折々の法話

法の宝【1】丸太のたとえ

 

ウィセッタ長老

 今月から、ウィセッタセヤドーの法話の連載を始めます。今もテーラワーダ仏教が生活の中にいきいきと生きるミャンマーの地に生まれたウィセッタセヤドーは、ミャンマー各地の冥想センターで指導に当たってこられましたが、1996年来日、在日外国人はじめ、日本の人々にも仏法と冥想の指導を行っておられます。<Patipadâ2000年1月号より>

法の宝【1】<丸太のたとえ-1>           ウィセッタ長老(Ven.Vicittasara sayadaw)

ナモォタタ バガワトォ アラハトォ サンマァサンボォッダッサ
(6つの権威をお持ちである仏陀に敬虔に礼拝いたします)

■ガンジス河のほとりの法話

 ある日仏陀は、コーサンビーに近いガンジス河の岸にある木の下に座っておられました。500名もの比丘たちが仏陀に同行していました。仏陀は、大きな丸太が激流に流されるのをご覧になり、丸太を指し示して言われました。

「比丘たちよ。河の流れに運ばれる大きな丸太を見ましたか」

 比丘たちは答えました。
「はい、お釈迦さま。見ています」

 仏陀は続けて言われました。

もし丸太が、手前の岸の近くで捕まえられないならば海にたどり着くであろう。
もし丸太が、向こう岸で捕まえられないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、水に沈まないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、河の中で小さな島に乗り上げられないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、人間によって取り去られないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、神々によって取り去られないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、渦巻きによって沈まないならば、海にたどり着くであろう。
もし丸太が、腐敗しないならば、海にたどり着くであろう。
 仏陀は、「丸太は、以上8つのあやまちに陥らないならば、海にたどり着くだろう」と指摘されました。
それからさらに、お話を続けられました。

「なぜ丸太が海にたどり着くのかといえば、河の流れは海にむかう傾向があるからだ。
ですから丸太は、これら8つの障害に合わなければ海にたどり着く。
同じように比丘たちよ。あなたがたも、これら8つの障害に陥らなければ、ニルバーナ(涅槃)にたどり着けるであろう。

 なぜか? それは「正見」(sammâditti)は自然とニルバーナに向かうものであるからだ。それは苦しみの止滅である。しかしながら比丘たちよ。これはちょうどよいたとえである」

 ここで、ひとりの僧侶が、その比喩についての説明を仏陀に願い出ました。

手前の岸というのは、6つの明らかな感覚器官、つまり、眼、耳、鼻、舌、身体、心に相当します。
向こう岸というのは、6つの明らかな対象、つまり、眼に見えるもの、音・声、匂い・香り、味、触れる対象と、そして心の対象です。
水に沈んでいるというのは、ある存在が生物、無生物に執着することを意味します。
川の中流の小さな島に乗り上げているというのは、うぬぼれ、傲慢、横柄を表します。
人間によって運び去られるというのは、比丘が信者たちとの間でふさわしくない交際をする事を意味します。
神々によって運び去られるというのは、神々やブラフマに生まれ変わることを目的として善行を行うことです。
渦巻きの中に沈んでいくというのは、五感の楽しみにふけることを意味します。
腐敗するというのは、実際には徳が備わっていないにもかかわらず、徳のあるふりをすることを意味します。
 仏陀は比丘たちにこの話をなさいましたが、これは人種や宗教にかかわらず、すべての人のための法話です。この法話によって、比丘たちは誰もが8つの障害に陥らずに、海までたどり着くことができました。海にたどり着いたとき、輪廻からの解脱を得て、苦しみからのがれました。

 ところで、ある法話の中では仏陀が「海」と言うとき、輪廻という意味を持ちます。またほかでは、苦しみの止滅であるニルバーナを意味しています。この法話では、「海」は「ニルバーナ」を意味します。

■感覚器官と感覚の対象
 仏陀が「手前の岸」(つまり6つの感覚器官)と、「向こう岸」(つまり6つの感覚の対象)とを比較された意味は何でしょうか。ここでは「心」について、少しお話ししたいと思います。仏教心理学における「心」とは、対象を認識するものです。それはまばたきする間もないほど、100万分の1秒にすぎないような瞬間的なものです。

 ここでいう「心」とは、「心の感覚、対象」を表すとともに、それが直ちに消え去るものであることを認識する、というところまで含んで用いられます。意識、また心は、対象を認識するものですが、眼はそれを認識しません。6つの感覚器官の助けによって、心は対象を見るのです。たとえばあなたが、ロールスロイスの新車を見たとします。この場合、それは明らかに見える対象です。そしてそれらは眼の作用でありながら、心または意識で見るようにさせているのです。あなたはロールスロイスを見たとき、いかにも良いものに感じて自分のものにしたいと思うかもしれません。そしてもしそれが自分の車なら、それは大きな満足、喜びを与えてくれることを感じるでしょう。あなたはその車に、執着し始めます。あなたは、それを見て、買い、大変すばらしい自分の持ち物になるのです。あなたはそれを、ただの物質的現象の、自然なプロセスであるとはみなしません。

 あなたは、向こう岸(対象)つまり「車」と、手前の岸(感覚器官)である「眼」にとらわれています。なぜならあなたの執着は、眼に見える対象である「車」と、6つの感覚器官のひとつである「眼」によって生じているといえるからです。

 「眼」が車の色や形に接触すると、「見る意識」が生じます。しかし、見る意識はそこで止まることなく「考え」ます。そう、それは私の車、昨日買った、とても高かった、素敵な新車です。このようにして、あなたはロールスロイスに、物質に執着します。

 仮にあなたが道路の脇に車を止めたとします。そして他の人が不注意な運転をして、あなたの車に傷をつけたとしましょう。するとあなたは怒りを感じます。それはあなたが執着を持っていることを意味します。つまり「貪り」(robha)と「怒り」(dosa)です。「貪り」と「怒り」はあなたに幸福をもたらすでしょうか。いいえ、それは、不幸である「苦」をもたらします。なぜなら、あなたが、向こう岸と同じように手前の岸にも執着しているからです。その執着は、眼の助けによって、眼に見える対象である車によって生じます。どういう意味かというと、眼による意識が、手前の岸にあなたを立ち往生させるからです。もしあなたが、眼の助けによって車に執着するならば、ニルバーナである海には至らないでしょう。
(ウィセッタセヤドーの法話集から抜粋し、編集部でまとめました)

■ガンジス河のほとりの法話 2

 ガンジス川の激流に流される丸太を見て、仏陀が比丘たちに話した法話を前号で紹介しました。 ウィセッタセヤドーによる、法話の解説が続きます。

●丸太は5つの集合体
 丸太は法話の中で、人間にたとえられていましたが、それは「集合体」ともたとえられます。それは、精神的・身体的現象が5つ集まった「集合体」です。ロールスロイスに執着する人は、自分自身が単なる「集合体」であることに気づいていないのです。自分自身を、人、あるいは存在、また霊魂であるなどと思いこんで執着しているので、海にはたどり着けないのです。しかしもし、自分自身を、精神や身体の集合体と見るならば、そしてそれに執着しないならば、あなたは海にたどり着くことでしょう。 また、別の観点から集合体を考えてみます。あなたは昨日、本当に高価なロールスロイスを買いました。もしそれを、ロールスロイスと見るならば、あなたはそれに執着するでしょう。しかしもしそれを、物理的な物質の集合体、あるいは物質の変化の過程と見るならば、あなたはそれに執着しないでしょう。そして車が傷ついたときも、不幸にはならないでしょう。

●執着と自尊心
 丸太が水の中に沈むと仏陀がおっしゃったたとえの意味は、執着であり、欲望であり、貪欲、強欲です。もしあなたが、生物、無生物のいずれかにでも執着するならば、海にはたどり着けないでしょう。

●うぬぼれ
 小さな島にのり上げるというたとえは、うぬぼれ、傲慢を意味します。あなたがもし、富や地位についてうぬぼれがあったり、傲慢であるなら、それはニルバーナへの到達を遅らせるでしょう。傲慢な人は、本来のありようと、身体のプロセスを認識することができません。また、身体と精神の変化する過程を、人である、存在である、自我である、ととらえる人も同様です。それらは、怒り、貪欲、強欲、憎しみなど、多くの煩悩を引き起こします。このようにあなたが、小さな島にのり上げるなら、海にはたどり着けないでしょう。なぜなら自然な過程を自然な過程だと認識することができないからです。

●誤った関係
 もし丸太が人間によって取り去られるなら、海にはたどり着けないでしょうという言葉は、比丘たちに向かって言われた言葉です。比丘が、仏典を学び冥想実践や法話を行うことを怠り、弟子たちを正しい道に導かず、彼らの救いのために彼らの冥想実践をはげまさず、そのかわりに正しくない方法で信者たちと交わると仮定します。そのような比丘は「人によって取り去られる」のです。その人は海にはたどり着けません。その比丘は、人々との正しくない交際に執着するでしょう。彼は世間的な事柄に執着して、精神と身体の現象の3つの特色である「無常」「苦」「無我」を認識することができません。もし彼が、これら基本的な3つの存在の事実を認識できなければ、海にたどり着くことさえ望まずに、世間的な事柄に強く執着してしまいます。

●よりよい存在への願望
 もし丸太が神々によって取り去られるなら、海にはたどり着けない。これはどういう意味でしょうか。これは、あなたがもしあらゆる善や徳を積み、布施をし、道徳的な教えである戒律を守り、瞑想を、神々またはブラフマへの転生の視点から行うならば、あなたは神々によって彼らの領域に連れ去られるだろう、という意味です。もしこのようなことが起こったならば、あなたは海にたどり着きません。あなたはより良い生への転生という目的を達成するかもしれません。輝ける神に生まれ変わることでしょう。なぜならすでに善行を成し遂げたからです。しかしもしあなたが神に生まれ変わったら、あなたは輝いて大変美しいので、自分自身にどこまでも執着するでしょう。ですから海にはたどり着けないのです。

●感覚的な喜び
 もし丸太が渦巻きの中に沈んだら、海にたどり着くことはできません。それは、もしあなたが感覚的な喜びにふけるならば、海にはたどり着けないという意味です。それは執着です。あなたが、見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて考えるのなら、とても大きな渦巻きにとらわれることになるのです。そうすれば海にたどり着くことはできません。

●不誠実
 そして最後に堕落すること。もし丸太が腐れば、海にはたどり着けないでしょう。もしあなたが事実ではないのに、徳の高い人のように振る舞うなら、堕落して決して海にはたどり着けません。

●苦しみからのがれる道
 仏陀は次のように言われました。あなたがこれら8種類の障害に陥らないなら、確実に海にたどり着くことができます。なぜならあなたは、河の中流によって運ばれるからです。中流というのは八正道のことです。この八正道を育てることができれば、あなたは、手前の岸にも向こうの岸にもとどまらず、水の中にも沈まず、小島にのりあげることもないでしょう。また、人間や神々に引き上げられることもなく、渦巻きにのみ込まれることも、堕落することもないでしょう。そして確実に、ニルバーナの海にたどり着きます。 あなた方はこの八正道の育成に励まなければなりません。これら8つの障害にとらわれないように歩むためには、何を育てるべきでしょうか。まず、戒律(sîra) は道徳であり、根本的な、いわば土台です。集中力、禅(samâdhi)は戒律の土台の上に建てられるものです。智慧(paññâ)、すなわち洞察と悟りは、正しく集中に励むことによって生まれるものです。この「戒律」「集中」「智慧」によってなるこの八正道を成長させることは、それほど難しいことではありません。あなた自身、ありのままのあなたの体と心の動きを知るだけで十分なのです。あなたの体と心の動きを分析することなく、考えることなく、生じてくるありのままを観てください。ただよく、注意深く、正しくあなたの体と心に何が起こっているかを観てください。それで、十分なのです。もしあなたが、知識や偏見、先入観を持って、体と心の変化の過程を見るならば、迷ってしまい、よく集中できません。そして、体と心のありのままの現象を認識できないでしょう。

■ガンジス河のほとりの法話 3

 ガンジス川の激流に流される丸太を見て、仏陀が比丘たちに話した法話の解説が続きます。

●心の浄化が起こりはじめる
 あなたが体と心の活動を観察すると、次第にそこで起こっているプロセスに集中し観察できるようになります。そして集中力は深く強くなってきます。あなたの心は障害(nîvarana)から浄化され、感覚的欲望・渇愛(ka^macchanda) 、悪意(vyâpâda) 、惰性と無気力(thûna-middha) 、不安定・落ち着きなさと心配・後悔(uddhacca-kukkucca)、懐疑的な不信(vicikicchâ)のような障害物がなくなります。この5つの障害のひとつでもあなたの心の中にあるならばその心は汚れています。清らかではありません。もし心が清らかでなければ、洞察は「見通す力」を持ちません。心が5つの障害から解放され清らかになったときにのみ、あなたの洞察は見通す力を持ちます。

 見通す力があるとき、あなたは体と心の作用を認識します。はじめに、それらの微細な特徴を認識し、次には一般に共通した特色を認識することができます。認識には2つのレベルがあり、ひとつはヴィパッサナー冥想の過程の正見(sammâditthi)であり、それが最高潮に達したとき、あなたは涅槃(nibbâna)に到達して、苦しみが止滅します。そして最初の悟り(預流道の智慧)を通して四聖諦を認識できます。しかしながらそれは深い集中を通じてのみ、あなたが心と体の現象に注意深くなるときのみ、正見の第三のレベルとともにそれらを認識できるでしょう。

●正見について
 仏陀がお亡くなりになる夜、クシナラ公園で用意されたベッドに横になっておられると、深夜になってスバッターという医者が来て言いました。「聖なるゴータマ・ブッダ、私は多くの先生方によってさまざまな教理を学んでまいりました。彼ら皆が『私はすべてを知る阿羅漢である』と言っておられますが、彼らの言うことは本当でしょうか」仏陀はその質問には答えず、スバッターにいさめられました。「スバッター、彼らがすべてを知っているかどうかは問題ではない。それはあなたの救いに関することではない。ですから私はその質問には答えない。私の死のときは近づいている。あなたの解脱にとって何が重要なのかを考えてあげよう。よく注意して聞きなさい」

 そして、仏陀は言われました。「スバッター。どのような教理も、八正道を含まないものは沙門(samana)を得られない。(ここでいうsamanaとは心が落ち着き、すべての煩悩を滅した人のこと)

八正道が含まれていない教理に従って、煩悩を消滅させた人はいない
教理の中の八正道に従うことによって、煩悩を消滅させた人は確実にいる
だから八正道を含まない教理に従っても、煩悩を消滅させ苦しみを克服することはできない
 この法話は丸太のたとえと一致します。なぜならば、八正道を成長させない人は、確実にニバーナにはたどりつかないからです。八正道を成長させる人は、手前の岸や向こう岸にとどまることなく、確実にニバーナに到達するでしょう。仏陀は私たちに、八正道を成長させる道について教えられました。それが、気づきの冥想の技術です。

 仏陀がお亡くなりになる夜、枕元にやってきたスバッターという医師に、仏陀はニバーナに到達するために必要な八正道を説きました。仏陀は私たちに、八正道を成長させる道について教えられたのです。それが、気づきの瞑想の技術です。前号に続きます。

■気付きの瞑想
 仏陀は4つの気付きの基礎について説きながら、気付きの道(mahâ satipatthâna) を教えられました。仏陀は私たちが、身体、感覚、意識の作用、心の対象という4つのものの、ありのままの生起に気づくことができるよう、考えられたのです。気付きの瞑想の中心は、心と身体に起こるどのような出来事についても、ありのままの状態に気付き、観察することです。たとえ、痛み、うずき、堅苦しさやかゆみなどの不快な感覚があっても、ありのままに気づいていなければなりません。もしもあなたが、腰や膝の関節に痛みを感じたとしても、ありのままに観察しなければなりません。その痛みを無理になくしてはいけません。消してはいけません。

 あなたはそれらの痛みの感覚の真相、微細な特徴から粗雑な特徴までをも含む、その「真相」に気づけばよいのです。なぜなら、その痛みは、あなたがニバーナに至る手助けをしてくれるからです。言い換えるなら、痛みはニバーナの扉の鍵なのです。ですから、もしあなたが痛みを感じるなら、それはとても幸運です。その痛みが、あなたを苦しみの止滅に導くことでしょう。痛みによって、あなたは、5根のうちのひとつを、徹底的に認識するようになるからです。

 感覚の集合は、徹底的に認識され、理解されるべきです。この場合、苦しみの真実が、徹底的に理解されるべきなのです。私たちがありのままの痛みの真相の、微細な特徴から粗雑な特徴までに「気付き」、認識すれば、それはただの自然なプロセスであって、瞬間瞬間生じては滅するものであることを、観ることができます。それは1秒たりとも続かないものです。そしてこの、痛みや感覚の集合を認識することを通じて、あなたはすべての煩悩の止滅と苦しみの克服をなしとげ、悟りに達することができます。

 すでに申し上げたように、あなたが痛みの感覚を感ずるのなら大変幸運です。なぜでしょうか。それは、あなたが「精神」と「身体」の作用をともに見て、観察し、認識するチャンスを得るからです。その痛みは、真実の状態、自然な状態を認識できる大変よい機会を与えてくれますし、苦しみの止滅、ニバーナへと導く道すじでもあります。

 ここで、精神と身体の「微細な特徴」と「粗雑な特徴」について説明する必要があります。あらゆる精神と身体の作用は、それぞれの特徴を持っています。

 たとえばあなたは、貪欲(lobha = 強欲、執着などのすべての欲を含む)をご存知ですね。lobha はそれ自身独自のもので、他の精神と身体のプロセスに属していません。もしあなたに欲望があってロールスロイスを所有しているからといって傲慢になるなら、あなたは執着しています。それは、 lobha です。lobha の明らかな特徴は、密着していることなのです。

 怒り(dosa)は違います。dosa は粗雑な特徴を持っています。lobha が引き寄せる特徴を持つのに対し、dosa は嫌悪し、拒絶し、引き離す特徴を持っています。

■身体と精神の作用の6つの要素
 身体と精神の作用は、地(patavî-dhâtu)、水(âpo-dhâtu)、火 (tejo-dhâtu)、風 (vâyo-dhâtu)、空間 (âkâsa-dhâtu)、意識 (viññâna-dhâtu)、という6つの要素によって構成されています。

 patavî は地の要素であり、質量をつくるエネルギーで固さと柔らかさの特徴があります。この特徴は地の要素にのみ属しており、他には含まれていません。

 âpo は水の要素であり、素粒子を引っぱる、まとめるエネルギーで、流動性と結合力という明白な特徴があります。

 tejo は火の要素であり、熱によって形象を変化させるエネルギーで、熱くなり冷たくなるという明らかな特徴があります。

 瞑想者が心の深い集中に達すると、その心は浄化されるのです。そしてその瞑想者は、身体と精神の作用を明確に認識し始めるのです。つまり、お腹の膨らみ縮みを真剣に観察していくと、身体の作用に対する集中力が鋭くなり、膨らむ・縮むという動きを大変明確に認識しはじめます。身体の動きによって、空気の動きをも認識しはじめます。しかし、膨らみ・縮みの動きを正しくはっきりと鋭く見通すことができるとき、身体やお腹の形には気づきません。そのとき、あなたは「内なる動き」と「外なる動き」だけを認識するのです。そしてあなたはva^yo、風の要素を認識しはじめます。風の要素は、引き離すエネルギーで、移動させる特徴があります。(洞察の智慧1段階)

 その後あなたは、洞察の智慧の2段階へと進みます。気付きによる物質の特質・心の特質の分別と、その原因・結果の認識を経てから、心理的・身体的現象に共通する3つの特徴を認識するようになります。その3つの特徴は、無常、苦、無我です。あらゆる心の現象と身体の現象の関係は、この3つの特徴を持っていますが、瞑想者がある現象に対してどの側面に気付くかで、この3つのうちのひとつを認識するのです。そしてこの洞察の智慧を持つことによって、すべての心と身体の現象に共通する特徴を理解することができるのです。根気よく修行を続けて、1日中気付きを持続させ、自然に集中力を育てていくことによって、瞑想者の洞察の智慧が、すべての洞察の段階を通り抜けながら成熟していくのです。そして心の働きが止むことを憶測し、望むようになります。やがて心の働きが止む瞬間が訪れ、nibbâna に到達します。

■苦しみの終わるとき
 そこでこの瞬間、瞑想者はすべてのsankhâra(行・形成力・現象)が止滅の状態に入ります。彼は苦しみの原因である執着から離れます。なぜなら彼は、正しくしかも完全に苦しみを理解したからです。完全に理解したとき、苦しみの原因から離れるのです。真理の道が苦しみの止滅を導き八正道が成長しました。sankhâraの止滅に到達し、ここで彼は正見(洞察の智慧3段階)に達しました。それが四聖諦の認識による悟りです。そして彼は海にたどり着きます。なぜなら彼は、中流である八正道によって運ばれたからです。彼は手前の岸にも向こう岸にもとどまることはありませんでした。水の中にも沈まず、島で立ち往生することもありませんでした。ですから彼は海にたどり着いたのです。

 仏陀はガンジス河のほとりの木の下に座って、この話をされました。牛飼いのナンダが、この法話に大変感動し、仏陀に近づき申し出ました。「聖なる方よ。私は、手前の岸にいることも向こう岸にいることも、河に沈むことも恐れます。私は、中流によって運ばれ、海にたどり着きたいのです。どうか私を比丘にしてください。私は八正道の成長に努めます」すると仏陀が言われました。「それはだめです。あなたは牛飼いです。まず家に戻って、義務を果たしなさい。あなたの持ち主に牛を託しなさい。そうしなければ比丘にはなれません」そこで牛飼いは、仏陀のすすめに従い、いったん家に戻ってから比丘となりました。比丘となったナンダは、人里離れた森の中で、瞬間瞬間生じるすべての身体と心の現象に気づくことによって、八正道を成長させました。なぜなら彼は中流によって運ばれることを望んで、真剣に瞑想したからです。

 大変短い期間で、彼はニバーナの海へたどり着きました。彼は8つの障害に遭うことなく、八正道である中流によって運ばれ、海に向かって流れたのです。仏陀は繰り返し言いました。「今の瞬間に何が起こっているのかにありのまま気付き、身体と心に何が生じているのかに気づいていなさい。そうすればあなたは中流によって運ばれ、ニバーナの海にたどりつくだろう」

(ウィセッタセヤドーの法話集から抜粋し、編集部でまとめました。)

(丸太の項終了)