根本仏教講義

22.智慧ある人は愉しんで生きる 5

過去に悩まず、未来を期待せず

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Araññe viharantânam
santânam brahmacârinam
Ekabhattam bhuñjamânam
kenavanno pasîdati?

「森に住み、安穏な心の修行者が、日に一食しかとらないのに、なぜ顔色が穏やかなのですか?」

あるとき、お釈迦さまと弟子の阿羅漢たちが森に住んでいました。
そこへ神がやって来て質問をしたのです。神が来たといっても別に神秘的な話ではありません。お祓いや祈祷ばかりしているところに神が来ることはありませんが、戒律を守って心を清らかにし、修行する人のところには来ることもあるのです。なぜなら神にも徳が入りますから。

そこで、家も屋根もない森に住み、一日に一度だけしか食べていないのに、お釈迦さまと阿羅漢たちの顔を見ると、大変穏やかで、美しく輝いているのです。神にとってはこれが不思議でたまりません。一般の人間と比べると、ものすごく粗末で貧しい生活をしているのに、なぜこんなに穏やかな顔をしているのだろうかと。そこでお釈迦さまに訊ねたのです。「森に住み、安穏な心の修行者が、日に一食しかとらないのに、なぜ顔色が穏やかなのですか?」と。お釈迦さまは次のように答えました。

Atîtam nânusocanti,
nappajappanti nâgatam;
paccuppannena yâpenti,
tena vanno pasîdati.

「過去に悩まず、未来を期待せず、現在に生きている。したがって穏やかなのです」と。つまり瞬間瞬間を充分に満足して生きているから、美しく輝いているということなのです。

Anâgatappajappâya,
atîtassânusocanam;
etena bâlâ sussanti,
nalova harito luto ti.
(Sanyutta Nikâya, 1.10)

「未来を期待し、過去のことを悩んでいるから、愚か者は枯れてゆく。伐った青い竹のように」

青い竹を伐ると、青い色がどんどん褪せてゆきます。そのように過去や未来のことばかり気にしていると、穏やかさや明るさ、生命力が消えてゆくのです。

悟るまでの応急策

無明を破ることが心のターニングポイントです。私たちは「ものが有る・無い」という有無でしか、ものごとを理解することができません。しかし仏教を学んで実践していくうちに、無明の壁が徐々に破れ、やがて心は大胆に改革を起こし、因果法則を発見することができるのです。これが「悟り」です。

そこで問題は、悟りに至るまでどのように生きればよいかということです。悟るまで苦しまなければならないのでしょうか? いいえ、苦しむ必要はありません。お釈迦さまは一分一秒でも苦しむ必要はないと説かれています。応急策があるのです。悟りに達していなくても、まだ煩悩が残っていても、日々愉しく穏やかに生きる方法が。もちろん心の大革命を起こす必要はありますが、今すぐには無理でしょうから、それまで次の方法を実践すればよいのです。それには二つあります。

道徳の方程式

一つ目は、道徳の方程式に従って正しく生きることです。人間の行為には、考える行為(citta)、話す行為(vâcâ)、体でする行為(kâya)の三つがあります。私たちはこの三つで善行為や悪行為などいろいろな行為をして生きています。ここで覚えていただきたいことは、考えることも行為だということです。私たちは考えることについてはほとんど注意を払っていません。言葉や行動に出さない限りは何を考えても無罪だと思っています。でも考えることが一番危険なのです。なぜなら手足や体を使ってする行為には限りがありますが、頭で考えることには限りが無いからです。とんでもない悪いことや強欲なことを、いくらでも考えられるでしょう。「あいつが憎い」と思ったら、いつまでも憎しみの感情を燃やすことができるのです。ですから頭で考える行為が一番大きな罪になるのです。

次の行為はやめるべき悪行為です。
・自分にとってマイナスの結果になる
・周りにとってマイナスの結果になる
・生命全体にとってマイナスの結果になる

マイナスの結果になる行為はやめたほうがいいのです。たとえば何かを考えるとき「この考えはプラスだろうかマイナスだろうか」と考えて、マイナスだったらすぐにやめてください。ときどき「私はダメな人間だ」と考えて自分を責める人もいますが、これは自分にとってマイナスですから悪行為です。やめてください。それから他人に対して「あいつは悪いやつだ」と考えて相手を責めることもあります。これは相手に対してマイナスですから悪行為になります。あるいは世界に対して一般的に悪いことを考えることもありますが、これも悪行為です。やめてください。言葉も行為も同じです。マイナスの結果が出るなら、その行為はやめるべきです。

次の行為は行うべき善行為です。
・自分にとってプラスの結果になる
・周りにとってプラスの結果になる
・生命全体にとってプラスの結果になる

プラスの結果になる行為は、行うべき善行為です。皆さん、ご自分の思考を観察してみてください。おそらく一日中くだらないことを考えているということがお分かりになるでしょう。そこで悪い考えが浮かんだらすぐに「この考えは不善だ、心が汚れてしまう」と気づいて、やめることが大切です。試しに一週間ぐらい実践してみてください。今より何百倍も頭が良くなるでしょうし、仕事もはかどるでしょう。失敗もほとんどなくなります。ですから善い結果になるものだけを選んで、それ以外の行為はやりませんと心に決めてください。そうすれば幸福に、充実して生きることができるのです。

人間関係におけるプラスとマイナス

それから私たちは一人きりで生きているのではなく、社会のなかで生きています。ですから自分にとっては善いこと(プラス)でも、相手にとっては迷惑(マイナス)ということもあります。こういう場合はどのように判断すればよいのでしょうか?

自分、周り、生命全体のいずれかに一つでもマイナスが入る行為は、すべて悪行為になります。たとえば、自分にはプラスだけれども相手にはマイナスという場合、マイナスが入っていますから、その行為は悪行為になります。また、相手にはプラスですが自分にはマイナスなら、その行為も悪行為です。例をあげますと、家庭の奥さんが高熱を出して倒れそうなのに、旦那や子供のために無理をして夕飯を作るとしましょう。これは悪行為です。家族にとってはプラスかもしれませんが、自分にとってはマイナスです。ですからこの行為はやめたほうがいいのです。あるいは、家でがんがん音楽を鳴らして夜遅くまでパーティをしているとしましょう。自分や家族にとっては楽しいでしょうが(プラス)、近所の人にとってはうるさくてたまりません。迷惑です(マイナス)。ですからこれは悪行為なのです。自分、周り、生命全体のいずれかに一つでもマイナスが入ると悪行為になるのです。マイナスは一個でも入ってはいけません。

それから、プラスとゼロという組み合わせもあります。これは善行為になります。先ほどの奥さんの例で、倒れるほどではありませんが、今度は風邪をひいて気分が悪いとしましょう。でも料理ぐらいは作っても大丈夫な状態。この場合、自分にとってはプラスでもマイナスでもないゼロ(0)になります。他方、家族にとってはプラスになりますから、これはやってもよい善行為なのです。プラスとゼロの組み合わせは善いことですからやったほうがいいのです。

それから「生命全体にプラス」という場合は、自動的に周りにも自分にもプラスという結果になります。殺さない、盗まない、嘘をつかないなどの行為は、皆にとってプラスになる行為です。ということは自動的に、周りにも自分にもプラスになるのです。自分、周り、生命全体にプラスなら、これは完全無欠の善行為です。ですから進んでやってください。

(次号に続きます)