18.ありのままを観る智慧 1
智恵を妨げるもの①
智恵というのは、それぞれの場ですぐにあらわれなければいけません。そのためには、我々の智恵を妨げている固定概念やいろいろなものを、何とか解決しておく必要があります。ありのままを知る、真理を観る智恵はどのようなものか、瞑想を通してどのように得ていくことができるのか、今回から考えていくことにしましょう。
アイスクリームはおいしいか
アイスクリームを食べるとき、皆さんはどうしてあんなに早く食べるのか、不思議に思います。アイスクリームというのは、できるだけゆっくり食べた方が味がわかるのです。あんな風に凍ったままで舌の上にのせても、舌が麻痺して味はわかりません。だから私がアイスクリームを食べると、食べ終わる頃にはもうほとんど溶けているくらいなのです。糖分ばかりでカロリーが高くてコレステロールだらけで、そんなに体に悪いものなら、せめて味くらい楽しまなければ損です。無理して詰め込む私は「おいしい」というより「苦しい」と感じるのです。溶けてくると私に味がわかるということは、「アイスクリームはおいしい」ではなく、ある条件下で「おいしい」ということです。それが皆にも同じことだとは決して言えません。実際には、どんな条件の中でも、アイスクリーム自身が、自分の味と香りを持っているのです。あまりにも冷たくて、固くなっているとき、味と香りが逃げたわけではなく、私個人の舌でそれを感じられないだけです。そこにある味や香りが舌に伝わらないのです。
ということは、私たちの身体には、外の世界のありのままの姿が伝わらないということです。同じ論理で考えると、アイスクリームが溶け始めたときに私が感じる味が正しいと、どうしていえるのでしょうか。それはあくまでも人間(私)の偏見です。人間の舌の温度はある程度決まっていて、我慢できる温度もある程度範囲が決まっているのです。その条件の中であるならば、食べるものは美味しく感じられるのです。もし、マイナス20℃のものをぱくぱくと食べられる舌をもつ生き物がいたら、アイスクリームを見て「これはちょっと温かすぎる」と言うかもしれません。もうちょっと冷やした方がおいしいのだと言うかもしれません。このような場合は、この生き物が感じる味は、我々が感じる味とずいぶん違うはずなんですね。そのような生き物がいるかどうかは別にして、論理的に考えてみるとそうなるのです。
ヴィパッサナー瞑想というのは、真理の世界を見せようとするものです。あらゆる条件の中で、主観的にものごとを判断して、その知識こそ正しいと思 っている人間にはちょっと不思議に思えるかもしれません。
宗教といえば、非論理的で非科学的で、信仰する世界だ、お祈りする世界だと思われる傾向があります。非科学的で非現実的な世界だと思っている方々は、何か神秘的な世界を目指してふんばっているのです。それで、ナンミョーホーレンゲキョー、ナンマンダー、ナムアミダブツ、オームマニパドゥメーフーム、オームナマックシワーヤなどと何とか唱えて太鼓をどーん、あるいは、ハレーラーマー、ハレークリシュナーと歌って踊って麻薬を吸って陶酔する、そのような行を行って精神世界に入り込もうとするのです。ヴィパッサナー瞑想は、これと逆の道だと理解した方がよいと思います。
また、インドの寺院というのは、ものすごく頑丈な石でできた建物で、窓もなく、油で 1000も2000もの灯をともし、ものすごく温度が上がって、火のせいで酸素がなくなってしまっている。鈴を何百個も並べて激しい音を響かせ、呪文やマントラやを唱える中にいると、幻覚に襲われ、意識がなくなって倒れる人がけっこう出てくるのです。酸欠で倒れるのですが、「神の力だ」と言う。
幻覚を起こして無茶苦茶にしゃべると「神の言葉だ」ということになる。酸欠状態を作って、神経を麻痺させ、何か、幻覚、幻聴を作ったり、うわごとを言わせたりする、というセットは、世界中どこにでもあるのです。酸欠状態と強烈な音、暗闇、あやしげな雰囲気…。日本にも似たようなことがあります。日本の宗教道具はつくりがいいですから、音の響きがよくて、効き目は早いと思います。身体全体が振動して、肝にまで響くのです。だから、精神が麻痺しやすいのです。大太鼓の伴奏も加えると、瞬時に気持ちよくなることでしょう。そうすると、宗教の世界だ、精神の世界だ、神様が乗り移った、すごいチカラがあるのだと信じ込む。
これに対しヴィパッサナーでは、知識人らしく眼耳鼻舌身意の機能はいかなるものかと観るのです。主観的な概念の世界を見破って、ありのままの真理を発見できるまで努力するのです。
バラがきれいでなぜ悪い
バラの花が見えたとしましょう。「なんて美しい花でしょうか」と瞬時に感動します。それが事実だと納得します。しかし、ヴィパッサナー瞑想では、どのように観るのでしょうか。まず「見えた」と認識します。それから「あれはバラの花だと判断した」あるいは「バラの花だと思った」と認識します。感動したならば、「感動が起きた」と認識します。このように、順序正しく、認識、知識、感情が生まれる過程を観るのです。
「何とややこしいやり方でしょう」と思われるかもしれません。納得がいかないのです。「だって、バラの花だもん」という感じがあるのです。そして認識が早くて鋭い自分にとって「きれいなバラだ」と感じてしまうのは何が悪いんだ、と思うのです。「だってきれいなんだもん」と、ヴィパッサナーの観察方法に対する抵抗が、自然にこころから湧いてでてくるのです。自然に湧いてくる感情の世界を崩そうとすると、多くの人が実践そのものを嫌になるのです。
この感情を作る部分を破ることは、ものすごくむずかしいのです。無知の壁を破ることは、実に大変なことなのです。それは、今まで生きてきた土台ですからね。感情があらわれる過程を発見することに何の危険もありません。バラの花を科学的に観るようになって、困ったという人はひとりもいないのです。ただ、苦しみが消えるだけのことです。感情の世界から抜け出せない人に、悩みがあり苦しみがあります。束縛が増えます。
人間は感情でものごとを観て判断するのです。鳥の声を聞いて「きれいな鳥の声」だとする人間の判断は、人間だけの偏見です。鳥は、威嚇して鳴いているか、脅えて鳴いているか、悲しくて鳴いているか、寂しくて鳴いているか、求愛の喧嘩か、声だけ聴く人にはわかりません。ただ自分の主観で、美しい声だと判断します。客観的にいえば、これは妄想です。妄想から妄想、また妄想から妄想を作ってい ったところで『文化』というものが生まれます。
山も、中に入れば、単なる居心地悪い危険なところなのです。しかし、遠くから見れば、たいへん美しいものです。
美しいと思われたところまでは、問題はありません。人間の脳裏に美しいと映るのは避けられない。この妄想から生まれる次の妄想が、問題なのです。「なんて、美しいのでしょう」と、隣にいる子供に「ほら、見てごらんなさい、きれいでしょう」と教えてあげる。子供は「ふーん」と、ただそれだけ。すると、この子は本当に鈍感だなあ、何で感動しないんだろうと思って不機嫌になる。その時点で自分の主観を正しいと思って他人に押しつけた犯罪を起こしているのです。人間が妄想から妄想へと妄想して、さらにそれが事実だと思いこんで、他人に押しつけることから、あらゆる問題が起きてくるのです。戦争も、テロ行為も、起きるのです。
アダムとイブはなぜ生まれたか
日本では、富士山に登って日の出を拝みます。世界中のどの民族でも似たようなことをします。インドネシアやフィリピンの火山なんかも、神様として拝まれている。この神の妄想を、さらに妄想し続けると、絶対的な神を合成することができるのです。それから、絶対的な神が存在すると他人に言い張るためにありとあらゆる情報を駆使し始めるのです。
たとえば、ユダヤの人は、当時自分達のことしか知らなくて、神はアダムとイブという二人の人間を最初に作ったと言い出したんですね。その頃には、中国でもインドでも文明が発達していましたから、ほかの人種も見たことがあれば、「あれ? アダムとイブだけで、どうやってこのような違う人間が生まれてくるかなあ」と考えたでしょうけど。それができればよかったのにねえ。
洞窟や洞穴に隠れていると、妄想する原因も余裕もいくらでもあるわけです。神の声を聞いたりするのは、たいがい、洞窟やなんかに隠れている人でしょ?
新宿なんかにいる人には神の声は聞こえません(笑)。でも洞窟に一ヵ月いると聞こえるのです。
宗教や哲学や超人間的なことなどは、やっぱりすべて妄想から飛び出して来るんですね。
これをちゃんと理解していくと、頭の中にある荷物は、全部きれいに消えていくのです。あらゆる妄想概念に悩まされることなく、鋭く論理的にしゃべることができるようになります。
妄想と集中力の話
ところで、瞑想の世界では、『妄想』ではなく、『集中力』を育てます。その過程で、普通と違ったいろいろな聴覚、視覚が生まれることもあります。ある程度集中力が育ったときの認識ですので、かなりインパクトが強いのです。修行者はこの経験は真理の世界だと簡単に間違えます。仏教はこの経験を認めますが、ありのままの真理だとはいいません。この間違いの修正は、むずかしいのです。
お釈迦さまが自分の体験をいろいろ話して聞かせたのは、このような人々の問題に対処するためだったのです。いろいろな宗教で語っている超越した体験などが釈尊にもあったのです。しかし、何の認識にも執着しないところまで修行が進んで、悟りを開いたことを語るのです。それを聞くと、何かの瞑想体験に引っ掛かっている人にも、道を正すことができたのです。
妄想から解き放たれ、ヴィパッサナーの智恵がある人には、ちゃんと論理的にものごとが見える。如実にものごとが見えるのです。これからこれが生まれたと、瞬時に因果法則がわかる。ありのままが見えるのです。それが科学的な智恵なのです。そこまで到達したら、その人々は世の中で生きていくうえでも、その智恵を十分に使うことができます。(この項つづく)