25.自ら試し、確かめる 9
智慧のある人は 各自で真理を体験する
方法が異なれば結果も異なる
「自分に都合のよい実践方法」―― これは皆さまにとって心地よい言葉だと思います。自分だけの、自分の好みの、自分に適した実践方法があるなら、これほど都合のよいことはないでしょう。
しかし残念ながら「自分に都合のよい実践方法」というものはありません。善い結果を目指すなら、そこに至る道は決まっているのです。たとえば、十人のシェフが自分の好きな材料を使って好きな手順でカレーを作るとしましょう。そうすると出来上がりはどうなるでしょうか。それぞれみんな違う味になり、同じカレーにはならないでしょう。このように、方法が異なれば結果も異なるのです。
同じ結果を目指すなら、結果に至るプロセスも同じでなくてはなりません。ですから「苦しみをなくす」という結果を目指すなら、そのプロセスは誰にでも同じなのです。自分だけの特別なプロセスがあるわけではないのです。
2+2はいくつでしょうか? 4です。田中さんの場合は5で、木村さんの場合は8で、今日は6で、明日は9と、そういうことはありえません。2+2=4に決まっているのです。このように問題には答えがあり、答えは人の気分によって変わるものではありません。もし対機的に答えが違うなら、その問題には答えがないということになります。「何でもいい」ということは、つまり「答えがない」ということなのです。
仏教の実践方法は皆に同じ
問題に対する答えとは、仏教では「実践」することです。問題とは「苦しみ」であり、それに対する答えとは「実践」なのです。
ただ、実践方法が実行できないものなら、その実践は問題の答えにはなりません。実行できないことをいくら言っても意味がないでしょう。たとえば癌で苦しんでいる人に対して、入手することのできない薬を飲みなさいといっても、意味がありません。数千年前に日本に生息していた特別な植物を煎じて飲むと、たちまち癌が治りますといっても、どうやって数千年前の植物を手に入れることができるでしょうか。ですから、実践方法は実行できなければ答えではないのです。
仏教の実践方法は対機的なものではなく、みな同じであり、誰でも試し、確かめることができるものです。苦しみは誰にでもあり、それを解決するための方法を実践をすることによって、誰でも苦しみを乗り越えることができるのです。その方法は今も昔も変わりません。皆に同じなのです。料理法(方法)が同じなら、出来上がり(結果)も同じになるのです。
人によって実践方法が違うということはありません。道徳、慈悲、八正道、ヴィパッサナーなどは、男女、老若、立場、地位などの違いで変わることはないのです。信仰さえ問いません。信仰を持っていると引っ掛かるところもありますが、好きなものはしようがありませんから、そういう人に対して仏教は、「信仰はいったん横に置いておいてください。そしてこの治療法を実践してみてください。そうすれば苦しみが治るでしょう」と教えます。仏教の実践をやってみると、やがて信仰を持つ愚かさに気づき、信仰も苦しみをつくるということが理解できるのです。
「個人の理解の仕方」は異なる
しかし「個人の理解の仕方」には差があります。ですから、ある側面から見ると、実践には対機性があるようにも見えるのです。
例を挙げますと、外国の留学生が日本の大学に入学するとき、まずオリエンテーションをおこないます。期待と不安でいっぱいの学生たちが新しい環境に適応し、大学で勉強できるよう、学校側が基本的な方向づけや指導をおこなうのです。このとき、留学生たちはそれぞれ言語や文化が違いますから、別々にオリエンテーションをします。中国人には中国人向けのオリエンテーションを、アフリカ人にはアフリカ人向けのオリエンテーションを、西洋人には西洋人向けのオリエンテーションを。それで一通り指導が終わると、スタート地点が同じになり、では頑張りましょうと、クラスにまとまって授業が始まるのです。
この程度の対機性は、仏教の実践にもあるのです。
自分に必要な経典を
仏教の経典は大量にありますが、それらすべてを読む必要はありません。自分に必要な経典を一つか二つ理解して、それを確実に実践すれば、見事にうまくいくのです。
これは、世界のさまざまな料理を用意しているバイキングのようなものです。世界各国のあらゆる料理がテーブルの上にずらりと並んでいます。各自が自分の皿に自由に取り分けて、好きな分だけ食べられますが、たとえ豪華に料理が並んでいても、私たちは全種類の品を食べることはできません。たくさんのなかから自分が食べたい料理、自分の身体に合った料理を少し選び、ほかのものは置いておくのです。そこで、このときあらゆる料理が揃っていますから、自分に合う料理は必ずあるはずです。
同様に、経典は大量にありますが、それを全部読む必要はありません。自分に必要な教えを選び、それを確実に実践すればよいのです。
「個人の苦しみ」と「社会の苦しみ」
苦しみを「個人の苦しみ」と「社会の苦しみ」とに分けて考えることができます。
「個人の苦しみ」については、各個人が自分で自分の苦しみを解決しなければなりません。苦しみを抱えているのはほかでもない自分なのですから、解決するためには、自分が努力する必要があるのです。
たとえば、心臓が弱くて生死をさまよっている子供を持つ母親がいるとしましょう。母親は、子供の心臓が弱いから自分が苦しんでいる、と考えています。しかし真理の立場から見ますと、母親は「愛するものから離れたくない」という苦しみに遭っているのです。母親はこのことを理解せずに、子供の心臓が治ったらすべてうまくいくと勘違いしています。この勘違いしているところを治さなければなりません。「これは愛するものから離れたくないという苦しみであり、たとえ子供の心臓が治ったとしても、また別の苦しみが生まれてくる」ということを理解しなければならないのです。
個人の悩みに関しては個人が努力して治す必要があります。
もう一つは、苦しみの原因は社会にあるかもしれないということです。自分に苦しみがあるのですが、その原因が社会にある場合です。これは社会の問題です。
お釈迦さまは、さまざまな場面で王様たちに、政治、経済のあり方、社会人としての生き方などを教えていました。すごく明確に説かれた政治論や経済論もあります。社会の問題だから自分には関係がないと考えて、黙っていてはなりません。ジャータカ物語には、政府が腐敗しているなら国民みなで政府に抗議しなさいという物語もあります。黙っているのではなく、皆の問題だから皆で解決しなくてはならないのです。社会の苦しみは、皆で実践するものです。
各自が真理を理解する
最終的な解決方法は「悟ること」です。輪廻転生を繰り返しているかぎり、いくら一時的な解決策を練っても終わりがありません。ひとつ解決しても、また別の問題が必ず現れるのです。ですから、最終的には輪廻の問題を解決しなければならないのです。
Paccattam veditabbo viññûhî ti.
智慧のある人々は、各自で真理を理解すべきである。
(了)