15.もうひとつの生き方 II 6
大人になる道
先月は、貪瞋痴を内包した子供のまま大人になるのではなく、身体の成長、年齢とともに、こころも大人になるべきだというお話をしました。貪瞋痴とはまったく異なる『もうひとつの生き方』について、具体的なお話を始めたところでした。
では『大人』とはどのようなものなのでしょうか。
こころの大人は、圧倒されるような存在感を持っています。居るだけで社会に良い影響を与えます。こころの大人ほど、役に立つ人はいません。大切なのは、経た年月ではなく、こころの成長の度合いなのです。いくつかの例を見てみましょう。
こころの平安が持つ力
仏教界では、智慧の第一人者はサーリプッタ尊者です。仏弟子になる前にも、インド社会においては一流の知識人でした。インドのすべての宗教哲学にあきてしまったサーリプッタ尊者が、真理を求めて遊行を始めたそのとき、悟りを開いて間もないアッサジ尊者に突然出会いました(アッサジ尊者はお釈迦さまの最初の5人弟子の1人です。サーリプッタ尊者のようなケタはずれの知識人ではなく、もとは普通のバラモン人でした)。アッサジ尊者の歩く姿が目に入っただけで、サーリプッタ尊者のこころは驚きました。きっとこの人は真理を発見しているのだと思いました。アッサジ尊者にはサーリプッタ尊者に仏教を教えるはどの知識能力はなかったのですが、彼の一言を聞いてサーリプッタ尊者は預流果の段階の悟りを開きました。ケタはずれの知識人もこころの大人にはかなわないというところでしょう。
次に、仏教を世界宗教に発展させたアショカ帝王の例です。インド史上で初めて、全インド半島を統一して支配したのはアショカ王です。このために、残酷な侵略も数十万人以上の殺戮も行いました。激しい殺戮を繰り返しながら南インドを侵略していたとき、王は突然、自分の行為に疑問を抱き、落ち込みました。残酷な侵略行為のみ続けてきた自分の生き方はあまりにもむなしいと悩み始めたのですが、彼を救うことは誰にもできませんでした。
そのとき、宮殿の窓から小さな子供が見えたそうです。出家してひとりで歩いているその子の姿が、子供であるにもかかわらずしっかりと落ち着いて、何一つの焦りもなく、平安を感じさせたのです。アショカ王は「ああ、この子は幸せだなあ。平和で、安らぎを体得しているのだなあ…」と感じ、宮殿の中に呼び寄せたそうです。インドでは、どのような宗教の行者でも尊敬します。アショカ王は、子供ではあるが出家しているこの子をどう扱ってよいのか迷って、「適当なところに座りなさい」と言ったそうです。この子はすでに阿羅漢でしたから、一応まわりを見回して、自分よりさらに上の“こころの大人”が誰もいないことを確認し、そして何の躊踏もなく、王様の手をつかんで王座に座ったのです。アショカ王がインドの帝王であることを気にもとめず、ひとりのおじさんと一緒にいるように、堂々としている子供の姿のなかに、王は『巨大な平安』を見たのです。そして、その教えを学ばなくてはならないと強く感じたのです。
それから彼は、熱心に仏教を学ぶようになりました。そして、ある日、宣言したのです。「私は今日から戦争をしません」と。国を広げることは無意味であり、それよりは人のこころに平安をもたらすことが王の仕事であると宣言して、仏教の布教に励んだのです。彼のおかげで仏教は世界中に知られるようになりましたし、彼の名も知れ渡りました。私の母国スリランカが仏教国になったのも、アショカ王の布教の結果です。
このように、こころが落ち着いた人がひとりいれば、すばらしいことが起こるのです。貪瞋痴の代わりに逆のエネルギーを作れば、しっかりした明確な智慧が生まれてくるのです。そうなれば、そこに限りない幸福があるのです。ひとりでもふたりでもその道を見つけたなら、大勢の人の役に立つのです。
我々が現代を生きる人々に言うのは、激しく見栄を張って競争するのではなく、智慧を絞って、落ち着いて生活してみてはいかがですかということです。
真理に正直に頑固に生きる
たとえば、経済状況が悪いからといって嘆いているばかりでは、何も変わりません。どこまで悪くなるのだろうと嘆きながら、うまくいくまで口を開けて、空を見上げて待っていても意味がないのです。
自分たちの行為で経済状態が悪化したならば、自分たちの力でやり直さなくてはならないのです。ここまでは誰でもわかっていますが、こころが貪瞋痴で弱体化しているので、行動力が出ないのです。チャレンジできないのです。怖くなったり、自信を失ったりします。あるいは子供のように嫌だとか好きだとか、そんな基準で無茶をします。それは子供っぽい生き方ですね。やはり精神的に大人になる必要が、誰にでもありますね。
よく、正直に行動できると自信がつくという話が聞かれます。しかし、精神未熟者の正直は問題です。こころは貪瞋痴のみですから、自分の気持ちに正直に生きるということは、危なくてしょうがないことなのです。だからといって、嫌なことを我慢してしまうと、ストレスが爆発する危険性もあります。どちらも極論です。そうではなく、これをやれば自分は幸せになれる、同時に他人も幸せになれる、そういう道を探して実行していく、そのように生きていけばよいと思います。
先ほど『正直』について言いましたが、もう少し付け加えると、『こころが育っていない人間の正直さ』は危ないのです。生まれつきあるのは貪瞋痴ですからね。生まれたままの気持ちに素直では、危ないのです。ですから、人間は成長しなければなりません。『成長すること』に正直になるのだと、貪瞋痴に負けず、欲を克服するのだという気持ちを作って、それに正直に生きていかねばなりません。欲は征服すべきものであって、欲に征服されてはなりません。悪いこと、自分が損すること、また他人が損することは、何があってもやりませんと、そういうところで頑固になればよいのです。
何に対して頑固なのかといえば、それは真理に対して頑固なのです。真理とは正しい生き方のことです。神様が作ったもの、あるいは他の誰かが作ったものではありません。真理とは、自然のありのままの法則です。神のため、国のため、民族のために死んだら天国へ行くのだといった信念は、真理ではありません。真理とは、実証できるもので、誰にでも体験できるものです。たとえば、悪いことをしてはいけませんという真理。来世があってもなくても、悪いことはしてはいけないのです。怒ってはいけませんという真理も、来世があろうとなかろうと関係なく真理なのです。威張ったら、高慢になったら、自分も気分が良くないし、他人も嫌な気持ちになる、そういうことが真理なのです。ですから、明快な真理に基づいて、その真理を守るために頑固になり、正直になる。そういう正直さが大切なんですね。それを続けていけば、やがて素直になる。どんどん素直になっていくのです。元々はこころに毒をたくさん持っていますから、この毒抜き行為は最初はちょっと苦しいのです。しかし、どんどん毒が消えていくと楽になって素直になって、たいへんリラックスして生きられるようになるのです。
泣きながらでも善いことをする
こころを成熟させて大人になるために、もうひとつ方法があります。それは慈しみの実践です。人間はもともと慈しみの気持ちを持っていないのです。
他人のことは嫌いなのです。しかし、他人を嫌うと自分も嫌われて、自分の幸福が消えますから、涙を流しながらでも慈しみは育てるべきです。
お釈迦さまは、「泣きながらでも、善いことをしなさい。悪いことをやめなさい」とおっしゃっています。「泣きながら」というのは、とてもいい言葉ですね。なぜならば、もともとやさしくするよりは相手を殺したいという気持ちの方が正直です。仕事をしてお金を儲けるよりは、どこかにあるものを奪う方が簡単です。それが本来の気持ちなのです。ですから、泣きながらでも、嫌でしようがなくても、善いことをして生きなさいと、お釈迦さまは戒めるのです。それが勇気ある生き方です。
たとえ嫌でも、悔しくても、貫かなければならないのです。たとえば誰かが私に「国のためだから敵を殺せ」と言ったとします。「いえ、敵にも幸せでいて欲しいですから、絶対やりません」という立場をとらなければなりません。平和な人が平和な人を殺そうということは普通ありません。でも人間というのはこころが弱いのです。欲があり、恐怖感があって、誘惑されやすいんですね。欲、怒りに誘惑されて、人を殺すことがありえるのです。ですから、苦労しながらでも、誘惑されない勇気を持たなくてはいけないのです。
わがままで、慈しみのこころもなく、自分本位で生きているにもかかわらず、やっぱり自分が幸せでありますようにと願ったりする。幸せになりたければ、「嫌いな人も幸せでありますように」と願うように努力する必要があるのです。それは、正しい道です。そうするとどうなるかというと、どんどん嫌な人が消えていってしまうのです。たとえば、人が自分のものを欲しがって何か言うと、この人はとんでもない人だ、私からものを奪おうと何か企んでいるのではないか…そういう気持ちが生まれてこなくなるのです。「ああ、この人はこれを欲しがっているのだ」と感じるだけなのです。怒りではなくて、「ああ、あなたはこれを欲しいのですね。しかし、私にはこれしかないし、困ったねえ」という風になるのです。あげてもいいのですが、あげられない場合には、相手にもそれがあればなあ、というやさしい気持ちが生まれてくる。そうすると、相手は嫌な人ではなくなるのです。もっとこころが育ったら、「私ではなく、あなたが使っても、私は楽しいです」と、それをあげてしまいます。
とにかく、どんな生命を見たときにも、いっしょに生活している命ではないかと感じられるようになれば、素直な生き方になるのです。そういう人々にはかすかな不幸も訪れません。それは極度に素晴らしく、絶対的な幸福に出会える道なのです。これは今の世の中で行われている道ではないのです。ですが、今の世を否定することも、肯定することもなく、仏教が語るもうひとつの道を見つけなければならないのです。(この項終了)