あなたとの対話(Q&A)

「嘘をつかない」のは難しい/知識と理性と智慧の関係・他

パティパダー2011年6月号(166)

仏教を学んで五戒を守って生きようと努力しているのですが、ひとつ、「嘘をつかない」ということが難しいです。これまで嘘をつきまくっていた報いですが、会話の中で自然に嘘が出てしまうのです。嘘をついてしまったことに、終わってから気づく、迷惑をかけてから気づく、ということもあります。

うーん、それは頑張るしかありませんね。嘘は罪の中でもっとも罪が重いんです。殺生よりも、嘘をつくことの方が罪が重いんです。ですから、頑張るしかないんです。日々、嘘をつく癖がつくと、とっさに嘘をついてしまうようになります。それはとても危険なことです。
 
 人を騙すつもりではなくて、冗談で、喜ばせようと、相手も嘘と分かっているなら、「罪」にはなりません。それはそれで無駄話という罪にはなりますけど(笑)。しかし、嘘という罪は危険なんです。
 
 子供と遊ぶ時、私も「オバケが来るぞー」とか言いますよ。それは嘘だと思いません。言葉をたくみに使うことはいいけれど、事実でないことを言いふらして人に迷惑をかけたりするのは危険です。嘘が癖になっている人は、「嘘は五戒の中では一番重い罪である」としっかり憶えておけば、どんどん性格が治っていくと思います。

罪になる嘘とそうでない嘘、という話がありましたが、それは「自分の利益のために事実と違うことを言うのがいけない」ということになりますか? 

それはポイントがズレています。他人の利益のために嘘を言って、その他の人が被害をうけることもあります。また、他人の命に関わるときは、嘘を言ってでも助けてあげなければいけない場合もあるかもしれません。
 
 罪にならない嘘はありませんが、嘘の罪にも重さと軽さがあるのです。智慧ある人は、「嘘をつけば人を助けられる」という場合も嘘をつかないようにします。智慧を使って切り抜けるのです。仏教で定義しているもっとも重い罪の嘘とは、「自分の能力について嘘を付くこと」です。これは宗教家にありがちなことです。宗教家が自分の能力について語るときは、超能力があるとか高い禅定に達しているとか、自分の能力については、ふくらませて語ってしまうものなのです。そういった宗教的な世界の嘘は、嘘のなかでももっとも恐ろしいのです。その嘘によって、多くの人間の人生がまるごとダメにされてしまいますから。宗教家の嘘は、人を正しい生き方から脱線させるのです。その危険なウソが代々、ありがたく伝わっていくのです。宗教の世界は、平気で嘘をつく世界だと憶えておいてください。
 分からないことは、よく分からないと言ったほうがいいのです。般若心経を唱えたらご利益がありますよ、と断言するよりは、「そういうふうに言われていますけど、実際はよくわかりません」と言ったほうが安全です。
 
 インドのバラモン教には生け贄の儀式がありました。生贄を正当化するためにもっともらしい御託を並べても、結局のところ、動物を殺して食いたいだけのことなんです。それをごまかして、神のために最も上等な動物を捧げますよ、と言って殺生を正当化する。生贄のための殺生は悪くないと言い張るのです。善は善であって、悪は悪であって、これは宗教哲学によって変わるものではないのです。
 
 宗教によって悪行為のリストが変わるなら、それは普遍的な悪行為のリストにはなりません。青酸カリは誰にとっても毒でしょう。「法華経信者の皆様には青酸カリは毒にならない」というのは成り立たないことです。一週間、お題目を称えてから青酸カリを飲んだら大丈夫、ということはあり得ないのです。
 
 青酸カリは人間に猛毒、ということに宗教は関係ないのです。我々の生き方、哲学に関係なく、毒は毒なのです。善と悪も同じく、男であろうが女であろうが、何人であろうが、この行為は善、この行為は悪、とならなければいけないのです。
 
 この善悪をゴチャゴチャにすることもたいへんな罪です。知らないことは知らないと言うべきです。知ったかぶりをしてはいけない。嘘というのは幅広くて、シンプルに理解するのは難しいのです。しかし、自分が嘘をつかないと決めれば、簡単に守れます。「嘘をつかない」という道徳は、普遍的に守らないといけないのです。
 
 社会では、政治家になったら嘘をつかないといけない、というシステムになっています。それで「国民のために命をかけます!」と言いながら、実際には嘘ばかりつく。それで国の政治がうまく行っているかといえば全く、メチャクチャなのです。お釈迦様は出家に、政治の話をするなと厳命しました。「仏教は品格のある人々の、貴族の、インテリの教えです。ですから品格のない話をしてはいけない」と、あえて戒めているのです。世の中はどこでも嘘をついていますが、そのおかげで皆たいへんな苦労をしていると思います。楽して生きるために嘘をついて、結果、楽に生きたいという人生の希望そのものが潰れてしまうのです。
 
 楽に安心して生きる、ということを求めるならば、嘘をつかないことです。嘘をつかないことに慣れてくると、けっこう智慧が育っています。嘘をつかないように気をつけるだけで、かなり頭がよくなります。ですから、頑張るしかないのです。簡単な方法というのは存在しません。

無常・苦・無我の真理は、頭がよい人なら冥想しなくても理解できるのでしょうか? 

無常・苦・無我は学んで理解できます。しかし、それは知識だけです。実際の人生に適用していないならば、「無常・苦・無我」を理解して、人格が変わっていないならば、意味がないのです。
 
 無常、苦、無我を学んで、知って、それで人格が転換したならばOKです。しかし、必ずしもそうなるとは限らないのです。お坊さんにも、無常の真理を目の当たりにあるように見事に説法する人が、ちょっとしたことで混乱したり、性格が悪かったり、ということはよくあります。私はその世界にいたのですから、よく知っています。
 
 逆に、説法なんかしないで、こそこそと地味に生きているお坊さんでも、よく見ると無常、苦、無我がしっかり身についている、性格が変わっている、ということがあるのです。お釈迦様は「智慧というのは自分の人格・性格で現れるものである」と仰っています。
 
 無常を理解したならば、無常という真理に基づいて、自動的に自分の性格も変わらなければいけないのです。モノが無くなって腹がたつのは、「モノがある」という前提があるからです。無常がわかっていないのです。そこであえて頑張るのは「修行」です。まったく頑張らなくても腹も立たないなら、知識で学んでもいいけれど、その知識は必ず自分の人生に適用しないといけないのです。日本語でいう、「体で学ぶ」「体得する」ということです。知識だけでは駄目、無心でそれが出来るようにならなくてはいけない、ということです。体で学んだ人は失敗しないのです。

知識と理性と智慧はどういう関係なのでしょうか? 

知識というのは、概念を詰め込むことです。脳にどの程度容量があるかによって、知識の量の差が出てきます。知識を増やしたければ、興味をもつこと、面白いと思うことです。それだけで知識が増えます。アラビア語は難しいですけど、「これは面白いぞ」と思えば出来るようになります。
 
 知識というのは面白いと思ってしまえば、どこまでも増やすことができます。知識にある問題は、それが「貪瞋痴の世界」だということです。仏教も、知識で学ぶと欲が出てきます。「私はここまで知っているんだぞ」と、性格が傲慢になるんです。自我がどんどん強くなってしまうのです。
 
 知識はいつでも一時的で、完全に正しいと言えません。その都度正しいだけのものであって、真理にはならないのです。例えば、「このお寺の建物は古いですか?」と聞かれたときに、「古い」と答えるならば、その答えには基準が必要です。京都や奈良のお寺を基準にすれば、「古い」とは言えない。でもみなさんの住んでいるマンションを基準にすれば「古い」と言えます。答えが二つ出たならば、その人の基準が見えるのです。知識世界はそんなもので、曖昧ではっきりした結論がないのです。落ち着かないのです。
 
 それから、知識は日々変わるものです。5年前の知識は、今になると古くなっています。だから仏教はあまり知識に頼らないのです。知識が増えると、自我が出てくること、貪瞋痴がどんどん強くなること、という弊害が生じるからです。かといって、知識が断言的に悪いとも言わないのです。結論は、人生に役に立つ程度で知識を使いなさい、ということです。
 
 理性というのは判断能力のことです。知識があっても、判断能力がない人がけっこういるんです。人はいつでも、好み、怒り、恐怖感、無知(chanda、dosa、bhaya、moha)という四つで判断するんです。日本の国会の質疑を見ていても、議員の皆さんは「国民の利益」ではなく、自分の利益(好み)で判断しているようです。それは例であって、みなさんも同じなんです。判断するときは、好み、怒り、恐怖感、無知で判断する。それをやめて、客観的に、生命の役に立つか否か、生命の幸福になるか否か、ということで判断することが理性なんです。それがとても大事なところです。世の中のどこを見わたしても、理性による判断というのはなかなか、見つかりっこないんですね。
 
 智慧というのは、実際に真理を発見することです。真理を発見したら、ほとんど知識というのは必要なくなります。心がすごく軽くなるのです。昔の話ですが、西洋の人々は天動説か地動説かで大騒ぎしていました。しかし、やがて真理を発見してしまったのです。断定的に、これだと言えるしっかりした答えが出たのです。それ以来、天動説と地動説をめぐる大騒ぎは消えたのです。その問題について、いま、私たちは気楽にいられます。しかし、いまも私たちは別のいろんな問題で悩んでいます。それは真理を知らないからなのです。
 
「生きるとは何か」という命についての真理を知ったならば、とことん楽になれます。心の平安、安らぎが生れます。智慧が生じることで、すべての疑がなくなります。ですから、真理を発見しましょう。真理とは何かといえば、無常ということです。すべては因縁によって生滅している現象です。一切は蜃気楼のような代物で、因縁によって現れたり消えたりするだけのことなのです。
 
 いろんな問題があっても、無常という真理を想い出せば、サッと悩みが落ちてしまいます。何が起きても、智慧に当てはめてみると、楽にいられます。そのためには冥想して真理を経験しないといけないのです。真理を発見した人、智慧に達した人には貪瞋痴がないのです。智慧はこれから修行して達するものです。
 
 知識も、理性も、努力して訓練しないと得られません。同じように、智慧も、修行して達しなくてはいけないのです。