仏教から見る死(上)
我々人間はふつう、『死』について人と話したり、考えたりすることを極力避けようとしています。それは何か恐ろしく、重苦しく、まるで最大の『禁止用語』のひとつのようにも見えます。
人間は、それぞれが『自分』という小さな穀に閉じこもっています。そしてそのなかで『自分』の感覚を喜ばせるために、限りなく刺激や楽しみを追い求めます。でも、その喜びや刺激の対象は、やがて消えてなくなってしまうものなのです。そのことを人間は立ち止まって、真剣に考えようとは思わないのです。
しかし欲に夢中になっている人々も、「死はもうそこまで来ているのですから、『死ぬ』ということをもっと真剣に考えてみてはどうですか」と賢者に言われるまでもないのです。大切な両親や妻、子供たちなど、身近かな人が突然死んでしまったとき、彼らも、愛するものを失った悲しみでこころに強いショックを受け、欲のとりこになっていた愚かな自分の生き方に初めて気づき、人生の最も厳しい現実である『死』に目覚めることになるのです。そしてようやく目が開かれ、「なぜ人は死ぬのだろう。死から逃れることはできないのか。人生の楽しみを奪い取ってしまうこんなに苦しい死が、なぜ起こるのだろう」などと自分自身に問いかけはじめるのです。
死の光景に直面したとき、多くの人のこころにはたいてい、深い疑問が生じてくるものです。「今まで活発にエネルギッシュに行動してきた身体が、今では冷たくなり、感覚もなくなり、息も途絶えて死体となって横たわっている。生きる価値とは何なのか。かつては喜びや愛情で目を輝かせていたのに、今はもう永遠に目が閉ざされ、すべての動きを失ってしまった。人間は一体、何のために生きているのだろうか。死は、生きることをすっかり奪い去ってしまった」などのように。もし忠実にこの探求を続けていくならば、最終的には『真理』を発見するという、人間本来の可能性を開くことになるでしょう。
さて、ふつうの人々が触れようとしない『死』の問題について、仏教ではどのような見方をしているのでしょうか。実は、この『死』こそが、人生の謎『何の為に生きるのか』という問題をとく鍵なのです。もし『死』を理解することができれば、生きることを理解することができるということです。広い視点でとらえますと、『死』とは『生きる』という過程の一部なんですね。また別の視点から見ますと、生と死は、ひとつの同じ過程における両面とも言えるのです。もし過程の一つの面(死)を理解することができれば、もう一方の面(生)もまた理解できるということなのです。このように『死』を理解することは、同時に『生きる』意味を理解することにつながるのです。
やがて必ず自分に訪れる『死』というものに集中して、深く向き合って、よく考えてみることによって、死ぬ運命に支配されている地球上のすべての人々のあいだの、人種や信条、カーストの『壁』を破壊してくれます。そして、慈しみと哀れみのきずなをもって、人から人へと結びついていき、頑固なこころをやわらげてくれるのです。『死』は偉大な平等主義者です。生まれ、地位、富、権力などの差別は、死の前ではすべてうち砕かれ、焼き尽くされてしまいます。どんなものも、決して、死に勝つことはあり得ませんから。『死の平等性』を表すこんな詩があります。
死が訪れれば
王笏(おうしゃく)や王冠もくちはてる
ボロボロになった鎌や鋤も同様にくちはてる
何の違いもない
(王様の死も百姓の死も何の違いもない)
『生きているものは必ず死ぬ。死は偉大な平等主義者である』ということを、前回お話しいたしました。では、死を深く自覚していくと、生に対する姿勢は、どのように変わっていくのでしょうか。
死を意識することによって、快楽に溺れることから解放され、自己中心性が打ち砕かれていくのです。間違いだらけの価値観は、調和のとれた健全な思考に変化し、目的もなくあちこちとさまよっている散漫なこころは、明確な方向づけと、落ち着きのある強い精神へと変わっていくんですね。
お釈迦さまは弟子たちに死の冥想(maranânussati bhâvanâ) を強くすすめられました。この冥想を修習したい人は、ある一定の時間を決めるか、あるいは、特定の時間は決めずに日常の生活のなかでいつでも、『死が訪れます』とこころで念じます。清浄道論(Visuddhi Magga) では、『死』は、悟りにいたるために欠かすことのできない最も伝統的な冥想対象のひとつであると、論じられています。この冥想は、気づき(sati)と緊迫感(samvega)、それから理解力(ñâna)をもって、正しく実践することが非常に大切なんですね。
こんな例があります。まだ若い、ある弟子は「いつどんな瞬間にでも死ぬ可能性がある」という事実に、鋭く気づくことができませんでした。死は、遠い将来、自分が年老いてから訪れるものだと考えていたのです。このような彼の死の考察は、あまりにも明晰さに欠けているんですね。ですから、悟りを得るためには、結局、何の役にもたちませんし、輪廻は延々とつづいてくことになるのです。
死を深く考察することは、どれほど重要で、有益なことでしょうか。清浄道論に、その功徳が記されています。『死の冥想に専心している弟子たちは、いつどこでも注意深く、生活において、欲に溺れて楽しみを得ようとはしません。また来世を渇望することもなく、悪い行為を避け、日常生活に必要な諸々のことへの執着からも離れています。さらに、どんなときでも無常を知覚することができ、存在の本質である虚しさと、自分や魂という実体はない、という真理を理解することができるのです。さらに、死の瞬間には、少しも怯えることはなく、気づきと意識をしっかり保っていられるのです。そして、たとえもしこの現世において涅槃にいたることができなくても、身体が壊れたのちには、幸福な次元に生まれ変わることができるのです』と。
このように、日々の生活のなかで死を意識することは、こころを清らかにするだけではなく、死ぬことへの恐怖や、怯えもとりのぞいてくれるのです。さらに最後の息を吐く瞬間には、しんぼう強く、落ち着いて、その状況に直面することができるんですね。死を念じることで、落ち込んだり、気力を失ってしまうことは決してないんです。それどころか、いつ死が来てもいいように死ぬ準備をして、待ち受けている状態なんですね。
お釈迦さまは、増支部経典(Anguttara Nikâya) のなかで次のことをおっしゃっています。『比丘たちよ、ここに10の思考があります。もしこれらを成長させ、さらに成熟させれば、究極的な涅槃にいたるための大きな結果、大きな功徳を得ることができます』と。これら10の思考のひとつに“死”があるんですね。死や老いや病気のような普遍的な苦しみを考察することは、探求や冥想を通して最終的に真理へといたる長い道のりにおいての、明確でわかりやすい出発点をつくってくれるのです。
まさに、これがお釈迦さまに起こったできごとなのです。年老いた人、病気の人、それから死んだ人の光景が、優雅な宮廷生活を営んでいたシッダッタ王子(Prince Siddhattha) に、妻や子供、家、国の後継の地位を放棄させ、『生老病死』を解決する道へと向かわせたのです。最終的には、存在の苦しみをすべて克服して、この上ない幸福である涅槃にいたり、ブッダとして、栄光に輝いたのでした。
多くの人々は、『死』に注意を向けることをいちじるしく嫌います。死の話題が持ちだされるといつも、顔を背け、追い払いたくなるような嫌悪感が生じるのです。それは、無知 (avijjâ ) に支えられた人間の煩悩…ある時は恐怖、あるときは渇愛や自己愛など…が原因になっています。この「死を理解したくない」という気持ちは、病気にもかかわらず検査を受けることを嫌がっている患者の心境に似ています。
私たちは本気で、『死』という避けることのできない事実に直面する価値を学ぶべきなんですね。真理の中にしか平安はないのですから。もし、こころを改善するために必要な方法を講じて死に直面すれば、すぐに“安らぎ”を経験することでしょう。
『無知こそ幸いなり(知らぬが仏)、知ることは愚の骨頂である』といったことわざがありますが、これは仏教にはあてはまりません。死を無視して生きることは、愚か者の楽園で生きることなのです。清浄道論には、『怠ることなく、常に死を念頭に置く賢者は平安である』と記されています。
さて、私たちはこれまで『死を熟考することがいかに有益か』ということを見てきました。さらに死の考察をつづけていきましょう。
まず最初に「生命はなぜ死ぬのか、死の原因は何か?」という疑問がありますが、これを生理学者に訊いてみましょう。彼らは「身体の機能が停止するから」と答えます。では「なぜ身体の機能が停止するのか?」とたずねてみると、「心臓の鼓動が停止するから」と答えます。病気は、もしその進行を阻止しなければ、身体の臓器や各々の部分を悪化させ少しずつ変性させて、やがて破壊します。ゆえに、身体中に血液を循環させている心臓に、過度の負担をかけてしまうのです。このように結論として、心臓が停止するのは病気が原因だ、と言うんですね。それでは「なぜ病気になるのか?」と聞いてみると「身体の機能に異常が起こったり、不規則な生活をしたり、また事故に遭ったりするせいです」と答えます。それらが原因で、身体の一部や全体の健康を損ねて病気になるのだと言います。さらに「身体に病原菌が入ったり、生活が不規則になったり、事故に遭う原因は何ですか?」と聞いてみます。彼らは「それについてはわかりません」と言うでしょう。生理学者は、確実に、この段階において私たちを救うことは不可能なんですね。問題が、生理学の領域を超えてしまい、人間の(道徳上の)行為の領域に入るからです。
ある2人の人が伝染病にかかりました。ひとりは抵抗力が強いのに死んでしまい、もうひとりは抵抗力が弱いのに助かりました。なぜこのような差が生まれるのでしょうか?
また、3人で滑りやすい廊下を歩いていました。ひとりは滑って転び、頭を打って死にました。ひとりは滑って小さなケガをしました。もうひとりは滑ることさえもしませんでした。3人とも同じ廊下を歩いていたのに、なぜこのような違いが生じるのでしょうか?
身体のみを研究している生理学者から、その答えを期待することはできないことは明らかですね。また、人間の心理だけを研究している心理学者からも何ら満足のいく答えは期待できないのです。この問題は、生理学や心理学の範囲をはるかに超えて探究しなければならないものなんですね。
この理解しがたい違いを、納得のゆくように説明しているのが、仏教哲学における『カルマの法則』なのです。これは“因果法則”や“行為と結果の法則”とも呼ばれています。このカルマの法則こそが我々の探究にもっとも的確に応えうるものなんですね。伝染病に感染したとき、死ぬ人もいれば死なない人もいるのはなぜか。また、3人で同じ廊下を歩いているとき、3人3様、それぞれが異なった結果を経験するのはなぜなのか。これらすべてのことを決定しているのが、カルマなのです。
今月は『業の法則』(因果法則、行為・結果の法則)という観点から、「死」にアプローチしてみましょう。
「業の法則」は厳密な会計士のようなものです。現在の個々の人間の喜びや苦痛の大きさは、過去にそれぞれがなした善悪の行為に相応する結果です。それより多くも少なくもないんですね。また未来の幸福や不幸も、自分の善悪の行為によって、自らつくりだされていくものなんです。
『生命は業を所有し、業を母胎として生まれ、業に固く結びつけられ、業に依存し、善悪の業をつくってそれを相続する』
増支部経典(Anguttara Nikâya)
さまざまな行為から、さまざまな結果が生まれます。ですから、生きているときの行為や条件にしたがって死因も異なってくるんですね。どんな行為や原因にもそれにふさわしい結果があるのです。これが確固たる真理なのです。
業の法則とは、『行為には必ずそれに値する結果がともなう』というゆるぎない秩序のことで、何か支配者や組織などが、法則を制定しているわけではありません。また、自然も法則によって成り立っています。マンゴーの実が木から地面に落ちるのは、神々などの外部の力がそうすることを命じているのではなく、地球の引力やマンゴーの重力が原因なんですね。自然界にも一定の秩序がはたらいているのです。私たちの日常の行為にも同様に、原因と結果の法則、または行為と結果の法則が必然的にはたらいています。この法則は、外部の独断的な力に依存しているのではなく、『ある行為がある結果を生み出す』という普遍的な真理なのです。
人間の「生と死」についてはどうでしょうか。これも根拠のない外部の力で決定づけられているものではありません。木が成長し、やがて枯れることと同様に、ある法則に基づいているものなんですね。また‘偶然’でもないのです。なぜなら、あらゆる現象は、それ以前に自らがなした行為や条件の結果なのですから。偶然が「生と死」を支配していることはありえないのです。私たちは原因を知らないときに‘偶然’という言葉を使うんですね。因果法則を発見することは「死」を理解することを助けてくれるのです。
私たちは、外部の存在が個々の業を形成するのではないことを知りました。業とは自らの行為と結果のことに外なりません。ですから、自分が蒔いた種は自分で刈り取らなくてはいけないのです。また業とは‘過去’という密閉された箱から出てくるものではなく、いつでもつくりだされているものなんですね。人生は因果法則によって成り立ち、私たちは瞬間瞬間、業を担って生きているのです。ですから未来は、すべてが過去の行為の結果ではないのです。今の瞬間もまた未来の原因と条件をつくりだしているのです。
もしあなたが死を恐れるのなら、良き未来を確保するために、なぜ、今という時を賢く使わないのでしょうか? 死を恐れ、怒りや怠けなどの悪い感情が、私たちの未来の幸福を妨げています。ある人々は、道徳を守り、他の生命を害することなく、自分にできることで他人の役に立ち、いつも法を思い起こし、法に従って生きています。このような人々は疑うことなく幸福な未来のために励んでいます。法に従って生きる者は、確実に法に守られます。また死を考察することは、法に従うことの手助けをしてくれるんですね。法に守られる人々は死を恐れることがありません。また死が訪れたときも、落ちついてその現象に直面することができるでしょう。
今月は『形成(Sankhâra)の法則』という観点から、「死」にアプローチしてみます。この『形成の法則』とは何でしょうか? これは『あらゆるものはいくつかの要素の集合によって形成され、独立して存在する実体はない』という意味です。
まずSankhâra(サンカーラ)という言葉を分析してみましょう。
Sanの語は「互いに、同時に、まとめて」、khâの語は「構成する、組み立てる」という意味で、この2つの語を合わせると「同時に組み合わさって形成された」や「互いに集まって構成された」などという意味になります。
「この世のすべてのものは、いくつかのものが組合わさって成り立っている」と、お釈迦さまはおっしゃいました。大きなものも、小さなものも、巨大な山も、小さなマスタードの種も、太陽も、月も、砂の粒子も、あらゆるものは、多くの異なる要素が結びついて形成されているのです。他に依存することなく、それ自体で完全なものや、常住不変なものは何ひとつありません。
しかし、ものごとには、実体があるように見えます。それは私たちの‘感覚’が原因なんですね。見る、聞く、喚ぐ、味わう、触れる、考えるの感覚が「ものごとには実体がある」という誤った見方を生み出しているのです。最近では科学者たちも、この‘感覚’が信頼することのできない暖味なものであることを認めました。永遠不滅な存在というものは単なる概念や言葉にすぎません。実際には存在しないのです。
ここに、「形成の法則」についての、ナーガセーナ尊者とミリンダ王との有名な対話があります。ナーガセーナ尊者は、ミリンダ王が、討論の場所までどのように来たのか、歩いてか、それとも乗り物でかと問いかけます。ミリンダ王は車でやって来たと応えました。
尊者「大王よ、あなたは車でやって来たと言いましたが、何が車であるかを私に告げ
てください。長柄が車なのですか?」
大王「そうではありません」
尊者「車軸が車なのですか?」
大王「そうではありません」
尊者「車体が車なのですか?」
大王「いいえ、そうではありません」
尊者「くびきが車なのですか?」
大王「いいえ、ちがいます」
尊者「車輪が車なのですか?」
大王「いいえ、そうではありません」
尊者「車棒が車なのですか?」
大王「いいえ、そうではありません」
尊者「大王よ、いったい車はどこにあるのですか?
ここにあるのはあなたがこの場所までやって来た車ではないですか?
あなたは全インドの大王にもかかわらず『車は存在しない』と嘘を語ったのです」
続いて、大王はこのように答えました。「ナーガセーナ尊者、私は嘘など語っておりません。長柄、車軸、車輪、車棒などの部品によって‘車’という言葉や名前が起こるのです」と。車とは部分の集合に貼られたラベルにすぎないのです。
このようにバラバラに解体したり、分析することで、「車とはいくつかの部分が集まって形成されたものであり、実体として存在するものではない」ということを、尊者は大王に納得させたのでした。
同様に、『人』や『私』というのも、実際に固定して存在するものではなく、単なる名前や言葉、ラベルに過ぎません。究極的には、ただ単に変化し続けるエネルギーしかないんですね。Sankhâraは、物体(rûpa)だけではなく、こころ(nâma)にもあてはまります。こころもまた身体と同じく、形成されたものなのです。