瞑想会などで唱える礼拝・三帰依・慈悲の瞑想について
皆さまが冥想会や講演会に参加されると、冥想や講演が始まる前に、先ず講師の方と一緒にパーリ語で、「仏陀を礼拝いたします」という意の礼拝、「仏陀・仏陀の教え(真理)・仏陀の道を伝える者である僧(僧団)、の“三つの宝”に帰依いたします」という意の三帰依と、日本語で、慈悲の心を育む慈悲の冥想を唱えます。初めて参加される方々の中には、何となく抵抗感があったり、多少の戸惑いがある方もいらっしゃるかも知れません。なぜ、このような礼拝・三帰依・慈悲の冥想を唱えるのでしょうか。スマナサーラ長老は、講演の中で以下のように説明されています。
「…なぜ私は皆さまに挨移もしないで、突然 『礼拝と三帰依を唱えましょう』 と申しますかというと、それこそが常識だからなんです。それは挨拶なんです。この意味が分かりにくいので、説明いたします。
スリランカの仏塔 ここで我々は、釈迦牟尼仏陀の話を聞くために集まるんです。先生はお釈迦さまです。肝心のお釈迦さまが涅槃に入られてここにいらっしゃらないから、仏教を少々かじっている私は、代表にもあたらないが、お話させていただいています。私も皆さま方も一応お釈迦さまの教えをいただく生徒側にいます。常識というのは、先生に礼をすることが先なんです。学校に行ったら学校の先生が玄関で土下座して生徒に挨拶をするということは、私から見ればちょっとおかしいんですよ。生徒が先生に挨拶をして、『よろしくお願いします』と言うのが普通だと思います。ちょっと古くさい常識かも知れませんけどね。もしかすると今は逆に、先生が土下座して挨拶をしなくちゃいけないと思っている現代人がいるかもしれませんけどね。 仏教は古いものだから昔の習慣で、先に先生に挨拶するようにしましょう。そういうことで、礼拝と三帰依を唱えることは、お釈迦様に対する礼、挨拶なんですね。
次に、『五戒文』を唱える意味です。やっぱりお釈迦さまが厳密に真理を語りました。それを勉強するなら、まあだらしない性格ではね、理解しにくいと思われています。道徳的に立派な性格ができている人にだけ、真理を理解して悟ることが可能です。ですから、今は口先だけでも結構ですが、五戒は一応立派な人間になるために努力する、という約束です。
なぜ、次に慈悲の冥想をするのですか。それは、これだけでも日本人の心に根付いてほしい、という切実な希望があります。慈しみの気持ちは、人間の生きるモットーにするべきです。他に対して恨み、憎しみではなく、友情の気持ちを向けるべきです。恨む者、恨まれる者、両者も不幸で苦しいのです。他に対する友情こそ、生きることの幸せを築き上げます。
ですから、皆さまに挨拶する前に、何の前触れもなく 『じゃあ、ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー…』 と、唱えることで始めます。皆さまが戸惑ったりするかもしれませんが、この儀式まがいのことは、仏教では何よりも先に行う挨拶です。これは、お釈迦さまに対する挨拶です。皆さま方に挨拶するのはそれからです。それを覚えていただければ幸いです。」
(平成12年1月22日 かやの木会館講演「死んだ常識と生きた非常識」より抜粋)