根本仏教講義

23.刺激論 4

知っているのは「主観」

アルボムッレ・スマナサーラ長老

餌に誘われて釣り針に引っ掛かった魚のように、私たち人間も、見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものに引っ掛かって束縛されているのです。
(前号から続きます)

因果法則に則って観察する

なぜ私たちは「餌」に釣られるのでしょうか? なぜ誘惑されるのでしょうか? それは、心が弱いからです。魚は、目の前にミミズが泳いでいると、本能的にさっと飛び付いて、餌をパクリと食べます。でももし餌を見たとき、ほんの一瞬でも「目の前にミミズがいるなんておかしい、なんか変だ、罠ではないか」と冷静に観察することができれば、いきなり餌に飛び付いたりはしないでしょう。飛び付かなければ釣られずにすみますし、命を守ることもできるのです。

パーリ語に、ヨーニソーマナシカーラ(yonisomanasikāra, 如理にょり作意さい)という言葉があります。これは大変重要な言葉ですので覚えておくと役に立つでしょう。ヨーニソー(yoniso)は「因果法則に則って、論理的に」という意味、マナシカーラ(manasikāra)は「観察する」という意味です。そこでヨーニソー マナシカーラは「因果法則に則って観察する」という意味になります。ヨーニソーマナシカーラが無いとき(論理的に物事を観察しないとき)、私たちは色・声・香・味・触・法のいずれかに引っ掛かって苦しみます。一方、ヨーニソーマナシカーラがあるときには、心は冷静沈着ですから、安易に引っ掛かることはありません。何にも囚われず、自由に生きていられるのです。したがって私たちが愚かな原因、混乱して苦しんでいる原因はただ一つ、ヨーニソーマナシカーラが無いということです。それだけなのです。お釈迦さまは「ヨーニソーマナシカーラがあれば、すべての問題は解決する」と教えられました。物事を客観的に論理的に観察することができれば、すべてうまくいくのです。

「おまけ」に釣られる子供

他人が言ったことを鵜呑みにしてはなりません。現代社会はマスコミや宣伝広告が発展しているため、私たちはさまざまな情報に、いとも簡単に釣られている傾向があります。たとえば、ある菓子メーカーは「自分の会社だけが儲かればよい」と考えて、子供たちをかもにしています。チョコレートやスナック菓子に「おまけ」として小さなカードを付け、子供たちを誘き寄せるのです。メーカーが「カードは五十種類ある」と宣伝すると、子供たちは必死になって集めます。本当のところ子供は甘いお菓子なんか好きではないのです。でも「おまけ」は欲しい。できれば全種類。それでまんまと釣られて買ってしまうのです。せっかく買ったのだから、ついでに甘いお菓子も口に入れます。これを毎日続けるとどうなるでしょうか? かわいそうに、虫歯や肥満糖尿病になって体を壊し、苦しむ羽目になるのです。

大人も同じです。テレビで「この食品は健康にいい」と聞くと、すぐにスーパーに行って買い込んだり、グルメ雑誌に「このレストランの料理は最高」とあれば、長蛇の列に並んででも食べに行ったり、ファッション雑誌に「今年の流行はこれだ」とあれば、自分に似合うかどうかも考えずに、高いお金を出して服を買い揃えるのです。このように、私たちは簡単に宣伝広告に踊らされています。本当に自分に必要なものを買っているわけではありません。周りの情報に流されて、あちこちに走り回っているだけなのです。商売する側も、そこを狙ってうまく騙しているのです。

なぜ観察しないのか?

情報が氾濫している現代社会のなかで、何にも引っ掛からず、何にも囚われないで生きることは、はたしてできるでしょうか? できます。それは物事を客観的に観察することです。しかし、残念ながら私たちは外界の情報に振り回されるばかりで、まったく観察していません。なぜ観察しないのでしょうか? それは「情報を楽しみたい」からです。私たちは「餌が楽しい」と思っているのです。美しいものや面白いものを見て楽しみたい、きれいな音楽を聞きたい、よい香りを楽しみたい、おいしいものを食べたい、心地いい感触を楽しみたい、過去や未来のことをあれこれ考えて頭で妄想したい、と餌を楽しんでいるのです。楽しいから、もう対象からは離れられません。夢中になって陶酔し、完全に囚われているのです。

そこで、色声香味触法の餌に釣られないためには、観察力を育てなければなりません。餌に飛び付く前に、ほんの一瞬、客観的に観察してみるのです。これですべての問題が解決できるのです。

「餌」に釣られる仕組みとは

次に、どのようにして餌に釣られるのか、その仕組みについて説明いたしましょう。

人間には眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官が備わっています。皆さん、眼には何が入るか、ご存知でしょうか? 学校では眼に入るものは光だと教えているようですが、光は見えません。どんな強烈な光でも、光そのものを見ることはできないのです。光のなかに埃や塵があると、それが見えるだけなのです。ですから、眼に見えるのは色形のみ。色がないものに光を当てても見えません。空気は見えないでしょう。空気には色がないからです。

眼(chakku)を開けると、外界の色形(rūpa)が眼に入ります。そうすると「見えた」という瞬間的な認識(cakkhu-viññāṇa, 眼識)が生じます。これらの三つの条件(眼・色形・眼識)が揃ったとき、インパクト(phassa)が生じます。漢訳では「触」。現代風に言えば、インパクト。インパクトが生じたら、はっきり感じることができるのです。でも、この時点ではまだ「何を見たか」ということは分かりません。ただ「触れた」ということだけで、人だとか、本だとか、花だとか、建物だということは、まだ分からないのです。

その後に「受」(vedanā)が生じます。この受から「知る」(sañjānāti)という働きが現れます。ここで、私たちはとんでもない誤解をするのです。単に「知った」というのではなく、「私が知った」と、突然「私が」という主語を入れて認識するのです。事実は、眼に色形が触れて見えるという認識が生じた、それだけなのに、私たちは事実どおりに理解せず、「私が見た」と、何の根拠もなく主語を入れて認識するのです。

彼が感じるものを、彼は知る
Yaṃ vedeti taṃ sañjānāti

「彼が感じたものを、彼は知る」と、お釈迦さまは説かれました。彼が知っているものは彼が感じたものであって真実ではない、ということです。私たちは眼で外のものを見ても、それをありのままに知るわけではありません。自分が感じたものを知るにすぎないのです。だからです、皆が同じものを見ても知識がバラバラなのは。たとえば、ある人がXというものを見て「美しい」と言ったなら、誰が見ても「美しい」と言うはずです。だけど、そうは言いません。「汚い」とか「気持ち悪い」と嫌がる人もいるのです。皆、見え方はバラバラなのです。視力が弱い人と鋭い人の見え方は違うでしょうし、明るい所での見え方、暗い所での見え方、眼の水晶体が濁っている人の見え方、老眼の人の見え方、子供の見え方、皆それぞれ違うのです。知っていますか、なぜ子供は単純なことにも、あんなに面白がって遊んでいるのかを。子供は眼がすごくきれいで澄んでいるから、何を見てもインパクトが強いのです。現代の子供たちはテレビやゲーム、漫画に夢中になっていますから感覚が鈍くなっているようですが、そうでなければ子供を楽しませることはすごく簡単です。色紙を一枚あげただけでも、子供はワイワイと楽しく遊ぶのです。

同じ一つのものを見ても、人にはそれぞれ、その人なりの反応や感じ方があるということを覚えておいてください。自分が知るものは、あくまでも自分が感じたものであり、けっして真実ではありません。私たちは皆、主観の世界で生きているのです。誰も「本当は何があるのか」分かっていません。私たちが「見た」「聞いた」「嗅いだ」「味わった」「考えた」「知った」というものは、自分だけの感覚であって、真実の姿ではないのです。

(次号に続きます)