根本仏教講義

28.希望と欲望 5

正しい希望の持ち方 ②

アルボムッレ・スマナサーラ長老

精進とは、分かりやすく言いますと「頑張る」という意味で、でも、なんでもかんでも頑張るというのではなく、正精進(Sammâ vâyâma(サンマー ワーヤーマ))「道徳的で立派な人間になるために正しくコントロールして頑張る」という意味です。正精進には四つあり、はじめの二つについては前回お話いたしました。

(前号から続きます)

正精進(3)  すでにやっている善いことを完成するまで拡大する

私たちは日常生活の中でいろいろな善いことをしています。たとえば仕事をまじめにするとか、会社が発展するように努力するとか、そういう自分が誠意を持ってやっていることがいろいろあると思います。その「善いことをさらに完成するところまで努力する」というのが三番目の希望、いわゆる三番目の正精進です。これぐらいでいいのではないかと、ほっとしてはなりません。私は毎朝九時から午後六時まで会社で仕事をしているから、それでいいのではないかとほっとするのではなく、さらに「善いこと、役に立つことはないでしょうか」と、自分が日々やっている善い行為を完成させるまで努力しなければならないのです。

たとえば、学校の先生の場合ですと、自分は十年間も教えてきたからそこそこ経験もあるし、教える内容も身についているし、教え方も子供をコントロールする方法も知っているから、それぐらいでいいのではないかと安心してはなりません。退職する日まで、より立派な仕事をしようと知恵をしぼって、さらに努力することが大切なのです。

正精進(4)   今までやったことがない善いことをやる

正精進の四番目は「今までやったことのない善い行為を勇気を出してやる」ということです。先ほどの学校の先生を例にあげますと、今まで教科書どおりに教室で教えてきましたが、ちょっと方向を変えて、たとえばクラスの子供たちを外へ連れて行き自然のなかで授業をやってみるとか、あるいはキャンプに行くとか。そうすると机上の勉強では学ぶことのできない新しい発見が生まれてくるかもしれないのです。

でも、私たちはたいてい何か新しいことを試みようとするとき、「やっぱりやったことがないからやめよう」という弱気な気持ちが出てくるものです。だいたい人間には善い考えは浮かぶけど、やったことがないからやめましょうと、そういう弱さがあるのです。これは仏教では認めません。仏教は、たとえやったことがなくても、それが善い行為なら、勇気を持ってやりなさいと教えています。いつでも前進です。これが四つ目の正精進であり、善い希望なのです。

ワンパターン嗜好は怠け

どの国でも若者たちはだいたいおしゃれをするのが好きなものです。でも私から見れば、彼らのおしゃれの仕方はつまらない。なぜかというと、みんな同じことをやっているからです。長い髪が流行ると自分も髪を伸ばし、金髪が流行ると自分も金髪に染め、そうやって町はみるみるうちに金髪の若者であふれてしまうのです。若者なら何か新しいこと、いくらか大胆なことをやったほうがいいのに、それはやろうとしません。新しく前進しようとしないのです。

正精進の四番目では「今までやったことがない善行為を勇気を持ってやってください」と教えています。おしゃれは善行為ではありませんが、「みんながやっているから自分もやる」という態度はよいことではありません。仏教は、会社で毎日ワンパターン的に仕事をしている人のことを頑張っている人だとみなしません。出社時間に会社へ行き、いつもと同じパターンで仕事をし、帰宅時間に退社する、この決まったパターンで定年まで仕事をするのはそれほど賞賛できることではないのです。自分で何か新しいことを考えて、常に新しくしていこうとすることが大切です。そうでないと人生は死んでしまうのです。とくに日本では何でも「パターン化する」「マニュアル化する」という傾向があるように思います。マニュアルや決まりをやたらに作り、そして「これは決まりだから必ず守らなくてはなりません」と言うのです。ばかばかしいでしょう。そもそもその決まりを決めたのもどこかの人間ですし、完璧な人でも全知全能者でもありません。ですからたとえ決まりであっても、それが無意味なことなら変えてもよいのです。

常に進歩して前向きに行動すること、これが正精進の四番目、いわゆる四番目の希望です。ですから仏教を実践するにはかなりの勇気とインスピレーションが必要です。常に新しい意見を持ち、新しいことを考えて行動することが大切なのです。

日々、心の前進

なぜ仏教はそういうことを言うかと申しますと、「すべてのものは無常で流れて行く」からです。停止しているものは一つもありません。なのに私たちはいつでも「止まろう、止まろう」としています。会社で何か品物を作っているなら、そればかり作りっぱなし。それで「自分は毎日頑張っている」と言うのです。しかし仏教から見ますと、それはただ機械的に作業を繰り返しているだけで、たとえ遅くまで残業していても、頑張っていないとみなします。インスピレーションもなく、ただ機械的に仕事をすることは自慢できることではありません。そうではなく、何か工夫して残業にならないように努力したほうがよいのです。そうすれば最低でも電気の使用量ぐらいは節約できますし、自然破壊も減らすことができますから。でも、皆さんの中には「残業手当が入るから残業があったほうがいい」「残業すれば上司に褒められる」などと考えている人も多いのではないでしょうか。そういうのは仕事を怠けています。そうではなく、十時間かかる仕事なら手際よく六、七時間で終わらせて、その日の仕事が終わったらサッと帰ったほうが賢明であり、これが仏教でいう正精進なのです。

このように、日々自分の生き方を改めて向上させなければならないのです。

よりベターに生きる

これまで話してきましたように、四つの項目で正精進は完成します。

■ 今までやってきた悪行為をやめる
■ 今までやったことがない悪行為はこれからもやらない
■ 今やっている善行為を完成させる
■ 今までやったことがない善行為をやる

これを簡単に言いますと、
「日々昨日より、もう少し良くなるように努力する」ということです。毎日毎日頑張らなくてはなりません。「昨日よりも今日、今日よりも明日、良くなるように頑張ります」と自分を改善し、向上させ、成長させるのです。ですから正精進には終わりがありません。悟りを開いて解脱をしたら修行は終わりますが、解脱した人は解脱しても怠らないのです。お釈迦様は完全なる悟りを開いたとき、「やるべきことはすべて成し終えた。修行は完成した」と堂々とおっしゃいました。でも、その後の人生も寝る時間は日に二時間程度。それも身体がガタガタに疲れたときだけお休みになり、それ以外のときはずっと頑張っていました。自分のためではなく、人々のため、社会のために頑張っていたのです。仏教では、より良いことをしようではないか、より役に立つことをしようではないか、と死ぬ瞬間まで努力することをとても大切にしているのです。

「より良くなりたい」と正しく精進努力することが、正しい希望です。仏教は希望を持つことを否定していません。それどころか「正しい希望をもって修行し、修行を完成して悟りを開いてください」と励ましています。お釈迦様は常に比丘たちにおっしゃいました。「怠けてはなりません。睡眠にふけってはなりません。精進しなさい」と。世間では「寝ることは自然の行為であり、健康にいい」などと言っていますが、お釈迦様は「睡眠は時間の無駄」と教えているのです。

(次号に続きます)