28.希望と欲望 2
糸が切れた凧
世の中には、人が成長し成功するためには大きな欲望が必要、という考え方があります。事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することにより、人は成長できると考えているのです。
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しかし、欲望をバネにして人格を向上させることはできません。欲望に基づいて行動すると、必ず失敗するのです。
そこで、幸福な生き方を目指す人は、欲望は毒で、罪で、大敵であると見て、欲望から離れることが大切です。とくに「底なしの異常な欲望」(abhijjhâ)に関しては、修行する前から、瞑想を始める前から離れておかなくてはならないものなのです。
貪欲な猿
一つ、ジャータカ物語をご紹介いたしましょう。ある人が王様のもとを訪れ、このように言いました。
「あなたはすばらしい王様で、多くの強い軍隊を持っているのに、なぜこんな小さな国を治めることで満足しているのですか。希望が小さいのはよいことではありません。隣の国に侵攻して自分の国につなげてはどうですか」
すると、王様の心に突如、巨大な欲(mahicchatâ)が生まれました。「よし、分かった。隣の国を攻めて私の国にしよう」。そう言って、すぐに軍隊を集め、戦いに出ようとしたのです。
ところで、むかしは王様の良き相談役として知識のある大臣たちがいつでも王様のそばにいました。その中で最も智慧のある偉い大臣が、「戦争はやめたほうがいい。落ち着いて平和でいたほうがいい」と、戦争にはまったく賛成しないのです。しかし、王様はこの大臣の言葉にはまったく耳を傾けませんでした。
智慧のある大臣は、王様のことが心配になりました。そこで戦争には反対でしたが、あまりにも心配でしたから、軍隊といっしょに出かけることにしたのです。
ちょうどその頃、インドは雨季に入り、毎日、雨が降り続きました。しかし王様は軍隊に、「前に進みなさい。たとえ雨が降っても引き返してはならない」と命じました。
ある日、森で野宿しているとき、馬に食べさせるための餌として、栄養のある豆を煮て、それを小分けにし、あちこちに置いておいたところ、それを見ていた一匹の猿が、「おいしそうな食べものだ」とばかりに、木から降りてきました。そして手で豆を一つかみ握ったのです。でも、まだ豆はたくさんあります。それで、反対の手でもう一つかみ握りました。見ると、まだ豆はたくさんあります。それで今度は口いっぱいに豆を頬張りました。口と両手いっぱいに豆を持ち、木の上に登ろうとしました。しかし両手は使えませんから、足で登るしかありません。どうにかこうにか木の上に登ったところ、手から豆が一粒、ポトンと地面に落ちました。猿はキャーと泣き、あわててその一粒の豆を拾うために木から降りました。その瞬間、口から豆が全部落ち、また両手の豆も全部落としてしまったのです。一粒の豆のために、猿はすべての豆をなくしたのです。
その様子を見ていた王様が、「あーバカな猿だ。一粒ずつ手で取って食べればいいのに、欲深いなぁ。欲が深いから全部なくなってしまった」と言いました。
それを聞いた智慧のある大臣は、「欲深いのは猿だけではありませんよ。あの猿と同じことをやっている人がこちらにもいるのではないでしょうか」と言いました。
王様が「なんのことか」と言うと、大臣は「王様、これまで王様は自分の国を治めることだけで充分満足していました。なのに今は隣国に侵攻して、自分のものにしようとしています。それもこの雨季の時期に。象や馬たちは風邪をひいて熱をだし、隣の国に着くころには身体が弱っているでしょう。軍隊も雨で衰弱し、疲れ切っていますから、戦う力はありません。私たちは簡単に相手軍に殺されるでしょう。ですからいま王様がやろうとしていることは、あの猿がやっていることよりもひどいことではないでしょうか」
王様はようやく目が覚めました。「わかりました。国へ帰りましょう」と言い、引き返したのです。
この話は「欲望が出たら、いま持っているものも失う」という話です。
欲望は崩壊のもと
これは社会を見るといくらでも例があります。日本でもときどき偉い方々が、わずかなお金に欲を出したために、地位も権力も失って逮捕された、というニュースを聞くことがあります。毎月高い給料をもらい、その上、国や会社から住宅や車などを安く貸してもらえ、外国に行くときには旅費や滞在費が全部おりますから、お金のかかるものはほとんどありません。奥さんの服代や子供の養育費ぐらいです。なのに、もう少し裏でお金をもらおうではないかと欲を出し、不正な行為をしたため、逮捕され、結局は職も地位も立場も全部失う羽目になるのです。
理解していただきたいのは、欲望はネガティブで暗い思考だということです。英語で言えば、productiveではなくdestructiveです。いわゆる有効的・効果的ではなく、破壊的ということです。会社は、経営者が欲望を出せば、いとも簡単に倒産しますし、家庭は、家族の誰かが欲望を出せば、崩壊するでしょう。国は、国の権力者が欲望を出せば、すぐに崩壊するのです。一九九〇年、イラクが隣国のクウェートを奪おうと欲望を出し、たった一日でクウェート全土を支配下に収めたということがありました。それでどうなったかといいますと、米英軍によってハイテク兵器がイラクに投入され、その劣化ウラン弾の影響で、いま多くのイラクの子供たちが、ガンや白血病、奇形の病気にかかって大量に死んでいるのです。また、経済制裁のために食料が不足していますから、栄養失調や飢餓でも苦しみ死んでいます。これからどのくらいこの国の人々が死んでいくかわかりません。これは、当時のイラクの大統領が自分の国だけでは満足せず、「隣の国を奪って自分のものにしよう」と、とんでもない欲望を出したことによります。その結果、国民を苦しみの泥沼に落とし入れたのです。
膨らんでゆく欲望
「余計な欲」(abhijjhâ)は「普通の欲」とは異なります。「普通の欲」とは、もう少し収入があったら家族を楽にしてあげられるとか、もう少し環境のいいところに住めるとか、たまにおいしいものが食べられる、というぐらいの欲のことです。これは小さな欲ですから、すべて崩壊するところまではいかないでしょう。でも、リミットを越えた瞬間、糸が切れた凧のように、どこまでも、あてもなく、飛んで行くのです。
私たちの心にはものすごい煩悩が溜まっています。心は欲と怒りと無知で限りなく汚染されているのです。私たちは「歩く原子爆弾」のようなものです。日常生活のなかでは爆発しないよう、なんとか抑えて生活していますが、少しでもネジが緩むと、原子爆弾が爆発したように、欲・怒り・無知が爆発し、自分も周りも破壊して、恐ろしい目に遭うのです。
欲・怒り・無知は、どこまででも成長します。原子爆弾のように、連鎖反応でどんどんどんどん成長するのです。たとえば夏休みにどこかへ旅行するとしましょう。旅行したら「ああ、よかった。楽しかった。もう充分だ」と満足するのではなく、「次はもっといいところへ行きたい」と思うのです。それで次の年「いいところ」へ行ったら、またその次の年には「もっといいところ」へ行きたくなるのです。
おいしいものが食べたい、という欲が出たら、おいしいものを探して食べますし、それを食べてもまた、おいしいものを食べたい、と欲が出ます。
それを食べても満足しませんから、さらにもっとおいしいものを探します。このように欲望は連鎖して膨らんでゆきます。ですから欲望は危険です。しっかりと管理することが大切なのです。
(次号に続きます)