あなたとの対話(Q&A)

幸福になるために道具はいらない・他

パティパダー2010年11月号(159)

・心は物質を100%支配している?
・後悔と懺悔の違い
・管理や決まりを守るべき?
・冥想とスランプ
・幸福になるために道具はいらない

心は物質を100%支配している?
 ダンマパダの一、二偈などで、物質は心に支配されている、という教えがあります。これは、心は100%、物質を支配しているという意味なのでしょうか?

100%ということは言えません。やはり心と物質は相互依存なのです。どちらが威張っているかというと、心になりますが、実際はレシプロカル(reciprocal 相互的)な働きをしているのです。サーリプッタ尊者が因果法則を説いた経典では、「名色から識が生まれる。識から名色が生まれる」と述べられています。サーリプッタ尊者は竹の譬えを出します。二つの竹の束を立たせるために、互いに寄りかからせなければいけないのだ、と。その場合は、片方の竹がお互いにもう片方の竹を支えている。そういうふうにナーマ(名、心)がルーパ(色、物質)を支えて、ルーパはナーマを支えているのだと(相応部12‐67)。互いに支え合っているから、心が100%物質を支配していると断言することはできません。

 一番レベルの低いところで考えれば、暑くなると機嫌が悪くなるでしょう? その「暑い」というのは外の物質のはたらきでしょう。それによって心が変わる。お腹が空いたら、えらく機嫌が悪くなる。美味しいものを食べちゃうと、急に機嫌がよくなったりする。その機嫌の悪さと、機嫌の良さを誰が作ったかというと、物質なのですね。ですから、そうやって物質の影響を受けて心が変わるし、心の影響を受けて物質も変わるのです。

 機嫌が悪い時は、美味しいご飯を持ってきても「なんだ、こんなもの」と怒る場合もあるでしょう。その場合は、物質は美味しいのに、心は機嫌が悪いから美味しく感じないのです。その時は、心が優先で決めてしまいます。
 
 例えば、悲しい出来事が起きると、食べる気にもならないのです。物質だけで考えてしまうと、お腹は空くはずでしょう。体はガタガタと壊れるはずでしょう。その時は、心が優先で物質を支配してしまうのです。ですから関係は相互的です。
 
 仏教の立場は、心が100%物質を支配するのではなく、心がすべての物事において優先である、ということです。心が物質を支配・管理している、ということになります。が、なんでもできると思ってはならないのです。この地球に生命がまったくいないと想像してみると、この地球は自然的な変化があっても、何も変わらないと理解できると思います。例えば、月は何も変化のないところだと言われているでしょう。それは、生命がいないからです。この地球にたくさん生命がいるから、地球の変化は激しいのです。人間が地球を支配していることが明確でしょう。しかし、完全に支配することもできないのです。我々は文化を作ったり科学的な開発をしたりして、地球を変えているのです。それは私たちの心がやっているのです。それほど難しい話ではありません。人間のように強烈に思考する心がないので、他の生命が地球に与える変化よりは人間が地球に与える変化が大きいのです。単純に身の回りを見渡してみれば、いかに心が物質を支配しているのかと理解できるでしょう。
 
 しかし我々は、地球の変化に悩む、温暖化に悩む、資源が少ないことに悩む、環境汚染に悩む、核兵器・生物兵器などに対して悩む。これらの悩みも心が作ったのです。その悪い結果は、人間が受けなくてはいけないのです。心が汚れているから、このようになったのです。汚れた心で物質を支配すると、ろくな結果にはならないのです。もし心が清らかな人ならば、その心によって支配される、変えられる物質は、人間に幸福をもたらすことは言うまでもありません。ダンマパダの一、二偈はそのことを教えているのです。

後悔と懺悔の違い
 先生のお話のなかで、後悔はよくないというお言葉がありました。この後悔と、懺悔の違いがよく分からないので、教えてください。

懺悔というのは、明るい行為です。自分の過ちを正直に認めることなのです。「私は完璧な人間じゃないから、ごちゃごちゃいろんな間違いもやってしまいます。ですから、懺悔します」というくらいのことです。それで、懺悔して、もう繰り返さないようにするぞと気持ちを切り替えて、失敗から立ち直るのです。後悔すると、どんどん状態がひどくなってしまいます。後悔では、後退するばかり。懺悔すると、前進するのです。前進するために、懺悔するのです。自分の過ちを隠すことはしない。後悔とは何かというと、「なんであんなことをしたのか」という風に、自分を責めたり、他人に責任を転嫁したりして、怒りで過去の記憶を繰り返すことですよ。「あれをやっておけばよかったのに。あれをやらなかったほうがよかったのに」という具合に、どんどん暗くなるのが後悔です。「あ、悪いことをしてしまった」と認めて、また明るく前進することが懺悔なのです。

管理や決まりを守るべき?
 我々の社会に、管理や決まりがたくさんあります。でも、そういうのを守るのは好きじゃないです。そんな私がこの社会で生き抜いていく方法はありますか?

簡単です。阿呆が決めた理由のない決まりなら、真剣に守らなくてもいいのです。きちんと理由がある決まりなら、守るのは苦痛ではないはずです。赤信号は渡るべきではない、ということを守るのはたいへんではないでしょう? 理由のない、ただの決まり、というのは苦痛でしかないものです。
 
 本当は、決まりを作る資格はみんなにあるわけではないのです。智慧のある優れた人格者にだけ、その資格があるのです。ブッダは、一切の生命のなかで最も優れた存在です。ですから、仏教徒はブッダの作った決まりはしっかり守るのです。その場合も、きまりの理由をもよく理解して、どういう条件で作られたかも知った上で守るようにするのです。それでも、ブッダの定めた決まりであれば、理由が分からなくても守っておいた方が無難です。ブッダが、人々の不利益になる決まりを作るわけがないのですから。

 智慧ある人が作ったわけではない、世の中にある様々な決まりには、合理的な理由があるものも、ないものもあります。一概に守るべきとも言えないし、守らなくてもいいとも言えないのです。ですから、よく見極めて、「赤信号は渡るべきではない」というような合理的な理由がある決まりは納得してきちんと守る。理由のない単なる決まりだったら、テキトウに守る。社会で生きていくには、そのくらいの考え方でいいのではないかと思います。

冥想とスランプ
 冥想を始めて一ヶ月経ちました。何度か「冥想が上手くいった」と思えた経験があったのですが、また同じ境地に至りたいと思っても上手くいかず、スランプ状態です。どうすればいいのでしょうか?

これは誰でも陥る失敗です。冥想はふだんの生活では経験しないような「脳の運動」ですから、やっていると脳が喜び・快感をかんじてしまうのです。その喜び・快感に執着すると、麻薬中毒と変わらなくなるのです。これは危ないのです。うまく行った、という経験に執着すると、そこから一歩も進めなくなります。冥想についてスランプに陥って、おかしな誤解をはじめたりするのです。ですから、「まぁ、べつに」という感じになった方が冥想は進むのです。「べつに、まぁ、いいや」と思える冷静さが必要です。冥想で得られる喜び・快感というのは、例えるならば、子供が「はじめてのお使い」に成功した時のようなものです。その子供じみた喜びをいつでも感じたいと思うのはおかしいのです。仏教の冥想には、もっと大人になる世界があるのです。幼稚な喜びは放っておいて、先に進まないといけないのです。

幸福になるために道具はいらない
 世間一般では、人間の幸福というのは、名誉欲、出世欲、といったものを満たすことが欠かせないと言われています。仏教では、幸福という問題について、どう考えているのでしょうか?

世間の幸福論には論理的な間違いがあるのです。それは、道具が幸福だと思っていることです。幸福というのは、心が喜びを感じることなのです。家や財産も、地位や名誉も、家族さえも、そのための道具なのです。道具を使って何かをしないと意味がないでしょう。それなのに、世間では、道具が幸せだと思っているのです。高級な包丁を包装して100年置いておいても意味がない。包丁は食材を切るために使わないと。ストラディバリウスを金庫に入れても意味ない。それを誰かが演奏して初めて、凄いバイオリンだ、ということになるのです。
 
 名誉・権力・家族・財産、一切は道具です。家族が道具、と言われるとちょっと嫌な気分になるかもしれません。そう思いたくないでしょうが、事実は道具です。子供が生まれると親が嬉しくてたまらないのです。その喜びがあるから、たいへんな子育ても何のことなくやってしまうんです。
 
 でも、道具は幸せじゃないんです。道具が役に立ったらその時、幸福を感じるのです。そこが重要です。金がたくさんあっても怖いだけ。いつ奪われるかと怯えていないといけないのです。でも、その金を使わなくちゃいけなくなった時、その瞬間に幸せを感じるんです。例えば、子供が受験に成功して、貯金のなかからその学費を払ってあげられた瞬間、幸福を感じる。親は子供から、「お母さんありがとう、頑張って育ててくれた恩は一生忘ません」と言われた瞬間に幸福を感じるのです。でも、誰もそう言わないでしょう? 親は子供から感謝された瞬間に心で幸福感をかんじる。それで子育ての苦労はすべて消えてしまうのです。ですから、子供は親にいつでも感謝したほうがいいですよ。そうすれば、親はどんな苦労をしてでも、子供を大切に育ててくれますから。
 
 使わない道具、使えない道具というのは迷惑なんです。世間では道具を集めるだけ集めて、使い方が分からないままで途方にくれているんですね。そこで仏教では、世間一般的に言う財産・権力・名誉などは、幸福のための道具に過ぎない、と教えて世間のアベコベを正しているのです。
 
 それだけではありません。幸福は心の事だから、道具が無くても得られるのです。道具によって得られる幸福は有限です。また、すぐ忘れてしまいます。忘れないとまた困るのです。子供が小さな時に親が得た幸福はすぐ消えます。消えないでその喜びがいつまでも残ったら、子供が成長することを喜べなくなってしまいます。子育ての次のステップに進めないから困るのです。
 
 しかし、心を訓練するならばいつでも幸福を感じていられます。この幸福感の秘訣は、物・道具に依存しないことです。仏教は世間の幸福を認めつつ、道具に依存しないアドバンス(上位)の幸福がありますよ、と教えるのです。それを達成したら、さらに上がありますよ、という具合にどんどんレベルの高い幸福を体験させます。ですから、仏教は幸福を語る教えなのです。
 
 子供がいてもいなくても、金があっても無くても、幸福になれます。幸福は心の問題です。心でいかに幸福を感じるのかということを勉強して下さい。