根本仏教講義

15.もうひとつの生き方 II 1

生きる目的を自問していますか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月から、新しいお話に入ります。テーマは、ごく一般的な、普通の生き方について、ということになるでしょうか。それを仏教的に分析してお話ししてみたいと考えています。

我々は、どう生きるべきか、という永遠のテーマに、仏教ではどのような答えを用意しているかということなんですね。このような『疑問』は、普通の生活の中でもたびたび出されますね。これをもっとわかりやすい言葉に換えて言うと、「我々は何のために生きているのか」という、大きな人類の疑問なんですね。人間の中には、このような疑問を持つ人もいるし、まったく持たない人もいます。

生きる目的に気がつかない人

このような疑問は、自分に対して投げかけるべきものです。自分に問いかけようが問いかけまいが、それは別にかまわないのですが、一部の人は、あまりにも忙しすぎるために、そのような疑問を持とうともしない、ということがあると思います。生きることに本当に忙しいのです。仕事や生活のことや、朝から晩まで、必死になってやらなくちゃいけないことだらけで、あまりにも忙しいので、自分が生きているという実感もなく、ただただ忙しさに追われて生活しているんですね。ですから、そんなことを考える暇もないのです。余裕がない。このような人々が一方にいます。

またある人々は、ただ単に流されてぼんやりと生きている。別に何の疑問も不満も感じることなく、言われるとおりに生き、言われるとおりにやって、それなりに何とか生活している。生きることに『溺れる』ような感じで、ともかく仕事があればよいのではないか、家族がいればよいのではないか、ご飯を食べられればよいのではないか、よく眠られればよいのではないか、病気にならなければそれでよいのではないかと、ただただ、食べて寝て死ぬまで生きている、それで満足しているという人々。一見幸せな人間ではないかと思われるかもしれません。しかしそのような人々は、あまりにも鈍くて、智恵がなく、何か壁にぶつかったときには、何の対応もできなくなります。そうなると今までの幸せが一変して、不幸のどん底に陥ることも避けられません。

生きる目的を問いかけてみる人

では逆に、自分が何のために生きるのかを考えようとする人とは、どのような人間でしょうか。彼らを見てみると、これも二つに分けられますね。片方は、いろいろなことをやってはみるがうまくいかない。失敗ばかりする。そうして失敗が積み重なると失望する。そこで、自分は一体何のために生きているのだろうかと、自分に問いかけたくなるのです。

また、もともと生きる勇気がない人々もいます。何かにチャレンジする勇気がない。精神的に弱い。また負けるのも怖い。このような状態ですから、その逃げ道として「何のためにそんなことをやらなくちゃいけないのですか。何のために我々はそんなに必死になって生きていかなくちゃならないのですか」と、疑問は投げかけてみるのだけれど、このような場合は結局本気で考えているのではなくて、一つの逃げ道として、自分の弱みを隠す方法として、考えているのです。

ではもう片方の人々はというと、チャレンジしたくないからとか、負けるのが怖いからとかいうことではなく、考えている人々です。人間は一体何をやっているのか、私たちは生まれてから死ぬまでずっと、なにをやっているのか。そんなに大事な意味があるのだろうか。…そんなことを疑問に思うシャープな心があって、シャープな視点で考える人々。

いま私は、人間を四つに分けて考えてみました。まず何のために生きているかを自問する人としない人に分け、それぞれをまた二つに分けてみました。

人生の目的は『楽しみ』か

「何のために生きるのか」という問題については、やはりお釈迦さまも考えられました。何とか解答を見つけだそうと、社会のあちこちを見渡して、人生とはどのようなものかを、徹底的に観察し、いろいろな研究をしてみたのです。人間にはいろいろな目的があり、その『目的』についてはよく実験もしました。

一番わかりやすい目的というのは、「まあ、楽しければそれでいいのではないか」というものです。そして、楽しみを追っていく人生。世の中の多くの人は、そのように楽しみを追っていきます。しかしその場合も、何が楽しみかということがはっきりしないのですね。

お釈迦さまは、自分について考えると、楽しみとは、目でいろいろなものを見て楽しむ、耳でいろいろなものを聞いて楽しむ、舌でいろいろなものを味わって楽しむ、鼻でいろいろな香りを感じて楽しむ、身体に触れるいろいろな感触を楽しむ、それから本を読んだりいろいろなことを考えたりして楽しむ、それだけのことだと認識しました。しかし残念なことに、一般の人々はそれがわからず、ただ外の世界をずっと追いかけていくんですね。それで、がむしゃらに生きることに耽ってしまって、何のために生きるのかわからなくなっちゃうんですね。

人生の手段が目的になる

たとえば、楽しむために金を儲けようとする。するといきなり、「金を儲けなければならない」という概念で頭がいっぱいになってしまって、何のためだったかということを忘れてしまうのです。忘れてしまって、とにかく儲かればいいのではないかということに突っ走ってしまうんですね。それで結局、自分の楽しみも失ってしまうのです。見失うんですね。財産を増やそうとして、そのために自分の時間がなくなり、寝る暇もなくなり、家族と一緒にいる暇もなくなり、余裕がなくなって、ただ大変な苦しみを味わうことになってしまうのです。

このようなパターンは、みんながやっていることです。それを突き詰めていって、結局我々は自然を破壊し、地球まで汚染し、破壊して、もう逆戻りできないところまで破壊し尽くしてしまうのです。そのような人に「今まであなた方は何をやってきたのですか」と聞くと、「人間に楽を、楽しみを作ってあげたのです」と答え、「どうですか。今の世界はすごいでしょう」と威張ったりもするのです。「今の科学の進歩は、医学の進歩は、ものすごい速度でしょう」と、自慢したりもします。

しかし、それは我々人間にとって何か役に立っているでしょうか。そのことによって人間は楽に生きられるようになったでしょうか、ということなのです。よくよく考えると、そうではないはずです。飲める水がなくなり、身体によい食べ物がなくなっただけではないでしょうか。遺伝子工学で、自然にないものを作って食べさせようとしている。たとえば豆腐があります。それは健康を考える人にとっては最良のものだと思います。その豆腐を食べているんだと威張ってみたところが、もしかするとアメリカで遺伝子工学的に作った大豆も混じっている可能性が大いにあります。近年の豆腐は美味しいでしょうか。本当に自然にできたもので、人間が余計な欲の手を加えなかったものは、工業的につくられたものよりものすごく美味しいと思います。我々が発展を求めて、改良を加えはじめたときから、その美味しさはなくなったんですね。

夏に暖房をつける『欲』の構造

現代のような『欲』を追いかける世界では、人間は、眼耳鼻舌身意によって楽しむものであるという原則を忘れてしまったんですね。そして大変無茶な生き方をしている。それは現代人だけではなくて、お釈迦さまの時代でも同様でした。昔の時代にも、大金持ちがいました。その大金持ちは、何をやっているのかと言えば、朝から晩まで金儲けに奔走しているのです。一体どういうことなのでしょうね。 暖房があるからといって真夏にでも暖房をつけているような感じですね。お金があってもとにかくさらに金を儲けなければならない羽目になっています。

お釈迦さまの弟子に、若く美しい人がいました。20歳くらいで出家して、すべての『楽しみ』『楽』から離れて生活しているのです。大変な美男でしたし、ある王様がそれを見ると、何となくかわいそうに思えたんですね。この若者は、元気に仕事でもして金を儲けて、結婚でもして遊んで生活すればいいのではないかと思われたのです。そこで「あなたは若いのに、そんなに苦しまないで、もうちょっと楽しんではいかがですか。人生を楽しんで、その後で修行でも何でもやればよいのではありませんか」と言ったのです。するとその若者は、答えるんですね。「あなたがたのしていることのほうが、苦しみなんですよ。人間には、自分が何をやっているのかがわからないのです。たとえば美味しいご飯を食べたときには『ああ美味しかった』と満足するのではなくて、『もっと美味しいものはないか』と探しているのではありませんか。お金を儲けても、さらにまた儲けなければならないと考えていませんか。一体、このような欲望に終わりというものがあるのでしょうか。王様が、小さな国の国王になったら、これでは足りない、隣の国も手に入れたいと思って、隣の国へ攻め込んでいくのではありませんか。どこまでやれば気が済むのでしょうか。のどが渇いている人が塩水を飲むようなもので、欲にはきりがありません。同様に怒りにもきりがありません。ただ無茶苦茶に生きているだけで、苦しみは大きい。だから、私は違う道を選んでいるのです」。このような 逸話を見ると、今も昔も、人間は同じなのだなあということがわかると思います。

現代もまったく同じです。強くなって他の国へ攻め入ることは、現代社会では少しむずかしいですから、その代わりに他の方面で侵略しよう、支配しようとがんばっているのです。何のためにやっているのかも、よくわかっていないのです。世界で一番強い国になった、経済大国になった…それで、果たして人間が幸福になれるのでしょうか。せっかく目指してきた『楽しい』人生に近づけたのでしょうか。実際には楽しみが減り、心配が増え、怖いことが増えてビクビクしながら生きなければならない社会になっただけではないのでしょうか。

蜃気楼を追う人生

このように、一般の人々の生き方というのは、蜃気楼を追う動物のように無意味だと、お釈迦さまはおっしゃっています。走って走って、いくら追いかけても先へ逃げていく蜃気楼。空が地面に映って水のように見える。湖と勘違いするのだけれども、そこにあるのは水ではなくて、ただの暑い砂漠のみ。そのような状態です。

一方で、その反対の道を歩もうとする人々は、現在生きている世界を否定してみようと考えたりします。普通に家族をつくって、仕事をして、それなりに生きている一般的な世界を否定して、いわゆる『出家主義』を語るんですね。全部捨てましょうと言うのです。そこで、宗教や哲学が出てきたりします。たとえば、身体なんてどうでもいいものだから魂のことを考えましょう、魂は永遠のものですよ、あるいは誰かに創られたものなので、その人にすがるのがよいのですよ、と言ったりする。そんなことを経験したわけでも見たわけでもないけれど、現実の世界を否定する人々は、そのようなことを言う。あるいは、神秘の世界を追い、迷信にはまり、行をやったり占いをやったりするのだけれど、結局何も得られないで、苦しんで終わってしまうことになるのです。

ですから、世の中を肯定するのでも、否定するのでもなくて、何か別の道があるのではないかと考えなくてはならないのです。(この項続く)