根本仏教講義

14.因縁の話 5

人間を囚人にする因果の法則

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、人間を束縛するさまざまなものを、因縁の教えに沿って見てきました。今月は、因縁を正しく理解することで、この束縛から自由になる方法を探してみたいと思います。

束縛は永遠のものでないと知る

「因縁」と「万物は無常であるということ」、このふたつを十分に理解すると、本当に自由になって、喜びが得られるでしょうか。ひとつ、簡単な例を見てみましょう。たとえば小さな子供を持つお母さんがいて、子供のことで悩んでいるとします。朝から晩まで子供の面倒を見なくちゃいけないし、子供も言うことを聞かない。お母さんは自分が子供に、あるいは家に、束縛されていると感じて、もういやだと思うこともときにはあるでしょう。ストレスがたまるので、どこかに出かけてご飯でも食べようとか、旅にでも出かけようとか、音楽でもゆっくり聴きに行こうとかいうことが、小さな子供がいらっしゃるお母さんの場合は無理なようですからね。そういう場合は、ああ自由じゃない、と思うでしょうね。

でも、目を離せない、手を離せない、と思っていても、母親自身が、子供の小さい期間は永久的なものではないということをよく知っているんですね。子供はすぐに大きくなる。そうすると自分は自由になるのです。十歳でしょうか、十五歳でしょうか。一日中子供のことを考えなければならない今のような状態は、すぐになくなるわけです。じゃあ、束縛を感じるのもあと五年か十年のことだ…と気付いた瞬間に、いつか終わることならそれまでは一生懸命子供の面倒を見ようかな…と、何となく心の底から喜びが湧きあがってくるのです。実際には束縛があるのですが、この子供の束縛は無常だと、いずれ自分に自由がくるのだと理解すれば、そう思った瞬間に子供の面倒を見ることが喜びに変わってしまうのです。

このような例は、皆様ご自分の生活のなかにも見いだすことができるのではないでしょうか。実際には束縛があるのだけれど、わずかな時間の束縛だからいいのではないかと考えたときから自由になる、そういうことがありませんか。

たとえば一人でいるときに熱が出て頭が痛くて寝込んでしまい、本当に心細くなってしまう。でも、寝ればすぐ治るよ、と思えば楽に眠れるものです。実際ウィルス性の風邪ならウィルスがなくなれば治るのです。

また忙しくても、しばらくのことならいいじゃないかと思えばがんばれるのです。でも、そうはできない人が日本には多いですね。あれをやらなくちゃ、これをやらなくちゃと大騒ぎして。今すぐ喜びを持って、自由に生きることができるにもかかわらず、そうしない人が多いのですが。

みなさんも、ご自分の体験のなかで、束縛されている自分も束縛している原因の方も無常なのだから、長続きするものではないと感じて自由を感じた例を思い出してみてください。そういう風に思い出すことで、すべての人生は同じだと理解してください。自分も全体的には束縛されているのだけれど、その束縛そのものが無常であって長持ちしないのだということに気づいてください。束縛している原因も、ほんの一瞬のものだと気づいたら、生きている時間を幸せに過ごすことができます。

瞑想も、そのような考え方で続けていけば、最終的に煩悩をなくし、束縛をすべて絶ってしまって、涅槃、解脱を得られることもあり得るのです。

無常とは死ねば終わりということ?

話が少し難しくなってしまいましたが、そのように考えていただきたいんですね。それに加えて、ちょっと注意が必要な点があります。現代人はあまり死後の世界を考えないんですね。人生は難しいし大変なんですが、何とかかんとかごまかして生きていればよろしいというのも、一見「無常」から出てくる考え方のように見えますね。生命、人生というのは死ぬまでのことであり、永遠に続くものではない。死んでしまったら成仏して、あるいは永久におしまい、そういう風に考える人も多いですね、現代では。しかし因縁の考え方から見ると、これは間違いであるということも、釈迦尊はおっしゃっているのです。死んだら終わってしまうのだから楽だ、どう行動してもいいんだ、という風にはできないのです。なぜならば、一つ一つの行為が、一つ一つの結果を作り出すからです。その結果には自分が責任を持つしかないのです。単に、今現在の自分、今の自分のからだだけを命だと思って行動していたら大間違いで、大変なことになるのです。こころの中の束縛の原因を最終的に滅しない限り、本物の自由は現れないことを知るべきです。だから単純に考えて、まあ死ぬまでだ、死んだら自由だ、と思いこんでしまったら、それは誤解なんですね。それはちょっとの違いのようですが、注意してほしいのです。

「無常」と「因果説」は同じ教え

次に考えたいのは、これまで「無常」つまりすべてははかないものであるという考え方と、「因縁」つまり原因があって結果があるという考え方をいっしょに論じてきましたが、この二つの関係についてなのです。諸行無常、あるいは万物が無常であるという考え方は、仏教のもっとも根本的な教えである「因縁」の教えから出てくるのです。

因縁の教えには、基本になる方程式が四つあります。(1) AがあるからBがある、(2) Aが生まれるときBが生まれる、(3) AがないときはBがない、(4) AがなくなるときはBがなくなる、という四つです。つまり、原因があって現れるものは何でも、原因がなくなればもうなくなるのです。

たとえばひとつの講演テープを聞いています。このテープの音を作るまでには、さまざまな「原因」があるんですね。電気もあれば、テープレコーダーもあって、それも的確に動く機械でなければなりませんし、それを動かす人間がいて……そういうものが全部合体して、テープの音となって、皆さんの耳に届くわけです。この合体したいろいろな原因と結果、「因」と「果」ですね、そのひとつでもなくなってしまえば、今聞いているという、この現象自体がなくなってしまいます。たとえば素晴らしいテープレコーダーを持っていて、十分によく聞こえる耳を持っていても、もし電気が途絶えて停電になったら、音は止まってしまい、皆様の耳にも届かなくなるのです。電気が途絶えた途端、あるいはテープの音よりも強烈な音が耳に飛び込んできたら、さまざまな原因の結果であった「音」は終わってしまう。そのように、AがあるからBがある。「因」と「果」です。Aが生じた結果としてBが生じる。つまり、生じるBという結果は、Aという原因があるときだけ存在するのです。このような考え方を因果説、因縁、縁起説などと呼びます。

では世の中に、原因がなくて現れているものが、何かありますでしょうか。ありませんね。空でも、宇宙でも、真空管でも、原因があるからあるんですよ。すべてに「原因」があるとしたら、原因そのものが「無常」なわけですから、原因がなくなれば結果もなくなる。ですから、結果ももちろん「無常」なのです。このような意味で、因果説と無常の教えは同じものと言えるのです。

因縁から見る「苦」

以前私は、人間の苦しみ、悩みなどの説明としても、因縁の教えが使われているという話をしたことがありますが、詳しい説明はしませんでしたね。

仏教には四つの真理、四諦というものがあります。苦諦、集諦、滅諦、道諦です。人間の苦しみである「苦諦」、苦しみの原因「集諦」、苦しみが滅するという真理「滅諦」、苦しみを滅する方法としての道「道諦」ですね。

この「苦しみ」という言葉はパーリ語でdukkha(ドゥッカ)ですが、日本語の、ただ苦しい、というだけの意味ではなくて、人生はむなしく不満の中にあるというような意味が含まれています。人間には決して、完全な満足というものは絶対にあり得ないということなのです。

しかし人々が誤解して、「私は幸せだなあ」「満足だなあ」と思うということもあるでしょう。たとえば子供がよくがんばって勉強して、東大へ入ったから私は満足だ、ほかに何も望むものはないと。あるいは、自分も健康で、子供も大きくなって結婚して巣立っていって、問題もなく幸せだと。そのような「仮の満足感」を瞬間的に得ている人はいるのですが、存在そのものから考えると、存在というものは満足感を得られるものではないはずなのです。なぜならば、存在が完全に満足な状態であれば、変化しないはずです。たとえばからだは変化し続けていますが、変化し続けるということは、不安定であるから、不満であるからであって、完全に満足な状態、安定している状態であれば変化することはないのです。そのように存在そのものは不満であり、空しいものであり、苦しいものである。

この「苦」に関する説明も、釈迦尊は、因縁の教えからなさっています。AがあるからBがある、Aが生じた結果としてBが生じる、という因果説の方程式から見ると、「目」があって「形」があり、それが接するとき「見たという意識」(眼識)が生まれる。見たものに対していろいろなことを考えたりする。もし自分が気に入ったものなら欲が生じる。執着が生じる。気に入らないものだったら、怒り、いやな気分が生じる。どちらでもない、よくわからない場合は無知が生じる。そうするとそれらによって、自分が束縛されてしまうわけです。欲が生じれば、自分のものにしたいと思う。しかし、見た対象も無常なので、なくなってしまう。すると悲しみ、不満がまた出てくる。怒りが生じたら、そこから離れたい、それをなくしてしまいたいと思う。「欲しいもの」とは違って一瞬にして苦しみがあらわれてくる。それをなくすために行動したら、大変なことになる。たとえば嫌いな人を消そうと思ったら大変ですよね。いやな国全体をなくそうと思ったら、戦争ですよね。また、無明が生じたら、どうしたらいいかわからなくなってしまう。ですから、見たものに対して、欲が現れても、怒りが現れても、無知が現れても、とにかく大変なんです。それで結局、現れてくる結果が「不満」なんですね。(次号に続く)