あなたとの対話(Q&A)

捨てること離れること、思考と妄想、禅とヴィパッサナー冥想、なぜ生きることに飽きないのか?

パティパダー2010年8月号(156)

・捨てること、離れること
・思考と妄想
・禅とヴィパッサナー冥想
・なぜ生きることに飽きないのか?

捨てること、離れること
 対象を「捨てる」「離れる」とは、どういうことでしょうか?

この質問は、単語の使い方が間違っています。対象を捨てる、離れることは不可能でしょう。町を歩いているとき、人々が見えるとします。(それは「見える対象」です。)では、どのようにしてその人々という対象を捨てられるでしょうか? 対象を捨てるのではなく、その対象に対する愛着、執着、感情を捨てるのです。愛着は、対象を認識する人のこころに起こるものです。自分のこころ・気持ちぐらいは、自分で管理できるでしょう。
 
 仏教は愛着を捨てることを説くのであって、「対象を捨てる」というテロリスト的な、原理主義的な話をしているのではありません。
 
 例えば、赤ちゃんへの執着を捨てる、という場合は、生まれてきた赤ちゃんをゴミ箱に捨てて綺麗さっぱりするのではなく、その赤ちゃんに対する「私のもの、私の所有物、私の財産、私の命、私の生き甲斐」などといった、人権侵害的な、主観的な、我が儘好き勝手な、妄想的な、執着をすてるのです。慈しみ、あわれみを持って大事に赤ちゃんを育てるのです。ですから、釈尊の時代にも、出家が孤児を見つけたら、寺に連れて行って大事に育てたケースが記してあります。

思考と妄想
 自分の中で、うまく「思考」と「妄想」を区別する為には、どのような所がポイントになるのでしょうか?

思考とは、何かのテーマ、問題について、論理的にその解決を探る行為です。結果として、答え・結論というものが現れるので、一つの思考の流れが限りなく続くことはありません。妄想には論理性がいりません。しかし、論理的に妄想することも可能です。テーマ、問題などがないので、妄想には結論もないのです。妄想の流れに終わりがないのです。その流れを直ちに切るものです。そうしないと、感情の餌食になってしまうのです。
 
 思考の場合は、その問題を考えたり、又、置いておいて別な時間で問題に取りかかったりすることも出来るのです。
 
 妄想は感情により、自然発生します。
 
 思考は問題が起きたところで、それを解決するために自分の意志で行うものです。
 
 妄想によって、強い貪瞋痴が生じます。
 
 思考の場合は、内容によって、貪瞋痴になることも、不貪不瞋不痴になることもありえます。

禅とヴィパッサナー冥想
 禅とヴィパッサナー冥想の違いは何ですか?

文化的な違いはありますが、中身にはそれほど差がないのです。だったら禅をやればいい、と思うかもしれませんが、禅にもそれなりの問題があります。釈尊が教えた冥想の方がベターなのです。禅宗は「覚り」ということを説いていますが、禅の歴史は、一貫して覚りから遠ざかっていってしまった歴史なのです。覚りが、謎々のようなモノに堕落してしまった。冥想の具体的な方法論にも微妙に差があります。理論は同じだが、達する方法論に差があるのです。
 
 修行して、手応えのある結果に達するためには、ヴィパッサナーより禅の方がたいへんだと思います。そんな程度のことです。冥想といっても、ヴィパッサナーと禅以外の冥想は大したことないのです。ただ固定概念をつくって、それを繰り返させてマインドコントロールするだけです。禅を修行してみても構いません。しかし、現代的にビシビシと修行して、結果を確かめたければ、ブッダの説かれたヴィパッサナー冥想をやってみることです。

なぜ生きることに飽きないのか?
 人は生きることに一生懸命ですが、なぜ生きることに飽きないのでしょうか?

この質問にはズバリと簡単に答えられます。なぜ生きることは苦なのに、その苦が生じるのか、という疑問に対する答えは、釈尊の説かれた四聖諦の二番目である「苦集聖諦」なのです。しかし他人の話を聞いても、人の心にそれほどのインパクトがないのです。なぜ生きることに飽きないのか、という問いに、一人ひとりが自分の力で答えを探したほうがよいのです。また、仏教を勉強していると、この疑問が自然に頭をもたげることになるのです。お釈迦様の教育方法は、そうなっているのです。自分の頭にもたげる疑問は、自分自身で解決するべき宿題になるのです。その答えを見つけることが、自分の覚り、解脱につながるのです。

 それでも、仏教の答えを申し上げます。なぜ生きることに飽きないのでしょうか? それは「渇愛」があるからです。私たちの心には「渇愛」という働きがあります。これは「渇いている、欲しがる」という意味で、生命の根源的な欲望のことです。
 
 では、なぜ渇愛が生まれるのかといいますと、それは、すべてのものが不完全だからです。どんなものも不完全で、無常で、消えていきます。なんでもかんでも消えていきますから、私たちはそれを阻止しようと、何かにつかまったり、欲しがったりするのです。
 
 しかし、何につかまって、何にすがっていくら頑張っても、すべてのものは不完全で無常ですから、結局は心に「足りない」という不満が生まれます。それでまた「欲しい」という新たな渇愛が生じるのです。この心の働きを「渇愛」といいます。
 
 たとえばごはんを食べるとき、私たちはたいてい、おいしく食べたいと思い、頭の中でおいしさを妄想します。でも、実際のごはんは不完全なものです。だから食べても食べても「もうちょっと美味しいものがよかった……」「もうちょっと食べたかった……」という不満が残るのです。それでまた別のものが食べたくなり、食べるのです。それで死ぬ瞬間まで、もっと美味しいものを食べたい、という気持ちだけは無くならないのです。寝たきりになって、食べられない状態になっても、その気持ちだけは消えないのです。
 
 身体が健康で元気でも、「もうちょっと健康なほうがいい……」という気持ちになります。なぜなら、今の健康状態は不完全で、壊れていくのだから。
 
 お金が儲かっても、これで十分ということにはなりません。儲かったお金も消えていきますから。それで「もうちょっとあったほうがいい」という欲が出てくるのです。お金も不完全で無常ですから、足りなくなります。それで渇愛が生まれ、儲けようとさらに頑張ります。でも頑張っても頑張っても、結局は「足りない」という気持ちが増えることはあっても、消えることはないのです。
 
 このように、私たちは絶えず「不完全」「無常」ということに攻撃されています。それで「不満」と「渇愛」が生まれ、間違った方向で頑張ってしまうのです。

 すべてのものは不完全で、無常です。無常なるものは、いくら対象を変えても、無常に変わりありません。壊れるものは、いくら集めても、壊れるのです。これは避けられません。
 
 そこで「あっ、なるほど。いくら集めても壊れる!」と理解することを、仏教では「反対の道」「違う道」と言っています。それで初めて、生きることに飽きるのです。
 
 生きることに飽きるということは、仏教で言えば「覚りの智慧」です。ですから、生きることに執着して頑張っている人は、覚っていないということですし、そこに目覚めない限り、解脱の方向には行きません。覚っている人だけが、生きることに飽きるのです。
 
「無常」の真理を発見すると、「生きることは苦である」ということが理解できます。「無意味だ」という異なる次元の智慧が生まれてきて、「生きることに飽きる」のです。
 
 これは、けっして否定的でネガティブな感情ではありません。その反対で、非常に高度な智慧なのです。
 
 この高度な智慧を、修行・実践によって体験し、体得することで、私たちは「壊れることのない真の幸福」が得られるのです。