根本仏教講義

16.無常について 4

無常が幸福に転換する①

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「一瞬先のこともわからない」ということを理解すること、それが『無常』の理解であると先月はお話ししました。言い訳を探したりして事実から逃げることなく、科学的に因果関係を理解すること、それがこころの安らぎを保つ『無常の理解』であるという話をしましたね。

人は事実を否定する

太陽が地球の周りのまわっているのではなく、地球が太陽の周りをまわっているのだと言った人は死に追いやられました。なぜかというと、当時の人たちは事実を認めたくなかったのです。現代の私たちは、「昔の人はバカだなあ」と笑っていますが、実は笑っている場合ではないのです。人間は今も、同じようなことを続けているのです。こころで事実を否定し続けているのです。そして、事実を否定することで苦しみが生まれているわけです。単純なことなのです。

たとえば私にはお金がある、ずっと金持ちでいられる、と思い込んでいる場合。実際にはすべては無常なのですから、一瞬先のことはわからないのです。たとえば株に投資していたとして、一千万持っていたお金が明日には百万になっている可能性もあります。そこで事実を否定する人は、心臓発作を起こして死んでしまう。でも、事実を認める人なら、「ああそうか」ということで、それきり何の影響も受けないのです。

今日はウナギを食べるぞと思って出かけたけれど、財布を見ると500円しかない。それならおにぎりにしよう、とすぐに変更して、平安な気持ちでいられる。事実を認めたくない人は、がっかりしたりイライラしたり人に当たり散らしたりする。

仏教の悟りというものは、物質的に豊かになってもこころに喜びを感じるし、すべてを失っても喜びを感じるものなのです。

結婚できたといって「ああ、よかった」と喜びを感じる。せっかく両家の両親や親戚も招いて盛大な結婚披露宴を行ったのだけれど、半年間で壊れてしまったが、それで離婚できてよかった、と喜びを感じる。何があろうともこころには、一定の喜びと落ち着きがある。それしか『無常』のなかでの喜びはあり得ないのです。

「もうちょっと」を求めるこころ

何かで『完璧』になることは不可能です。美しさで完璧になることは不可能だし、健康で完璧になることも長生きで完璧を達成することも不可能です。『完璧』などということ自体、非科学的な考え方なのです。たとえば『美しい』というのも人間の勝手な尺度であって、決まりはありません。『長生き』といっても、どれくらい生きられれば幸福かという決まりはないのです。健康という定義も、体重、血圧、それぞれに決まった数字があるわけじゃないし、本人の状態によっても違うし、ヨーロッパの人と南アジアの人では違うし、これぐらいであれば健康という決まりはありません。このような『完璧』の求め方は、根拠のない考え方だということがわかります。財産にしても、あれば幸福だと皆思っているでしょうが、一体どれくらいあれば幸福と言えるのでしょうね。このような幸福の求め方は、すべて曖昧で中途半端で、非科学的です。

もっとわかりやすいのは、自分の子供のことでしょう。子供自身は一生懸命にがんばっていい子にしていても、親にしてみれば「もっと良くなってくれれば」という気持ちでいるのです。親子関係というのは、ずっとそんな調子なのです。親はいつも自分の子に「しっかりしなさい」と叱っている。そこで子供の気持ちはいくらやっても不安のまま。いくらやっても足りない。そしてやがて、その子が自分の子供を持っても、同じことを繰り返してしまいます。両親から「勉強しなさい」と叱られて、反抗していた子供が、自分の子ができた途端に「遊んでばかりいるんじゃなくて勉強しなさい」なんて、同じことを言うんですね。

人間というのはそのように、苦しみだけは大事に続けていくのです。幸福をまったく見ようとせず、こころはいつも「もうちょっとあればいい」と、何かを望む。「もうちょっと」と言っても、決まった幸福の基準があるわけではないでしょうに。

私が新幹線でどこかに行こうとして、切符売り場で「新幹線の切符をください」と言えば、「どこまで?」と聞かれます。「どこかに行きたいのだからとにかくください」と言えば、「あなた、病院へ行ってください」ということになるでしょう。その場合は『決まり』があるのです。「博多までの切符をください」と言えば、それは科学的で、問題はそこで終了します。切符売り場で「どこかに行きたい」と言うのは、病気でしょ。私が、我々のこころを病気だと言うのは、それとまったく同じことだからなのです。「もうちょっとあればいい」というのは、病気の概念なんですね。

人間の身体は、ときに10年、20年、あるいは40年、病気にならないことがあるが、一瞬たりとも病気で悩まないこころはない、とお釈迦さまはおっしゃいます。しかもそれを解決する智慧がまったくなく、完全な無知である。

お釈迦さまは大変親切ですから、ここで悪口を言う代わりに、我々の無知を破って、事実をそのまま認められるこころ、落ち着いた立派な人間になる方法を教えておられるのです。それは『観る』という方法です。

変化という事実を体験する

ヴィパッサナー瞑想というのは、いわゆる『瞑想』ではありません。ヴィパッサナーの『ヴィ』は「明確に、分別して、極めて」という意味です。『パッサティ』というのは「観る、観察する」という意味。

「明確に観る」ということは科学者も行ってきた手法です。具体的に観察することで科学は発展してきました。科学というのは、すべての真理を解き明かしてはいないでしょうが、決して嘘でもないですね。科学の真理が正しいから、私は新幹線で行き来できるし、飛行機で母国との行き来もできるのです。

物質の世界を明確に客観的に観察するように、こころの世界を明確に観察することで道が開ける可能性があります。ここで、無常を体験するものは苦しみを終了する、というお釈迦さまの言葉を思い出すことができます。

たとえば、足が痛いと思っても、それは無常です。痛みというのはなんらかの実体ではなく、ただ身体に圧力がかかったり形が変わったりして出てきたものです。我々は、無常だからこそ病気にもなるし、病気が治ったりもする。無常だから、子供はじりじり成長するし、大人になっていく。同様に無常だからどんどん歳をとって、老人になって、しわくちゃになって、死んでしまいます。

我々はときどき、「ああ年をとって嫌だ」などと言いますが、ごく普通のことなんです。歳をとると関節は痛いし、食べられないし、消化できないし、いろいろ苦しいことが増えてきます。でも、同じ速さで変化していっているだけなのです。赤ちゃんが成長していくのは幸福でありがたく、30歳、40歳になったら、ありがたくない、不幸だなんて、妙な話です。変化のスピードはストップしないのです。逆に変化しなければ、大問題です。ご飯を食べても変化がないとなれば大変なことです。生きているということもできません。ですから、冷静な気持ちで変化するということを体験する。それで、苦しみは終わるのです。

不幸の道を歩き、幸福になりたがる人

変化しない実体はありません。からだが死んでも死なない『魂』なんていうものはない。変化しないように思えるのは、思い出のせいなんですね。いろいろ記憶していますから、過去の出来事を覚えているし、人の名前を覚えているし、時に自分の名前や生まれを覚えているでしょう。だから錯覚を起こしてしまうのです。

それを解決するには、名前を変えた方がいいかもしれません。赤ちゃんには一つの名前、1歳になればまた違う名前。人は刻々と違いますからね。5歳になれば、赤ちゃんの時とはまったく違う存在ですから、違う名前をつけた方がいい。そうすると、誰が誰だかわからなくなっちゃいますね。すると、『魂』なんて変な考え方はなくなるのではないでしょうか。でも、普通の世界では、それは無理なことですからね。

といっても、記憶そのものも、ずっと継続しているわけではありません。私たちは、小さいときから今までやってきたことの中では、ほんのわずかしか覚えていません。ほかのことは全部忘れているんです。ふたつ、覚えているんですね。一番都合が悪かったことと、一番都合が良かったこと。どちらも精神的な問題の原因となる記憶です。

都合良かったことは、自慢したくなり、高慢になって自我を忘れる。都合悪かったことは忘れられず、自分を責めて悲観的になる。どちらも、自分の人生を不幸にしてしまうのです。

ですから、せっかく覚えているものでさえも、幸福の役に立たないのです。やっと役に立てているのは、勉強した部分だけなんですね。勉強した部分でも、95%くらい忘れていて、5%くらいやっと覚えていて、それでなんとか仕事をして、食べている場合がほとんどです。

自慢するならば、自分の失敗を自慢すれば、悲観的にはなりません。隠したいなら、自分の成功は隠しておく。それは立派な性格なんですが、人間というのはそれをやらず、失敗したことは隠しておいて、どうでもいいような成功だけは自慢して、そのことによってまた、性格は崩れていきます。自慢話ばかりする人は嫌みでしょう? 逆に、失敗談や自分の弱みを、なんということなく話す人には愛情が生まれてきますね。信頼できる、やさしい人だと。

でも人間は、その逆、やってはいけないことばかりやっていますね。結局幸福の道を知らないのです。では、不幸になりたい人は手をあげてください、と聞いてみても、手をあげる人はいません。自分で幸福を否定した生き方をしていながら、気持ちだけは幸福になりたいと思っている人が多い。それはあり得ないのです。

その矛盾を正す道が仏教であって、遠い昔のお釈迦さまの論理ですが、実に現代的な教えですね。(この項続く)