あなたとの対話(Q&A)

職場での上司とのトラブル、仏教とポジティブシンキング・他

パティパダー2011年2月号(162)

聞いたことを一度で覚えて理解するためにはどうすればいいでしょうか?

人の話を聴く場合には、「聴き方」があるのです。これは子供の頃に訓練した方がいいと思います。子供の頃、世界は巨大で恐ろしいものに見えています。それで怖がってしまうとよくないのです。その代わりに、これは何だろう?と面白がって見てみるのです。人の話も面白がってジーッと聞いてみる。自分の先入観なく一方的にデータを受け取ってみるのです。子供の頃から訓練するのがベストですが、大人になっても心がけることができるポイントです。
 
「自分がどう思うか」ではなくて、「この人はどのように考えているのか?」と、相手の立場になって話を受け止めるのです。もう少し成長すると相手の心に飛び込んで、相手の思考に成り代わって理解することができます。外から入った異物としてではなく、心を開放してデータを受け取ってみる。もっと分かりやすく言うと、相手の立場になって聞くことです。
 
 例えば政治の話でも、自分の支持しない政党の人の話を聞くと、批判するポイントだけ覚えて、他のポイントは落ちてしまうのです。そうではなく、自分が応援していてもいなくても、その人々はどんな立場で、どんな理由で、どんな目的に達するためにこの話をしているのか、というふうに話を聞けば、相手の言いたいことがよくわかるのです。
 
 自分の例を出すと、私が学生時代に龍樹(ナーガールジュナ)の哲学を学んだ時も、彼の挑戦的な論理にびっくりしたものですが、自分が龍樹になりきって学んでみたら、みるみる理解できたのです。その上で、龍樹の思想を批判するかどうかは、また別の話です。キリスト教の聖書を勉強した時も、「神が絶対に存在する、イエスは神の子である」というキリスト教の立場をいったん受け入れた上で読みました。そうするとサーっと読めるのです。聖書というのは、仏教の立場で読むと一行も読めないくらい非論理的でおかしなテキストです。しかし、最初から批判的に読むと内容が頭に入らないのです。学べないのです。ですから、最初は自分の立場を措いて、自分を捨てて読まないといけない。
 
 これは、相手の話を鵜呑みにする事ではありません。ただ相手がなぜどんな思考で、どんな目的を目指して語っているのかと、その場その場で理解するのです。話が終わってから、後から分析するのではなく、一発でその場で理解して終わりにすることが大事です。そうすれば、中身が頭に残ります。どんな人のしゃべることにも、その人なりのある一貫性があるのです。人の話を理解するためには、その一貫しているものは何かとつかむことです。それができない人には物を覚えられないし、理解するのも難しくなります。自分の頭でゴチャゴチャ考えると、ダメなのです。
 
 それから、自分に自信がない場合も記憶できません。理解してやるぞ、知ってやるぞという意欲が大事です。もちろん、自分の管轄外の専門知識は覚えられないですが、それは問題ないのです。でもたとえ科学者の話でも、科学者が一般人向けに話すことなら分かるはずです。そうやって自信を持って聞くことも大切ですね。
 

アメリカ的なポジティブシンキング、願望実現の哲学などについて、仏教ではどう考えるのでしょうか?

仏教では……何とも思っていないのです。ポジティブシンキングを盛んに吹聴するのは西洋の人々ですが、西洋文化では、ポジティブな生き方は成り立たないと思います。キリスト教文化はひどく暗い文化なのです。人間は、怒り嫉妬憎しみで狂ったヤクザ(神)の子分になっていて、何でも「神の恩寵だ」と思い込まされていました。つねに宗派間で殺し合いや弾圧を繰り返していて、異端を攻撃する側も攻撃される側も惨めな精神状態にいたのです。「原罪」という暗い観念に支配されているから、無理にポジティブシンキングと言わざるを得なかったのでしょう。
 
 仏教はことさらにポジティブシンキング云々と言いません。仏教は最初から「苦しみをなくしましょう、自由になりましょう」という明るい前向きな教えなのです。
 
 ダンマパダの一偈、二偈に「汚れた心で行為すれば悪い結果になる。清らかな心で行為すればよい結果になる」とあります。
 
 ポジティブシンキングなどと無理なことをしなくても、生老病死はいつでもあることだから、それにいちいち挫けないだけで充分です。「無常ですから、何とかすれば何とかなります」という風にいつも明るく笑っていることです。仏教の世界では、誰も現実に負けて泣くことはありません。心から太陽が沈まないのです。
 
 起こることはどうしても起こります。問題は、それからどうするのか? ということです。幸福も不幸もすべて自分が作るものである、と知ったところで、どうすればいいのか? 清らかな気持ちで明るく生きるしかないのです。

私は常日頃からサティを入れて生きるように心がけています。ところが先日、仕事中にサティを入れて実況中継をしていたら、外回りの際に必要な荷物を揃えるのを忘れて、上司に怒られてしまいました。瞬間瞬間に気づくことに専念して、仕事の段取りを忘れてしまったのです。これはどう考えればいいでしょうか?

それは、サティの入れ方がそうとうおかしいと思います。正しく実践していないのです。瞑想する時は見事に実況中継でやってください。仕事する時は、しっかり仕事に集中してください。仕事をしていても、雑念が割り込むとうまくいかないのです。ですから、仕事中はとにかく雑念が割り込まないように注意すること。客観的に状況を把握して、自分のするべき仕事をすること。
 
 無駄なことを考えないで、雑念が入らないように仕事すれば、しっかりと早く仕事ができます。実況中継するのだ、とカッコ付けて、宗教みたいなノリでやろうとするから、うまくいかないのです。「サティを入れて忘れ物をした」というのは、大間違いで、それは「サティがなかった」ということの証拠です。客観的に状況を把握していなかった、自分の仕事を誤魔化していた、ということに過ぎません
 
 デスクワークをしているときは、「仕事中」と意識すればいいのです。俗世間の仕事はユニットになっているものです。一つ一つのユニックをしっかり終了させることが肝心です。その仕事の中に入って、きっちり仕事を終了する。それから次の仕事にかからないといけない。
 
 一つ一つを終了させると、そこで喜びが生まれるのです。その喜びがあれば、次の仕事もできるのです。なかなか集中力が出てこないときは、集中力を作るにはどうすればいいかと調べること。有効に集中する方法がないかと、自分の周りを調べてください。もしかしたらお茶を一杯飲んだほうがいいかもしれないし、背筋を伸ばしたほうがいいかもしれない。そうやって工夫することで、喜びと集中力を切らさないようにして、仕事をすれば、失敗しないはずです。

上司とぶつかって、職場から解雇されそうになっています。上司の態度は理不尽だと思うのですが、そこで徹底して戦うべきか、「負けて勝つ」というか、争いからさっぱり離れるべきか。家族もいるので葛藤しているところです。

個別のケースによるので一般論では答えにくいのですが、職場の関係で、一方的に相手が悪い、と決め付けることはできないのです。ですから、上司がどんなにヒドイか、ということとは別に、自分にはどんな原因があるのかと調べる必要もあります。この社会では、不正なやり方に反対する人、真面目で正直な人を嫌う、ということもあるのです。ですから、いくら自分が正しいと思っても、社会はそんなにあてになりません。自分の身の安全は一人一人で守らなければいけないのです。
 
 他人をどうにかしようとするよりも、自分を直すほうが確実です。他人を直すのは不可能に近い。自分を直すのも難しいのだから、他人を制御することなど、まず成り立たないことです。
 
 たとえば、自分が「正直に仕事すること」が上司に嫌がられている可能性だってあります。そこは相手から見えないように工夫して直すしかない。世界はいつも見た目で判断するのです。見た目で判断する世界を変えることも不可能です。ですから、自分が変わることで自分の身を守るのです。
 
 法的に争うのだと裁判を起こしたからと言って、正しい人が勝つわけではない。やっぱりズルい人が勝つのです。裁判を起こして、いい弁護士をやとって自分が勝てるように証拠固めをして有利にことを進めるカラクリができるのか、その能力が自分にはあるか、ということも考えないといけない。その判断のためにも、相手を悪いと決めつけないことです。客観的に状況を判断して、将棋をするように駒を組み合わせて、自分が勝てるように持っていかないといけない。戦うのは、家族を守るためなのだったら、なおさらです。

 しかし一般的に見ると、日本人は「戦い方」をほとんど知らないのですね。凶暴になって騒ぐことは知っていますが、しっかり戦って、最終的にみな幸せになる方法というのはまったく知らないようです。ただ凶暴になって騒いでも、結局は冷静な敵に負けますからね。
 
 問題に直面したときにも、「他者を攻撃しないで、ぶつかることもしないで、いい結果だけもたらそう」というのが、仏教の戦い方なのです。もちろん、いつでも上手くいくわけではありませんが。
 
 上司との付き合い方について、ひとつアドバイスします。人に雇われて働く場合、従業員の側が、微妙に雇用主の立場を守ってあげないと上手くいかないのです。能力のない人が上にたつと、自信がないからよけいに高圧的になります。反対に、能力のある人が上に立つと、すごく組織が滑らかになる。しかしサッカー・チームと違って、社会では能力ある人が上に立つとは限らないのです。
 
 能力のある人は、正しい答えを知っていても皆の意見を聞いて、それを取りまとめる形にしてことを進めます。でも本当はそのリーダーの方針通りに進んでいるのです。しかし世の中はそうなっていないのですから、たいへんです。能力のない上司たちが、いっぱいいるのです。

 彼らは部下を抑えて自分の意見を強引に通そうとするのです。そのやり方がまずいと、部下がわかっても、上司は聞く耳を持たないのです。部下の話を聞くと、自分の立場が無くなると思っているのです。それから、上司に言われるとおりにことを運んで、悪い結果になったところで、その上司は責任を取らないのです。部下のせいにしようとするのです。能力のない上司につくことは、部下にとっては不幸なことです。しかし、上司を降格させることは部下にはできないでしょう。

 残っている手段は、何とかして自分の身を守ることです。それでも上司に何か言わなければいけない場合も出てきます。その時は、上司の意見が間違っている、という気持ちにさせてはいけないのです。自分が上司だから、自分の意見を仰いでいるのだ、という錯覚が上司の心に起こるようにして喋ったほうが身のためです。そうすることで、自信のない上司であっても、仕事は滞りなくはかどるようになるのです。