あなたとの対話(Q&A)

智慧はどこから来るのか?/働く気のない息子につける薬・他

パティパダー2011年4月号(164)

智慧はどこから来るのですか? 心の中から来るのであれば、「我々は本来、仏である」とか「神の子である」とか表現してもよいと思うのですが。

智慧というのはどこかから来るものではないのです。こころから、無知という覆いを無くした状態が智慧なのです。きれい、という単語はどこから出てくるのか? 汚れを無くすだけでしょう? 汚れと比較して、きれいという言葉を使うのです。それ以外に智慧という言葉の意味はないのです。しかし、「こころの本来の状態」などというと、「本覚」とか「神の子」とか、形而上学的な妄想にはまり込んでしまいます。

 質問にあったように、「我々は本来、仏ではないか」とか「神の子ではないか」とか妄想して、ブッダが否定された実体論にはまり込んで、こころが一歩も成長できなくなるのです。単純に「智慧とはこころの汚れがない状態」と理解してください。思考が汚れなのです。「汚れがない、貪瞋痴がない、貪瞋痴が残りなく、また二度と生まれることなく、こころから消えた状態」が智慧なのです。その他に言葉は成り立たないのです。

テーラワーダ仏教徒になるにはどうすればいいんでしょうか?

やることは何もないんです。「文化的に」テーラワーダ仏教徒になりたければ、その伝統を真似するしかないのです。タイやスリランカやミャンマーの人たち向けに法事をやっているお寺に行って学んでもらうしかない。しかしブッダの教えはそういう民族文化と関係ありません。ブッダは、客観的で科学的で、理性のある人なら当たり前に納得できる話をしているのです。その教えを実践すればいい。それだけの話しです。ブッダが説かれたように人生を生きてみようとするならば、もうブッダに帰依しています。形式は何もないのです。

「あなたは、誰の教えをサンプルにして生きているのか?」ということです。仏教は自由な世界です。宗教じみた入信式はないのです。日本でも「イニシエーション」という言葉が流行った時期がありますが、あれは邪教の世界です。儀式など何もなくとも、ただ五戒を守って、殺生しなければ、盗まなければ、嘘をつかなければ、それで充分です。人生で何か迷ったことがあれば、お釈迦さまのアドバイスに従って生きる。それだけのことです。

人は良いのですが、働く気のない息子になんと言って指導すればいいのでしょうか?

働かざるもの食うべからず、という諺がありますからね。禅の言葉にも「一日不作一日不食」とありますが、それはそのとおりなんです。それが分かっていないならば、完全なる愚か者か、精神的な病気か、どちらかです。何も分からない子供には親が食べさせないといけません。しかし一人ひとりの人間が何かの仕事をしないといけない。それは欠かせないのです。ですから息子さんにも、「『一日不作一日不食』という仏教の格言があります。働かないあなたは、生きる権利を放棄していることになるのです。」と教えた方がいいでしょう。「私は息子のあなたに死んでほしくない。幸福に生きて欲しい。だから何でもいいから仕事をしなさい」と言うべきです。

 これは親の育て方が悪いのですね。人生はとんでもなく厳しい、ということを教えていないのです。人間というのは、仕事しないといけないのです。子供の時は子供の仕事、おじいちゃん、おばあちゃんになっても、その年齢に相応しい仕事があります。果たすべき義務を果たす、それが仕事です。独立すべき時は独立する。結婚するべき時は結婚する。それが人生ということです。ですから、人生というのは苦しいんだ、たいへんですよということをしっかり子供に教えてください。人生は苦しいものです。いまも、これまでも、これからも。安定した仕事、なんていうものは成り立ちません。いつ首が飛ぶかわからないのです。

 ということで、厳しいことに立ち向かって成長することを学ばないといけない。病気でもないのに、仕事すべき歳で仕事をしないでいるならば、それは一食たべるごとに、その一食分が罪になります。そうやって借りて食べる人々は、自分の国の言葉では、「牛や馬に生まれ変わって人々の奴隷のように扱われる」というのです。ただで食っているのだから、それで借りを返しているのですね。それは戒めのためのストーリーかも知れませんが、タダ飯食らいは借りなのです。借りはいけません。仏教では、借金はだめなのです。食べる場合は、それが「借り」にならないように気をつけてください。

仕事にやりがいを求めて悩んでしまうのは妄想でしょうか?

私たちが抱く「やりがい」は長持ちしないものです。はじめは仕事に「やりがい」を感じて頑張っていても、時間が経つと「私はなんでこんなことをやっているのか。全然面白くない」と投げ出したくなるのです。それが普通の人間心理なのです。
 
 一言でいえば、こころは怠け者なのです。やるぞ、がんばるぞ、と思っても、すぐ嫌になってしまうものなのです。そして、この怠けによって人が不幸になってしまう。ですから私たちは、こころの本質たる「怠け」に戻ってはいけないのです。
 
 怠けないためには、自分に言い聞かせ続けないといけない。「こんなことで怠けてはいけないのだ」と。どんな言葉でもいいけれど、適宜にこころに言葉をかけて奮い立たせることを続けないといけないのです。これは、こころの本質に関わる問題です。ご飯を炊くためにお米を研いでいる時でさえも、途中で止めたくなるのです。しかし、途中で止めたらご飯を食べられなくなります。ですから、自分を奮い立たせて、やり遂げないといけないのです。

私は生来怠け者なのですが、敵を設定するとものすごく頑張れるのです。それってダメなのでしょうか?

それはダメですね。怠けるというのは、こころの本質ですから、自分だけ特別怠けているということはあり得ないのです。他人に比較して頑張るということでは、自分の依存症が治らないのです。敵を作って生きることは不幸です。

 そうではなく、自分を叱ったほうがいいのです。怠けないぞと、自分で自分のこころに言いきかせてください。他人は関係ないのです。生命は本来、怠け者なのだと理解すると、「怠ける性格」も嫌なことではなく、ごく普通のこととして、適切な対策ができます。恥ずかしくなることも、敵を作って踏ん張ることもないのです。
 
 必要なのは、つねに自分で自分を奮い立たせることです。そのために、他人を「敵・ライバル」として使ってはいけません。自分が成長するために他人と比較する、という場合は、尊敬できる目上の人、自分を助けてくれる人格者のことを考えてください。そういう人を自分の模範として立てるのはいいことです。ライバルを立てると、ライバルに依存することになります。それだけで人生が不幸になるのです。