折々の法話

スリランカの少女が父に語るブッダの教え

すべては心象として捉えるべき

  • 監修:アルボムッレ・スマナサーラ長老
  • 日本語訳:Thushantha Thilakarathne
  • 協力:井上裕絵

前生で仏教の真理を理解し、預流果に達してから再び人間に戻っても、覚りの智慧はそのままです。今回ご紹介する女の子は、言葉を喋れるようになってすぐ、大人にも理解できないほど難しい仏教の真理を語り始めたのです。(中略)この子は勝手に説法をし始めたので、皆びっくりしたことでしょう。お父さんが娘の弟子になって、子供の話を皆にわかりやすくするために、色々と質問します。このお父さんも立派な方だと思います。

*  *  *

これはお布施についての説法です。一般人が行うお布施と、仏道の人が行うべきお布施の差を説明しています。一般人には、①お布施する私、②食べ物、③お布施する日用品、④お布施をいただくお坊さんたち、が存在します。そこで、この四つの項目に対して、こころに葛藤と執着が生まれます。しかし、この四項目は実在するものではなく、こころにあらわれる現象なのです。「私はお坊さんにお布施する」という考えではなく、「ここに私も、お布施の品物も、お布施を受ける僧侶も、こころの現象(心象)に過ぎない」と理解して、仏道の人は布施行為を行うのです。 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

娘:(皆に)三宝のご加護がありますように!

父:(返事するような意味で)三宝のご加護がありますように! それでは、今日も何か、○○ちゃんが知っている法話をしてくれますか?

娘:まず、全ての正覚者に礼拝をします(合掌)。はい、え~と……お父さん、日ごろ、お寺に行ったりしていますね。

父:はい、そうですね。

娘:それで、お父さんはお寺に行って、お坊さんにお布施(食事のお布施等)をしたりしますね。そのときは、どのような思考(心)でもってしていますか?

父:お坊さんにお布施するときですか?

娘:はい。

父:まぁ、そうですね。お坊さんにお布施するときだけではなくて、常に(お布施するときはいつも)、「この世(宇宙)の三十一次元の全生命に対して、私がその布施をすることで得られる善業(功徳)を、皆が涅槃に向かうために役立てられますように」と、功徳を皆に廻向する心でもってしていますよ。

娘:Sadhu!! Sadhu!! Sadhu!! お父さん、それはとてもいいことです! では今日の法話で、私はお父さんに「聖者(ariya)はどのような心でお布施するのか」について話します。

父:はい、お願いします。そうしたら、そのことについて教えて下さい。

娘:え~と、お父さん、あの~、凡夫(puthujjana)がお布施するときには……このように(これから話すように)お布施します。

父:何?……どうやって?!

娘:お父さん、あの~……

父:もっと大きな声で言ってくれる?

娘:(改めて大きな声で)お父さん、え~と、あのね、凡夫はお布施するときにね、う~ん……例えば、(凡夫とは)お父さんだとしましょう。(凡夫である)お父さんがお布施するとき、まずそこに、お布施をするお父さんがいて、お坊さんがいて、それからそのお坊さんにお布施する日用品などがあって、「このお布施行為で功徳が生まれる」……云々という感じの心でもってお布施します。

父:はいはい、○○ちゃんが言う「凡夫のお布施は、お坊さんがいること、食べるものがあること、他の日用品があることと、お布施する私がいる」ということなんですかね?! ん?!?!

娘:ですからお父さん、私は今日、聖者がどのように(どんな心の持ちようで)お布施をしているのかと話をします。

父:あ~! ○○ちゃんが言うのは、私たち凡夫がお布施するのは、ただただ凡夫的な(俗世間的な)やり方だということですか? それで、聖者がどのような心でお布施をするのか、という話をこれからする、ということですね?

娘:はい、そうですよ、お父さん。

父:では、その話をどうぞ、お願いします。

娘:お父さん、え~と、聖者のお布施は、あのね……そこに聖者がいるとするでしょう。でも、聖者の場合は、そこに誰かがいるのではなくて、ただそこに〈ひとつの心象(citta-dharmatā)〉があるだけ、ということです。

父:ということは、え~と、それを例えで言うならば……

娘:はい、そうですね。例えばお父さんが「聖者」だとしましょう。そのお父さんがお布施をしに行ったとしましょう。しかし、そこにいるのは〈私(お父さん)〉ではなくて、〈ひとつの心象〉だけなのです。ということを、(聖者である)お父さんはそのときにわかっているのです。

父:はい、はい。○○ちゃんが言うのは、そこにいる(お布施に行った)〈私〉とは、〔実際には〕〈心象〉だと理解している、ということですか?

娘:はいはい。

父:なるほどなるほど! どうしてもその〔真理の〕道に進むと、そのことがわかってくるよね。〈私〉というのは、〈ひとつの心象〉だと。それで、○○ちゃん?!

娘:それで、そこにもってきていたお布施(食事や物)があるでしょう?

父:はい、そうだね。何かお食事とかお坊さんにもって行きますね。はい、それで?

娘:お父さんは(聖者として)、それ(食事)もまた、〈ひとつの心象〉だとわかるのです。

父:そうですね。そこにある〈お布施〉〈日用品〉というのも、ある一種の〈思考〉で出来ていますね。はいはい。そのことを○○ちゃんは説明しているの?

娘:はい、そうです。それから、そのお布施を頂く〈お坊さん〉のことも、〈ひとつの心象〉だとわかるのです。

父:はいはい……「お坊さんがここにいる」というのも、〈ひとつの心象〉だと。それで?

娘:それで、私たちが考える〈善悪〉〈善業〉〈悪業〉ということもあるでしょう?

父:というのは、お布施することで得られる功徳なども含めてですか?

娘:そうそう。それも〈ひとつの心象〉です。

父:あ、なるほど! 私が途中で質問するのはちゃんと理解したいからですよ、○○ちゃん。で、すべてが、そこにいる〈私〉も〈お坊さん〉も〈功徳〉も、〈ひとつの心象〉に過ぎないのですね。そういうことですね。観察・洞察(ヴィパッサナー智慧)によって理解すると、そういうことですね。お布施をしに行っても、そこにあるのはただの〈心象〉だけということですね。

娘:はいそうです。

父:はいそれで、話はわかりました。聖者がお布施するとき、そこに感じるのは私たちと違って、〈私〉、〈お布施〉、〈徳〉、〈善悪〉云々ではなくて、ただただ、そこに〈心象〉があるのみだと理解している、ということですね。

娘:はい。

父:それで、そのことをちゃんと知ってお布施するとどうなりますか?

娘:私達は、布施をしなくてはいけないのですが、そのことをちゃんと知って、理解しながらお布施をしなければならないということです。

父:そうしたら、その凡夫がお布施するのと、聖者がお布施する場合との違いは何ですか? それぞれどんな重要性(価値)があるの?

娘:例えば、凡夫としてお父さんがお寺の小さな沙弥たちに、その沙弥たちが好きなお菓子やチョコレートをお布施しようと思って持って行ったとき、その沙弥たちが不在だったとしましょう。同様に、そのお寺の住職のお坊さんに対して何かお布施をもって行ったら、住職のお坊さんが不在だったとしましょう。そうしたら、そこで心に残念な気持ち(衝突、落胆)が起きますね。

父:あ~、なるほど。確かにそのときは残念な気持ちが起きてしまいますね。それで?

娘:ですから、お布施という善行為が目的だったのに、そこで残念な気持ちを発生させて(心の衝突を起こして)、結果的に善行為ではなく悪行為をしているのです。

父:あ~、なるほど! そうしたら、お布施するときには聖者がお布施するような形で、「これは誰々さんに〔差し上げる〕、いくらいくらの、このぐらいの高価なものだ」云々というふうに捉えないで、ここには〈私〉というのもなく、あるのはすべてただの〈心象(citta-dharmatā)〉だと理解しながら、手放す(執着を無くす)ことを訓練する意味で、以上のことを理解した清らかな心でお布施することが本来のお布施(聖者のお布施)である、ということですね。

う~ん? え~と、いや、質問は何もない……○○ちゃんの言うことがよくわかりました。

(父が子供の頭を撫でながら祝福する) 父:(最後の説明)現在までFacebookを通じてこのような動画を公開してきましたが、これからSACHI SAMIDUというYouTubeチャンネルを知人のお手伝いの元で新たに開設し、このような法話の動画をこれからアップするのでよろしくお願いします。質問や要望等もそこにお願いします。(以降、父のスリランカの視聴者皆への要望等、略)

初出:パティパダー2021年5月号

出典:සිතන්න යමක්…වඩන්න මගක් …10|Sachi Samidu