記憶とは何か/お金を使う時に気をつけるべきこと/競争社会で心を汚さないコツ/自己愛と『慈悲の冥想』の進み方
パティパダー2011年9月号(169)
記憶とはいったい何なのか、少し教えていただきたいと思います。
記憶というのは、そんなにたいしたことでもないのです。ブッダの答えを出します。
生きる命というのは、五蘊という五つのもので構成されています。五蘊の「蘊」とは、塊という意味です。どうして塊かといいますと、五蘊、この五つの項目、一個一個が、ひとつのできあがったシステムなのです。それを五つ合わせて、自分という存在が出来上がっているのです。
五蘊の一番目は色蘊、肉体・物体のことです。二番目は受蘊。感覚・感じることを言うのです。三番目は、想蘊です。「想」というのは想うという漢字を使っていますが、分りやすく言えば「概念」です。感じた瞬間で概念が生まれるのです。それから行蘊。概念が生まれたら、じゃあ「どうすればいいか」という、「こうしましょう」という衝動(行・サンカーラ)が生まれるのですね。それから識蘊。認識するという機能です。それらを全部まとめて五蘊で、生命が成り立っているのです。
そこで、三番目の想蘊は、概念を作ることです。その中に言語も入っているのです。言語も概念です。想蘊は自分で想(概念)を作るのです。新しいいくつかの概念を合わせて、また新しい概念を作る。それを合わせてまた新しいものをつくる、という具合に、限りなく回転させるのです。記憶とは、五蘊の中の想蘊なのです。論理的に客観的に記憶をよみがえらせるならば、「あ、そのとおりだ」というだけで終わってしまいます。自分が小学校に入ったのは、何年 何月 何日 何曜日 何時かと、そのときはどんな服を着ていたか、付き添いの母親がどんな服を着ていたかと、しっかりと思い出せるはずです。だから、「あ、そのとおり」で終わりでしょう。しかし、我々の思い出す記憶というのはほとんど事実と合っていないのです。感情によって、主観の都合によって思い出すのです。例えば、怒りの人は、失敗したことだけ思い出します。逆になんでもノホホンという感じの性格の人は、ちょっと恥ずかしいことや、失敗したことを忘れて、自分の都合によっていいところだけ思い出してしまうのです。記憶というのは、そんな程度のものです。ある程度は日常生活に必要ですが、それだけです。
仏教の立場は、「思い出すならば、明確に、順番で、感情抜きにして、ありのままに思い出しなさい」というものです。冥想実践して、高いレベルに集中力をあげて、感情から解放された明るい心で、過去に起きた出来事を、順番を追って思い出してみるのです。その能力が身についたら、それは過去を観られる智慧と言うのです。修行して優れた精神状態に達していない人々が過去を強引に思い出そうとすると、感情に負けて好き勝手なことを妄想する結果になります。精神的な問題も引き起こすのです。禅定の能力がなければ、過去のことを知らないまま放っておいた方が安全だと思います。私たちは必要なことはだいたい忘れません。必要でない過去を簡単に忘れてしまいます。忘れるということは、歴史が消えるという意味ではなく、思い出せないという意味です。いらない過去のことを思い出して、余計な問題を作る必要はないのです。しかし、優れた記憶力は人間にとっては有り難い現象でもあります。
お金を使うときに気をつけたほうがいいことを教えてください。
これはいい質問です。お金を「どう使うのか」はとても大事なことです。お釈迦様は自営業の信者に対して、「収入は半分を投資に回しなさい。四分の一で生活しなさい、四分の一は貯蓄しなさい」と説かれました。
しかし、このお釈迦様の説かれた割り当てを実行するのは、現代では難しいと思います。お金は昔からあったものですが、現代は、お金という道具に社会の玉座を「簒奪」されています。その結果、お金がすべてということになって、人間がお金の奴隷のようになってしまった。現代人は一ヶ月生活するのがやっと、という給料で生きています。ですから、金を使うには、とことん気をつけないといけないのです。日本国民はすごく気をつけて節約的な生活をしていますが、皆様を管理している政府などの組織はいい加減なので、国は赤字大国です。他の国々の政府の状況も、同じです。私たちは何人であっても、いい加減で無駄遣いする人々に管理されている厳しい環境で、お金とつきあってどう生きるのかということを考えなければいけないのです。
仏教では、ケチは大反対です。しかし、節約には大賛成です。ケチとは、お金を使わなくてはいけないのに、ごまかすことです。節約とは「無駄づかいをしない」ということです。病気になったらケチは認められません。価値があるのは命であって金ではないのですから。オシャレするのは構わないが、モノも入らないブランドバッグに何十万も使うのはおかしい。そういう価値観です。そうやって、正しくお金を使うようにすれば、国民が一斉に幸福になるのです。
金は、第一に自分や家族の命を守るために使うものです。その場合は余計な欲が出て来ないのです。楽しみのためにお金を使う場合も、溺れるためではなく、その楽しみの必要性を考えて使うことです。お金を使う場合は、いつでも必要か否かという問いを入れてチェックしてみてください。それほど必要でなければ、余裕がある時だけ買う。
支払ったお金にふさわしいサービス・製品を得られるかもチェックするのです。払うお金に見合ったサービスを得られるかチェックするのも、節約思考です。
それから、できる限り、借金はしない事です。日本社会はローンの宣伝がありすぎだと思います。しかしローンで買うのはお金の正しくない使い方です。命に関わるなら仕方ないですが、それ以外ではローンは止めたほうがいいです。
お金に関しては、そうやって理性を使って正しく管理することです。
また、いつでも少し貯金しておくこと。これは欲ではなく、すべて無常だからです。明日何が起こるか分からないのです。親戚であっても頼れるとは限らないのです。ですから、いくらかは貯金することは不可欠です。
世の中では、遺産相続をめぐってさまざまなトラブルが起きています。しかし、その家に代々伝わる財産は別として、自分が築いた財産を子供に相続させる必要はないのです。自分が築いた財産は、ボランティアや社会福祉など、自分の徳を積むために使うべきです。そうすると老後も楽しくなります。困っている人々を助けて、一文無しで死ぬと気分がいい。どうせ、死んだら一文も持っていけないのだから、一文無しで死ねばいいのです。
節約というのは、苦労することではありません。節約とは、苦労していないけれど、金を余計に使っていないということです。金をかけないで、いいものを食べて楽しく暮らすことです。苦労して、納豆とご飯ばっかり食べているのはケチです。ケチは悪行為ですから不幸になるのです。
お金に執着することはよくないのです。財産は人生の期限内で正しくて心汚さず使って、人に借りを残さずに死ぬ事です。借金して借りを残すのはいけない。私たちは借金をして「実在しない将来」を貪ってはいけないのです。
私たちは激しい競争社会で生きています。商売をしたり会社で働いたりする場合も、競争を避けることは難しそうです。そんななかで、貪瞋痴で心汚さないコツのようなものはあるのでしょうか?
競争する人には勝手に競争させて、「自分の仕事は生命を助けてあげることだ」と慈しみで仕事することです。会社でなにか新製品を開発する時も、「これが人々の役に立ちますように、人々が助かりますように」という気持ちで取り組むのです。そういう気持ちで作られた製品ならば、買う人も「これを買ってよかった」と思うのです。また次も買ってくれるし、他の人にも勧めてくれるのです。
役に立つ仕事をする会社、役に立つものを作る会社ならば、決して倒産しません。たとえ一見つまらなく思える仕事であっても、「人々の役に立つために仕事をするのだ。私は、人々の役に立った代価として、自分が生きるための給料をいただいているんだ」という気持ちをもって励むことです。そういう人や会社のことは、周りの社会が生かしてくれます。
アルボムッレ・スマナサーラさんが書かれた『有意義な生き方』(サンガ)の「自己愛が平和を築く」ということの中で、理解できていない部分があります。お釈迦様は、自分が最大限に愛するのは自分自身である事を認めましょうとおっしゃっていると思います。 自分は『慈悲の冥想』をする時に、自分と生きとし生けるものを念じる時には、同じ八〇%位の気持ちが入るイメージになり、自分の親しい人達(両親)を念じる時に一〇〇%の気持ちが入るイメージになります。 そのようなイメージになるので、自分より両親の方が大事なのではないかと思ってしまい、理解できていない所があります。なので、家族愛が自己愛の次にくるということを、もう少し詳しく説明して頂けませんでしょうか?
お答えいたします。
一、無知な人はエゴイストです。自分のことしか考えない。自分の利益になるならば、他人に迷惑をかけても、一向に構わない。
二、ある程度で理性がある人は、エゴ、自我ではなく、自己愛になります。他人のことを顧みず自分の利益を考えることはしない。しかし、敢えて、他人の幸福のために、何もする必要はあるとは思わない。ここで、ブッダの慈悲の教えが入ります。
三、理性のある人は慈悲の実践と、慈悲に基づいた生き方に挑戦します。慈悲の場合は「見返りを期待しない」行為なのです。
四、自分に、又、親しい人々に慈悲を実践することで、エゴイスト的な気持ちが薄れていきます。
五、初めは、自分に一〇〇%の幸福、親しい人々に五〇%の幸福になるかも知れませんが、これが、両方にも一〇〇%の気持ちになるまでこころを育てるのです。
六、生きとし生けるものの幸福を念じる場合は、人によって、初めは一%にもならないかも知れませんが、これを上げなくてはならないのです。
七、他人に対する幸福を願う気持ちも、自分と同じく一〇〇%になるまで、実践を続けます。
八、自分、親しい人々、すべての生命という三者に対して、幸福を願う気持ちが一〇〇%になったら、慈悲の実践を完成したことになります。
九、しかし、危険があります。自己愛は自我愛に変わるおそれがあります。自我・エゴが心の中に潜んでいます。日々、慈悲の実践をします。
十、自も他もなく皆、平等であることを実感します。自我が存在しないのだと発見します。これは、慈悲の冥想のサマーディです。自我が存在しないと発見したならば、覚りの第一段階(預流果)に達したことにもなります。
要するに、自己愛を使用してこころを育てるのですが、理論的には「自分」というものは存在しないのです。ただ、「自分がいる」という一般的な実感を修行に使っているだけです。
自分を犠牲にして他人の幸福を作るという謳い文句はなりたちません。自分が苦労してでも他人を助けることをした場合は、その善行為の結果は、必ず自分に返ってくるのです。結果は他人も幸福、自分も幸福ということになります。
結論:慈悲の冥想の場合は、自分にも他人にも一〇〇%の気持ちで実践出来るようにこころを育てることです。自己愛という言葉に拘らない方がよい。自己愛は常にあることです。智慧が現れるようにして、もともと、自我というものは存在しないという真理を発見することです。ご質問は、意識して自己愛を考えなくてはという気持ちから起きたものです。意識しても、意識しなくても、自分がいるという実感が常にあるものです。慈悲の冥想で「生命は平等です」という体感に達しなくてはならないのです。理論だけでは、足りません。