折々の法話

仏教徒は祈らない WHAT DOES A BUDDHIST DO ?

 

キラサ師 訳:出村佳子

Q. 『仏教徒は、神としてお釈迦さまを信仰しているのですか?』

 いいえ。仏教徒は、お釈迦さま自らがヴィパッサナー実践によって目覚められ、この上なく完全に悟られた方であるという理由で、お釈迦さまを信じているのです。お釈迦さまは実際にこの世界で生きていらっしゃった方で、肉体的には完全に人間でしたが、精神的には、この全宇宙のすべての生命とひき比べても、想像を絶するくらいに偉大な方でした。しかしお釈迦さまは、自らを「唯一のものである」とおっしゃることはありませんでした。お釈迦さまはよく、「心の汚れを完全になくした生の勝利者はみんな私と同じです」とおっしゃいました。

 お釈迦さまは、人々に恐れを持ってもらいたくなかったのです。お釈迦さまの悟りが、本物なのか偽りのものなのかと確かめることさえも、人々に奨励しました。お釈迦さまは、「宗教に従おうとする人々は元来、恐れを持っています。しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。『恐れる』のではなく、ものごとを『理解する』ために適切に調べることが必要です」とおっしゃいました。私たちはお釈迦さまの『お告げを受けた』のではなく、お釈迦さまから『学んだ』のです。

Q. 『お寺では、仏像の前で祈ったり礼拝している人々を見かけることがあります。これにはどのような意味があるのですか。また、額のまん中に両手を合わせて深く礼をするのはなぜですか。お釈迦さまに祈っているのですか?』

 仏教徒は『祈る』ことはしません。でも、私はすべてのお寺を訪れたわけではありませんから、もしかすると祈っている人々もいるかもしれません。私はマハガンダーヨン僧院で修行した僧であり、人々にお釈迦さまの正しい教えを伝えています。私は皆さんに、お釈迦さまに祈ることや、祈る方法を教えたことは一度もありません。しかし、私たちを真理、涅槃へと正しく導いてくれる精神的な先生として、またお釈迦さまの悟りと智恵を思い起こして敬意を払うように、と教えています。ですから彼ら仏教徒は、お釈迦さまの像の前で、額に両手を合わせて礼をするのです。それは、悟りを開かれたお釈迦さまへの尊敬と感謝を表しているのです。

Q. 『彼らは3回、礼をしていますね。最初の1回はお釈迦さまに対してだと思うのですが、あとの2回は誰に対して礼をしているのですか』

 仏教徒は、仏・法・僧の三宝に信を持っているんですね。もうおわかりだと思いますが、お釈迦さま(Buddha)は、世界中のすべての仏教徒の先生にあたります。『法』(Dhamma)とはお釈迦さまの教えのことで、普遍的な真理のことです。身体と心に現れては消えて行く現象のこともDhammaと呼びます。たとえば怒りもDhammaなんですね。どうしてかというと、それは誰にでも起こるものだからです。怒りが生まれて消え去っていくという現象は、どんな生命にも共通しているものなんですね。また、その影響も共通しているんです。怒りが心に現れたら、イライラしたり、興奮したり、ときには血の色が顔に現れ真っ赤になります。怒りをコントロールするのが難しい人は、喧嘩をしたり悪い行為を行ってしまったりします。でも、怒りというものも、遅かれ早かれ、いつかは消えてなくなってしまうものではないでしょうか。自然の法則によれば、消え去っていくものなのですね。ですからお釈迦さまは、Dhamma(法)を理解するようにおっしゃいました。たとえば、忍耐や思いやりや智恵を理解すれば、清らかな心が自ずから生まれてきます。清らかな心が現れてくれば、怒りは小さくなっていき、やがてはなくなってしまいます。そして、穏やかな気持が訪れます。ですから私たちは、お釈迦さまの教えであるDhamma(法)に敬意を払うのです。

 3つ目の宝は、お釈迦さまの弟子である僧侶たち(Sangha)です。彼らは、真理の道を歩くすべての者たちの手助けをします。Sanghaはお釈迦さまの教えを学び、戒律、禅定、智恵の3つの実践に励み、また人々に、心を清らかにすることを教えています。彼らは人々に、心を成長させるために必要な、布施(dâna)、道徳(sîla)、心の訓練(bhâvanâ)の実践方法を教えています。布施、道徳、心の訓練という3つの実践は、最終的にはすべての身体と心の苦しみから、私たちを解放してくれるでしょう。私たち仏教のSanghaは、お釈迦さまに祈ることは教えません。が、仏・法・僧を理解し理解によって、三宝に敬意を払うことを教えています。

Q. 『なぜ仏教徒はろうそくを捧げるのですか?』

 仏・法・僧に対して確信を持つ人々が、お釈迦さまにろうそくの灯を捧げるとき、法(お釈迦さまの教え)のことを思い起こします。お釈迦さまが悟られる以前のこと、この世界は欲と怒りと無知に覆われ、暗闇と混乱のなかにありました。お釈迦さまのこころの中に深く根づいていた無知という暗闇を、ご自身の智恵で根絶し、悟られてすぐに、お釈迦さまは、この世の中が欲望で染まり、暗闇に覆われていることをはっきりと観ました。そして、そのなかで長い間苦しんでいる生命たちを見て、哀れみを感じました。そこでついにお釈迦さまは、この暗闇の世界に、ご自身が悟られた『真理の道』を教えることにしました。貪りには与えることを、怒りには優しさを、迷いには確かな道を、とあたかも暗闇の中に燈火をかかげるように、お釈迦さまは真理を明らかにされました。

 仏教徒は大抵、智恵を光にたとえます。彼らは、お布施から始まる『道』を実践することによって、彼ら自身に智恵の光が現れることを望みます。だから、お釈迦さまにろうそくの灯をささげるときにはこころの中で法と智恵の光のことをよく考え、静かに「私に智恵の光が現れますように」と望むのです。さらには、ろうそくが少しずつ短くなり、やがて灯が消えてしまうのを観察し、「永遠のものは何もない。私も少しずつ歳をとっていつかは死ぬ。だから死ぬ前に、お布施をし、道徳を守り、こころを清らかにしよう」と考えるのです。

Q. 『線香や花にも意味があるのですか?』

 線香の香りがあたり一面に広がり、人々が心地よく満たされる様子を、善行為(功徳)があたり一面に行き渡り、人々に幸せと平和が訪れる様子になぞらえて、それをこころから望んでいるということなのです。花についても同様です。

 もちろん、これらを気にしない人々もいるでしょう。何の考えもなく注意も払わず、ただ伝統に従ってやっているだけの人もいます。このような人は世界中に数多くいると思いますが、仏教国であるミャンマーには、お釈迦さまの教えに確信を持ち、専心している人々がたくさんいます。彼らはこの法の国で、互いに仲良く、笑顔にあふれ、平和でこころ安らかな暮らしを営んでいます。

 ミャンマーの仏教徒は、大抵朝早く起きて料理を作り、誰もまだ手をつけていない最初の食事をお釈迦さまに捧げます。そして「この徳ある行為が私の解脱を支えてくれますように。この功徳が私を、こころの汚れの終焉へと導いてくれますように(Idam no puññam Nibbânassa paccayo hotu. Idam no puññam âsavakkhay âvaham hotu) 」などの言葉を唱えます。

 私たちは、愛する人と別れたり、嫌いな人と一緒に暮らしたり、お金をたくさん持っていても欲しいものが手に入らないなど、この世でどれほどの苦しみを味わっていることでしょう。ですから、本当に輪廻を理解した仏教徒は、終わることのない欲の連鎖の中で長く生きる意味はないと考え、欲を絶つことができるよう、布施、道徳、こころの訓練の3つを実践しながら智恵を育てています。布施によって欲や貪りから離れ、戒律を守ることで悪い行いから離れ、また、こころの訓練によって心の汚れが取り除かれることに確信を持っています。こころが充分に落ち着くと、自ずと明晰な智恵が現れます。これら3つの実践は、涅槃もしくは来世の善き生へと導いてくれるのです。生きることの痛みを本当に理解した仏教徒は、智恵を育てるため、瞑想に励みます。そして、自分自身の身体とこころに起こる事象を観察することによって智恵が現れたとき、その生はたやすく、幸せなものになります。

 人は、自分自身の身体とこころを観察する方法を学ぶべきです。それは我々自身も実践し、他の人々にも奨励し指導している「ヴィパッサナー実践」と呼ばれるものです。これは、健全な人生を生きるための、最も簡単でかつ効果的な方法です。実践のときは、自分の身体とこころの動きを観察すること以外のどんな方法も、一緒に行ってはいけません。実践によって、我々は初めて、真に生きることができます。普通、人は本当の自分の人生を生きてはいないのです。こころはいつも暴れ回り、迷いの中にいます。必要なときはもちろん、考えなければなりませんが、ほとんどの時間、こころは無意味にさまよい、我々を疲れさせます。自分のこころの舵をしっかりとりたければ、ヴィパッサナーを学び、実践してください。遅かれ早かれ、自分のこころをコントロールできるようになるでしょう。