23.刺激論 3
刺激の奴隷
なぜ、私たちは「刺激の網」に囚われてしまうのでしょうか? まずは、この言葉を覚えておいてください。スバニミッタ(subha-nimitta)。スバ(subha)は「良い、幸福な、好き」という意味です。ニミッタ(nimitta)は「対象」という意味で、見えるものや聞こえるものなど、感覚の対象(色声香味触法)のことです。これら二つの語を合わせて、スバニミッタは「好きな対象」という意味になります。
魚を釣るとき、釣竿の糸の針先にミミズなどの餌を付けて、それを水のなかに入れます。そうすると魚が寄って来て、ミミズをパクリと食べるのです。しかし食べたらもう終わり。魚には自由がありません。人間に釣られて、殺されて、食べられるのです。生きていられません。だったら、魚は針先に付いているミミズなんか食べなければいいでしょう。ちょっと頭を使えば、ミミズが「私を食べて!」といわんばかりに都合よく自分の目の前で泳いでいるはずがない、と分かるだろうに。でも、魚にはそんなことは考えられません。目の前にミミズがいると、本能的に食い付くのです。
人間の場合も、何もしていないのに好物の食べ物が、いきなり目の前に現れるということはありません。たいていの人は何か仕事をして給料を貰い、それで食べ物を買わなければならないのです。それも、すぐには食べられません。食材を切ったり、煮たり、焼いたり、味付けをして、いろいろ手を加えなければならないのです。そこで想像してみてください。もし一人暮らしの男性が、会社から帰宅したところで、テーブルの上に豪華な料理が並んでいると、どうでしょうか?「あーよかった、なんて私は恵まれているんだろう」と言って食べるでしょうか。普通の人なら、これは危険だ、何かおかしい、とすぐに警戒するでしょう。
食わずにいられない目の前の餌
目の前にぶら下がっている餌を食べるのは大変危険です。しかし魚は目の前にミミズが泳いでいると、食わずにいられないのです。「餌を見たら、すぐに飛びついて食う」というのが魚の習性です。これは魚だけでなく、すべての生命に備わっているものです。
どんな生命にも自分にとってのスバニミッタ、つまり「好きな対象」があります。たとえば、魚にニンジンをあげてみてください。絶対に食べないでしょう。あるいはきれいだからといって、バラの花をたくさんあげてみてください。何時間たっても食べません。しかしミミズをあげると、さっと寄って来て食べるのです。人間の場合、ミミズを見て「おいしそう」とは思いませんが、サンマを見ると「おいしそう、食べたい」と思うのです。猫にニンジンをあげても食べませんが、魚、それも少し焼いてあげると喜んで食べます。では、その魚をウサギにあげてみてください。見向きもしないでしょう。ウサギにはニンジンやキャベツをあげなくてはならないのです。このように、生命にはそれぞれ「好きな対象」、言い換えれば「釣られやすい対象」があるのです。
日本人は西洋文化に釣られている傾向があるように思います。西洋文化はすばらしいと思い込み、西洋人の真似をすればするほど現代的で進歩していると考えているのではないでしょうか。たとえばバッグを買うとき、日本製のものは買わずに、西洋のブランド品をわざわざ買うのです。日本には非常に質の良いバッグがありますし、特別注文をして自分の好きなデザインで作ってもらうこともできます。腕のいい職人さんも結構います。なのに、日本製のものは買いたがりません。買うとしても値段が安くないと買わないのです。でも西洋のブランド品なら五万円でも十万円でも平気で出します。なぜでしょうか? それは「ブランド品を持っていれば自分が優雅で格好よく見える」と思っているからです。こういう人たちは、いくら周りの人が止めても、お金があれば買ってしまいます。完全に釣られているのです。
ケーキに釣られる子供
では、この十万円のバッグを子供にあげてみてください。どうでしょうか? 全然相手にしないでしょう。子供はブランド品には釣られません。子供には子供なりに、どうにも我慢できない、目がないものがあるのです。以前、あるお母さんが急に用事ができて、子供を叔母さんの家に預けなくてはならなくなりました。でも子供は嫌がって、なかなか行きたがりません。そのとき叔母さんが一言「家にすごくおいしいケーキがあって、帰ってから食べようと思っているんだよ」と言ったとたん、子供はいきなり「じゃあ行く!」と言うのです。今まで、絶対行かないと踏ん張っていたのに、ケーキがあると言ったとたん、コロッと態度を変えるのです。メロンが好きな子なら「家にメロンがあるよ」と言えば喜んでついて行くでしょう。このように、いとも簡単に自分の好物に釣られるのです。ケーキが好きな子はケーキに、メロンが好きな子はメロンに釣られます。食べ物よりゲームやおもちゃに目がない子もいます。
「何に釣られるか」ということは、時代や年齢、性別、性格などによって異なります。たとえば二十歳の人が釣られる餌と八十歳の人が釣られる餌は違うのです。孫がおばあちゃんを楽しませてあげようと思ってディスコに連れて行っても、おばあちゃんにとっては大変な迷惑。それより、温泉にでも連れて行って、のんびりさせてあげたほうが喜ぶでしょう。
あなたは何に釣られやすいのか?
このように私たちにはどうにもならない「餌」があります。仏教では、人間には全部で色声香味触法の六種類の餌があると説いています。私たちはこれらの餌に引っ掛からないよう、注意しなければなりません。そのためには「自分はどんな餌に釣られやすいのか」「何に引っ掛かりやすいのか」「何に弱いのか」ということを、はっきり知っておくことが大切です。でも、自分の弱みを他人に知られたら大変です。うまく奴隷にされてしまいますから。たとえば、ある人が失業して金銭にすごく困っているとしましょう。そこへ誰かが親しげに近づいてきて、目の前で札束をちらつかせます。どうなるでしょうか? 心の弱い人なら簡単に奴隷になるでしょう。最悪の場合、お金をくれるなら盗みでも人殺しでもする、というところまで操られてしまうのです。
このように私たちには「弱い対象」があって、それに引っ掛かっています。いつでも目の前にぶら下がっている餌に釣られて、奴隷になっているのです。でも「自分が奴隷になっている」ということは、そのときは分かりませんし気づくこともできません。たとえば、オートバイに夢中になっている若者は、学校をサボってまでオートバイで遊びに行こうとします。親や先生たちにいくら注意されても全然耳を傾けません。あるいは、オートバイが欲しいのに親が買ってくれなければ、殴ったり蹴ったり、暴力を振るいます。ひどいときには親の財布からお金を盗んだり、家の通帳を盗むこともあるでしょう。この若者にはオートバイ以外のことは見えません。また、自分がオートバイの奴隷になっていることにも気づかないのです。
大人も同じです。美食家は食べ物の奴隷になっていますし、酒が好きな人は酒の奴隷になっています。お金が好きな人はお金や仕事の奴隷になっています。でも自分が「釣られている」ということにはまったく気づいていないのです。
なぜ気づかないのか?
恐ろしいことに、私たちは死ぬまで好きな対象、つまり「餌」に釣られて生きています。スバニミッタは、率直に言うと「餌」という意味です。餌と言うと、皆さんは食べ物のことしか頭に浮かばないかもしれませんが、仏教では、見えるものや聞こえるものなど、眼耳鼻舌身意に入るすべてのものを食べ物として考えています。色声香味触法が生命の食べ物なのです。
そこで、なぜ私たちは死ぬまで餌に釣られるのでしょうか? なぜ刺激の網に引っ掛かっていることに気づかないのでしょうか? それは「釣られる餌」がしょっちゅう変わっているからです。若いときはオートバイが好きでも、死ぬまで好きかどうかは分かりません。子供のときはおもちゃに釣られていても、中高生になるとゲームや携帯電話に夢中になるかもしれません。他にも、音楽や映画、おしゃれ、旅行、グルメ、仕事など、釣られる餌は時間や年齢とともに次々変わるのです。そのため「自分が餌に引っ掛かっている」ということには気づかないのです。でも、過去のことなら分かるでしょう。「むかし若いときは馬鹿なことをやっていたなあ」と、四十歳や五十歳になったときに気づくのです。そこでその人に「今はどうですか?」と訊いてみると、「今は大丈夫、何も問題ありません」と応えるのですが、それは嘘。今も、他のものに釣られているのです。ただそれに気づいていないだけで、後になってから分かるのです。これが生命の愚かさであり弱みなのです。
(次号に続きます)