る音のことだけをお話ししましたが、それはこの二つが一番多いからです。ですが、鼻から入る匂いからも怒りが現れるし、舌から入る味からも怒りが現れるし、身体に触れるものに対しても怒りは現れるのです。また、頭だけで考えていても、怒りは現れます。六つのパターンのどの場合でも自分の心の中で自分が勝手に概念化することによって、怒りは生まれる。

それならサーリプッタ尊者の言うように、対象を見ない、聞かない、こと。つまり、耳から入るものは「音」だと、目から入るものは「形」だと、認識して、それだけでやめなさい、頭の中で考えて妄想していくことをストップしなさい、というのは怒りをなくすひとつの方法なのです。

原因と結果をよく見ると怒りは消える

怒りをおさめる方法はもうひとつあります。
音を聞いて心の中に怒りが現れた。音は原因、怒りは結果。しかし、原因である音は「無常」なのです。その一瞬だけなのです。悪口も一分か二分、あるいは一時間でもいいのですが、そのくらいの一瞬の音なのです。その音は、瞬滅していくものであり、ほんの一瞬存在しただけでそれを聞いている自分も、ほんの一瞬聞いているだけです。そして、現れた怒りも、無常なのです。永久のものではありません。すぐ消えてなくなる無常な音を聞いた、怒りも無常であり、永久に続くものではないという風に感じたら、怒りはなくなるのです。誰かに悪口を言われて、あるいは誰かに聞きたくないものを聞かされて、ほんの一瞬怒ったとしても、すべてほんの一瞬しか存在しないものだと。結果として現れた怒りも、ほんの一瞬しか起こらないものであるはずなのです。
もっと簡単に言えば、心のなかに現れた怒りも、「無常」だと思いなさいということなんです。何かを見たとき、何か匂いを嗅いだとき、何か音を聞いたとき…六つのどの感覚も、その対象は無常であって、一瞬しか存在しないものだから、心の中で現れた怒りも、一瞬しか実在しないものだと思うこと。そう思えば怒りはなくなります。

でも、何かを一瞬、聞いただけで、一週間、二週間、ときには一ヵ月、一年あるいは一生怒りをもって、恨みをもって生きる人間も、ごく普通にたくさんいます。因果関係から考えると、本当におかしな話なんですね。たった一言をもって永久の別れにいたることもある。一生恨みをもって生きることもある。
言葉は一瞬しか存在しないし、結果として怒りが生まれてもそれは一瞬しかあるはずはないのです。原因が無常であれば結果も無常なのです。原因が無常なのに、結果が永久的になるわけはないのです。
電気のスイッチを入れたら、ランプが光を出します。そして光っているのです。もしスイッチを切ったら、光は消えてしまうのです。電気がなければ光はなくなるのです。一言によって、ずっと怒りを持ち続ける人は、電気のスイッチを入れて光が現れますが、スイッチを切っても光がずっと残るような状態にたとえられます。考えてみればおかしなことなのです。原因は一瞬にして消えたにもかかわらず結果だけは続く。何がそうさせるのかというと、心の中で自分勝手に働き続けて自己回転し続けて怒りを作り続けるのです。

サーリプッタ尊者はこのように因果説をもって、ひとつの怒りのおさめかたを、私たちに教えてくださいました。

怒りはよい結果を生まないと知る

この他にも、怒りのおさめ方がいろいろとお経の中にあります。たとえば怒りが起こったとき、この怒りは決して自分にとってよい結果にはならないと認識するということもひとつです。
怒りを持って、よい結果が生まれるはずはないのです。逆に、何かの原因でその怒りが、ほかの悪い結果を導くことはあるのです。怒りを原因として出てくる結果は、決してよい結果にはならないんですね。だから、もし怒りが現れたらすぐ、何かを見た、あるいは聞いた結果として怒りが現れたというところで止めなければなりません。怒りを原因として現れる結果は自分にとって非常によくない結果であり、修行にとってもよくない、精神的な成長にとってもよくないのです。そのことをきちんと理解すべきです。そして、怒りはその場でおさめて、なくしてしまうべきだと、サーリプッタ尊者が、おっしゃっておられるのです。

今日のおはなしは、サーリプッタ尊者が、怒りをおさめる方法として教えられたものの一部です。(次号に続く)