19.お受験で知識をはかれるか 6
他人を試験するとき心は傷つく
先月は、世の中にはくだらない試験もあるのだという話をしていましたね。いじめのための試験もあるとお話ししました。
人を堕落させる試験
『見栄の試験』もあります。『落第目的の試験』もあるのです。落第をさせることが目的で、言葉のからくりなどが仕掛けてある。それさえわかればすぐに合格できる試験です。落第させる場合は、相手が答えられない質問を出すしか方法がありません。そんな試験に落第しても、何ということはありません。合格することが必要なら、もう一回受ければいいのです。向こうの目的は落第させることなのですから、何回でもチャレンジすればいいのです。
『受験者を堕落させる試験』とは何でしょうか。たとえば酒をどのぐらい飲めるかとか、30分以内でラーメンを何杯食えるかとか、気持ちの悪い試験ばかりです。何のためにこんなことをやるのでしょう? その人にとってはそれも一つの試験だから、準備をいっぱいするでしょう。最近テレビでよく見るのです。想像できないほどのものを食わせて「あなたが優勝です」とか「あなたは落第です」と。落第して当然。あらゆる工夫をしてたくさん食べるようにしているだけなのですから。また、パチンコで必ず玉が出る技とかね。正式な試験ではないかもしれませんが、それも試験は試験ですからね。あるグループに入ろうとする際、「この人とけんかして勝ったら入れてやる」という場合もある。それもひとつの試験だからけんかをしなくてはいけない。勝てば「よし、入れてやる」と。さらには、ギャンブルで勝つ、カードで勝つという試験もあります。しかし、カードのからくりが上手になればなるほど、人生は危険ですよ。堕落するんです。マジックでからくりを使ってみんなを笑わせるとか、そのようなゲームなら楽しみだから悪くないのですが、本当のギャンブルの世界になると、カードのからくり、ルーレットのからくりをいろいろやっていますからね。それを「うまくやるぞ!」と思ってやるのは、堕落試験。絶対受けてはいけない試験です。そういうのは堕落する試験なのです。
そのように試験にはさまざまあります。皆様が思っている、高校受験だけが試験ではありません。死ぬまであらゆる試験があります。試験は楽しいもの。遊びです。自分に役に立つ試験は受けて、楽しく生きればいいのです。これで世間一般の試験のお話は終了します。
一度も嘘をついたことがない人はいるか
ここから仏教の話になります。人間はよく人を量りたくなるけれど、結局は自分が何者かさえ知らないでしょう。自分が何者かも知らないのに、人を判断する。人を判断するのも試験の一種なんですね。「あの人はインチキだ」「あの人はウソつきだ」「あの人は嫉妬深い」「あの人は性格が悪くて付き合いたくない」……そういうふうに人を判断する。
では、あなたは何者なのか? と自分に聞いてみてください。自分は一度も嫉妬したことがないのですか? ウソをついたことはないのですか? 自分の性格もわからないのに、他人の性格を判断して試験しようとする。人の判断をすることは、ものすごく重い罪だと、お釈迦さまはおっしゃっています。人の判断をすることは無理だし不可能です。真理をわからない愚か者たちがすることですと。
この世の中に、完全な「嫉妬人間」というのがいるわけではないのです。完全な「怒り人間」もいるわけではない。完全な「欲人間」もいるわけではない。ウソばかりつく人間もいないし、逆に一度もウソをついたことのない人間もいないのです。完全な善人もいないし、完全な悪人もいないのです。
では人間とは何なのかというと、その場その場で反応する機械のようなもの、ただそれだけのことなのです。たとえば自分より何かが上手な人に会うと「嫉妬」という反応をする。その人がいない場合はその反応は生まれない。ただそれだけです。
嫉妬した人に「この人は嫉妬深い人だ。イヤな人だ」と言うのはよくない。そんな判断ができるはずはないのです。あるとき怒ったからといって「あの人は怒りっぽい」と判断するのはよくないのです。ある場面に出会って怒ったのであって、違う場面では怒らないでしょう。
たとえば、だんなに向かってかんかんに怒っている奥さんでも、子供が何か言うと「なんですか?」と優しい顔をして聞くのです。瞬時に変わる。人間というのはそういうものなのです。何かについて怒ったからといって、何にでも怒るということはないのです。
もし何についても怒るのなら、これは精神的な病気で、社会でみんなといっしょに生活するのはなかなかむずかしいのです。何にでも嫉妬する、たとえば、犬にも嫉妬する、猫にも嫉妬する、おばあさんにも嫉妬して、自分の子供にも嫉妬するなら、病気でしょう。すぐに人生は終わります。でも、そんな人間はほとんどいないのです。ですから、人を試すなというのです。判断するなというのです。そのようなことをするということ自体、あなたが『無知』ということ、因果法則をわかっていないということなのです。
たとえば子供が喧嘩をしたからといって「やっぱりこの子はいつでも喧嘩するんだから!」と怒るのは間違いです。そんなことはないのです。喧嘩を売る相手がいたからこちらが買ってしまったのかもしれません。また、こちらに喧嘩をする性向があったとしても、向こうが買わなければ喧嘩にならないのです。喧嘩を売る者も買う者も、その両者が出合わないと喧嘩にならないのです。だから喧嘩をしたからと言って『喧嘩好き』と決め付けることはできません。
人は皆「多数」人格者
それなのに、人間というのは何も観察しない。自分が何者かがはっきりわからないので、きちんと観察できないのです。
それで人を判断するのです。これほど世の中で悪いことはないのです。それは、ものすごく重い罪です。そういう人は、人格を成長させることは不可能です。ということは、悟ることもできません。徳を積むことも不可能になるのです。大変、危険なことです。我々はいつでも進歩できるように心構えを持たないといけません。実際に進歩するかしないかは別な話。走るか走らないかということは別にして、とにかくトラックにいないとダメなのです。
それなのに、自分の好き勝手に、「あの人はこういう人」「この人はこういう人」と言って判断することで、自分の首を絞めているのです。人を判断すると全く成長ができなくなるのですから。
「向上したい」「成長したい」「より優れた立派な人間になりたい」と思うなら、人を決め付けること、判断することはやめたほうがよい。いわゆる「試験」をしないほうがいいんですよ。人を試験することは不可能なのです。
今、その人が怒っている。そのときに「あなた、今怒ったでしょう」と言うのはかまいません。その場で怒っているのですから。しかし、だからといって「あなたは怒りっぽい」と言うのはダメです。怒った人も、次の瞬間に笑うこともあるのです。
すべては条件によりけりと理解してほしい。条件によって怒るかもしれないし、嫉妬するかもしれないし、優しい人になるかもしれません。どうにでもなるのが人格なのです。人間の人格とはそういうものです。多重人格ではなく、無数人格なのです。出会うものについて、それなりの顔を見せる。条件が変わればまた変わる。
我々の人格というのは、ジリジリと瞬時に変わるのです。回転する。『変わる』といっても成長するのではありません。人格というのは多数で、ぐるぐると回っているのです。ミラーボールのように、いっぱい面があるのです。小さいミラーボールなら数えられますけど、ばかでかいミラーボールです。つかみきれないほど、数え切れないほど多数人格なのです。
自分が多数人格者なのに、人のことを、一つの人格だけを見て判断することが、どれほど間違っているか。というわけで、試験はよくないというのが仏教の立場です。試験をしない、人のことを判断しない人間になったということは、すごく立派な人格者になったということなのです。ちょっと理解すれば、簡単に得られる人格ですよ。
人はいつ怒るか?
怒ることに出会ったら怒るのだと理解する。なぜ嫉妬をするのか? 自分の持つ能力より何か優れているものに出会ったら嫉妬するのだと理解する。ただそれだけです。子供たちも同じで、その場で喧嘩をしただけで、他の場だったら遊んでいる。人間というのは因果法則だと。条件反射だと。それさえ理解しておけば、すばらしい人格者になれます。
人を量るとはどういうことか
人が試験をする機能に、仏教では「マーナ」という言葉を使います(一般的な試験には別のパーリ語があります)。日本語では『慢』と言います。皆様『高慢』という言葉をご存知ですね。仏教では『慢』だけを使います。『慢』というのは、量るという動詞から作られています。
なぜ量るのでしょうか? これは、エゴなのです。『私が』『私が』というエゴから量るのです。『慢』の中でも、人間にいちばん悪いのは、『アスミマーナ』なのです。『私がいる』というエゴ、自己。それは、修行して、瞑想して悟らないかぎり、破ることはできません。『私がいる』というのは幻覚なのです。
見ると、『私が見ている』という幻覚が起こる。聞くと、『私が聞いている』という幻覚が起こる。『私が』というのは概念ですよ。この概念は化け物なのですが、本物のように我々を脅す。自分を観察しなければ、この幻覚は破れない。アスミマーナ……『私がいる』という幻覚を破ったら、悟りの世界なのです。
私たちは、三つの方法で人を量ります。ひとつめは、「あの人は自分と同じ」「あの人は仲間です」と量る。同じだと思うことも、試験をしているということなのです。『自分』という尺度で、相手を判断しているのです。私と量ってみれば同じだと。それは汚いこと、品がないことと、仏教では言います。量ることはやめなさい。『同じ』だと思うこともよくないのです。
二つめは、自分は相手より低い、劣っているという慢。「あの人は私よりすごい」「私よりかっこいい」「私よりできている」と考えると、気分が悪くなるのです。『自分』という尺度で量ってみれば、相手の方が少し上に見える。そうすると自分が低くなるでしょう。「あー自分はダメだ、あの人はすごい」と思うのです。そう思ってはいけません。品が悪いことです。量ってはいけません。
そしてもう三つめ。「私が上だ」と思うこと。「あの人より私の方が上手だ」「あの人より私の方がきれいだ」「あの人より私の方が力がある」「あの人より私の方ができている」「あの人より私の方が金持ちだ」。そうやってゴチャゴチャと考える。とにかく悪い性格なのです。精神的に暗くなるのです。
だいたい一般的に皆さまが知っているのは『高慢』だけですが、「自分がみじめだ」と思うこともマーナなのです。「私は惨めだ。何もできない」というのは、ものすごく品の悪い人格なんです。それで我々はダメになります。
『自分は偉い』というのもいけないし、『同じ』だと思うこともいけないし、『みんなより自分の立場が低い、卑しい』というのもマーナであって、すべて『私がいる』という自我から出てくるものです。
正しいあり方は、何も思わないことです。食べるときは食べる。話すときは話す。誰かとゲームをやったとき、相手が勝てば「あなたが勝ちました。よかったね」とそれで終わる。「あいつは上手で、悔しくてたまらない。今度は何とかして勝つぞ!」と考えるのはマーナです。
慢があると、自分の心が傷つくのです。心を傷付けてはいけません。このマーナというのは、簡単に破れそうな薄いガラスの入れ物の中に鉄棒を一つ入れた感じなのです。鉄棒を入れて入れ物を軽く揺すると、すぐに入れ物は壊れてしまいます。
マーナ、自我が入ると、心はかなり傷付いてしまいます。成長がなくなります。人間に能力がなくなるのはそういうときなのです。「あの人はよく勉強できていいなあ」と思うと、自分ができなくなってしまいます。自我、エゴがあると、他人を量り、自分のことも量るようになるのです。
最初に「他人を量るのはやめなさい」と言いました。お釈迦さまは「自分を量ることもやめなさい」とおっしゃるのです。それもマーナになるのです。相手を量っているつもりで、量っているのは自分なのです。「あの人は自分よりできてうらやましい」と思うと、それは自分を量っているのです。「この人は私よりダメだ」と思うのも、自分を量っているのです。大変、危険な生き方です。
マーナという煩悩はたちが悪く、完全に悟るまでなくなりません。テキストでは、悟りを四段階で説明しています。四段階目の阿羅漢果にならない限りはマーナがうろついています。そのぐらい、たちが悪いのです。
世界で、互いに戦いあってののしりあって苦しんでいるのはあたりまえのことです。それでも、知っておけば危険を控えることはできます。「悟るまで待ちましょう」という甘い話は、仏教では認めません。悟っても悟らなくてもそれはおいておいて、マーナは捨ててみなさい。無理をすれば捨てることはできますから、無理をしてでも捨てると、安らかに、平安でいられるのです。
世俗的な試験の場合は、先に言ったような生き方で、試験を楽しんで生きてみること。心の場合は、人間や生命であるかぎり、みんな相手を量ろうとしている、試験しようとしている。その試験は完全に放棄しましょう。それはマーナという煩悩で、心の汚れです。心が傷付きますので、人を量ることはやめましょう。