人生に夢を持つべきなのか?/進路指導と道徳/理性の基づく「不安と恐怖」・他
パティパダー2011年11月号(171)
書店にあるビジネス書などを読むと、「人生に夢を持つべき」といったフレーズが踊っています。親しい人々と話をしていても、「将来の夢を大切に」などと言われることが多いです。一方でスマナサーラ長老の書かれた仏教の本を読むと「夢は持たない方がいい」という言葉が飛び込んできます。いったい、夢は持ったほうがいいのか、持たない方がいいのか、混乱しています。
世間の人々が言っていることには、しっかりした根拠があるわけではありません。とりあえず何か言っているだけです。一方、お釈迦様はしっかり真理を把握して語っているのです。では、私たちは誰の話を聞くべきか、ということです。
私たちは、「知っている人」の話を聞くべきなのです。素人判断してアドバイスしてくれる人の心配する気持ちは分かりますが、それで上手く行くのでしょうか? 親は子供のことを心配してあれこれ言いますが、その言葉は常に的確でしょうか。社会人として自分で判断しないといけないのです。
夢が大事、夢を持て、と誰もが謳っていますが、そもそも「夢」とは何でしょうか? 定義できない曖昧中途半端な言葉です。はっきり意味を知らないから、言葉の選択もおかしいのです。本当にすべきアドバイスは、「夢を持て」ではなく、「ターゲットを持ってそこに向けて頑張れ」ということなのです。夢を持てと言われても、どうすればいいか分からない。ターゲットならすべきことが分かるのです。
人間はターゲットがないと動けないものです。ですから、曖昧な夢ではなく、しっかりとターゲットを定めて、それにむけて努力すれば、成功を収められるのです。
ここまでは俗世間の話です。
仏教的にもう一歩踏み込んでアドバイスするならば、今日一日、充実感を得て生きられるように励めば、人生には何も問題は起こらないのです。夢よりもターゲットの方がましですが、もっと仏教的に言うならば、いまの瞬間・瞬間を、一分一秒を、ビシビシと生きることです。いまの瞬間、何をすべきかは明確に分かります。いまの一秒に何をすればいいのか、ということには疑問が生じる余地はないのです。ですから、瞬間・瞬間、充実感を持って生きようではないか、というのがブッダ推薦の明るい人生論なのです。
学校の教員として進路指導にも関わっています。学生に就職先を斡旋するときに、どうしてもお酒がつきものの職場を紹介することもあります。教員としては、学生にどうアドバイスすればいいものでしょうか?
論理的に考えれば、酒は人間にとってよくないものです。人に酒を勧めるような行為も、よいとは言えません。しかし、俗世間で理想的な生き方をするのは難しいことです。社会全体から言えば、五戒を守って生きようとする私たちは少数派です。社会生活はジャングルに生きていることだと考えれば、そこには毒蛇もいれば猛獣もいるのです。仏教を実践するということは、その厳しい環境のなかで、いかに道徳を犯さずに生きていくかというチャレンジなのです。
もし酒を提供する職場で働くことになったら、それが仕事なら淡々と酒を提供するしかありません。しかし、お客さんに「この酒はとてもいいですよ」とわざわざ酒を勧めたりすると、自分が罪に触れたことになります。客が赤ワインを注文したところで、店員が「この料理には○○ブランドの白ワインとブランデーがお勧めです」というのは、良くないのです。金が必要な若者が酒屋さんでバイトしたら、仕事として酒を売るしかないのです。しかし仕事が、酒を飲まない人にまで何としてでも推薦して売り上げを伸ばすことであるならば、仏教では禁止する仕事になります。この差は微妙です。客のオーダーに応じるのですが、客にアドバイスしてはいけないのです。君はどんな酒を推薦しますかと訊かれた時でも、酒の良し悪しはあくまでも個人の好みなので、自分としては何も言えませんと、うまく逃げればよいのです。それなら、罪を犯した事にならないと思います。かといって酒がいいということにはならないのです。
酒やタバコの害を情報として伝えるのは公共機関の役割です。しかし酒を飲むか飲まないかという判断は個人がするべき事です。スリランカでも、酒タバコに対しては政府もたいへん厳しい態度をとっています。若者が酒やタバコをやらないことは嬉しいですが、あまり法律で決めるのは感心しません。スリランカのお寺では、子供には小さい時から自己責任を教えます。きちんと情報を与えて、あとは自分で決めなさいというふうに自分で判断するようにしつけするのです。
先生として教え子たちに仕事を斡旋する場合は、若者に「気をつけるべきポイント」をよく教えてあげて下さい。「仕事で酒を売らざるを得ない場合も、自分から勧めてはいけない」ということも、気をつけるべき一つのポイントです。子供たちに対しては、自分で理性を働かせて、一人ひとりが罪を犯さないように気をつけるようにと、教えてあげないといけないのです。
9月号の『智慧の扉』に「感情的な恐れは無用ですが、客観的に世界を観察して感じる理性的な不安は生きるために不可欠です。理性でちゃんと情報を集めて不安になるのは良いことであり健全なのです」とありました。このことをもう少し詳しく教えて頂けませんか?
感情にはそもそも何の理由もありません。主観によって好き勝手に起こるもので、まったく当てになりません。そこに不安や恐怖感が加わると、さらにどうしようもなくなるのです。感情・煩悩から起こる不安・恐怖感は自己破壊に至るものですから、断固として捨てるべきです。
しかし、感情にとらわれずに理性をもって生きても、やはり不安が起こります。世の中を理性的に観察すると、一切は無常で変化してゆくものだと、瞬時に壊れてしまう危ういものだとわかるのです。そこで、理性にもとづいた不安・恐怖感というものが起こるのです。
この、理性に基づいた不安・恐怖感には、そのつど的確に対処して解決することができます。しかし、完全に覚った人以外、不安・恐怖感から完全に解放されるということはあり得ないのです。なぜならば、存在そのもの、この輪廻転生する世界そのものが、無常・苦であり、不安で恐ろしいものだからです。
生きている限り、不安や恐怖感を無くすことはできません。だからこそ、不安を理性で直視して「ではどうすべきか?」と判断すべきです。私たちは何に対しても「安心だ」「大丈夫だ」と調子に乗ってはいけないのです。日本の原発も、必要な不安・恐怖感を持たず「安全神話」をつくって調子に乗ったために、大惨事に陥りました。安全神話どころか、地震だらけの日本に「安全な原発」など一基もないのです。生きるためには、事実に基づいた、理性的な不安・恐怖は欠かせないのです。
私たちが仏道修行して解脱に達するためにも、不安・恐怖感が必要です。死の冥想(死随観)では「私は死を乗り越えていない」と念じます。そこから生まれる恐怖は理性による恐怖です。輪廻に対する恐怖を感じる事で、「では自分はどうすればいいのか?」と考えるので、心が解脱の方向へと傾くのです。
感情的な不安・恐怖感は断言的に猛毒ですが、理性に基づいた不安と恐怖感が、人格向上に欠かせないのです。
私は冥想していて、真剣にやれる日もあれば、どうもやる気が起こらない日もあります。そのように冥想にムラが出てしまうのは、理性的な不安・恐怖がないからでしょうか?
その通りです。人間に休んでいる暇はないのです。今日やるべきことを明日やろうとしたら、その一日分、能力が衰えています。自分を奮い立たせるしかないのです。
自分の監督は自分自身です。それは怖いことなのです。自分の主人は自分ですから、一人ぼっちです。失敗しても、誰のせいにもできないのです。これが現実です。私たちは神や幽霊にあやつられて生きているわけではありません。この事実に気づくだけでも、けっこう怖くなるのですよ。
そこで先ほど言った不安・恐怖感が起こるのです。しかしそれは理性による不安・恐怖ですから、自分を向上するために励むしかなくなるのです。「自分の主人は自分である」ということから考えると、たとえ「あいつを殺さなかったらお前を殺す」と銃を突きつけられて、脅されて殺人を犯したとしても、仏教では有罪になるのです。どんな状況でも、最終的に判断するのは自分なのです。
他人には、殺させることはできません。本人の意志が必要なのです。西洋で考えるように、人間にfree will ・自由意志があるわけではないのです。しかしwill はあります。因縁によって、自分の意志で行為する自分の主人は自分なのです。呼吸することも自分の意志(will)でやっています。しかし、好きな時に呼吸したり、忙しい時に呼吸を止めたりする自由(free)が成り立っていないのです。お腹が空いたらご飯を食べる意志(will)が起こる。ご飯にするのもラーメンにするのもピザにするのも構わないのですが、食事はユーカリの葉っぱにしましょう、ということはできません。食べ物を選ぶ自由は、いくつかの食べ物の範囲に限られているのです。条件づけられたところは、自由(free)ではないのです。
なぜfreeではないかというと、仏教ではすべてのものごとは因縁により生じて消えるのだと説くからです。ですからすべてのものごとは、原因があって、条件があって、生じるものなのです。私たちは好き勝手に思考しているように見えても、それも条件によります。自由な言論といっても、条件づけられた自分の感情を発露しているだけなのです。「独立(independent)」ということは成り立たないのです。単語はあっても、存在のありかたとしてindependentという状態は実在しないのです。
自分は自分の意志で行為しています。行為の結果はすべて自分が受けなければいけないのです。しかし自分は自由ではなく、いろいろな条件に縛られた(dependent)状態で行為しないといけないのです。それが事実です。存在とは、何の自由も成り立たない、恐ろしいものなのです。
私は以前、「冥想は楽しくやってください」と言われた記憶があります。ヤバイ、危ない、という気持ちで冥想しても、ぜんぜん楽しくないような気がするのですが、どう考えればいいのでしょうか?
冥想修行するということは、危険極まりないこの輪廻の世界を脱出するために、着々と前にすすむことです。だから楽しいでしょう? 危険を克服したのだ、やったぞ、という気持ちが充実感というものでしょう? 俗世間で言っている「楽しみ」というのは煩悩にまみれた心のうわつきに過ぎません。しかし、仏教が教える「楽」は違います。無常・苦たる、危険で何も頼りにならない輪廻の世界から、宝を取り出す有意義な仕事をする。その有意義な仕事で得られる充実感が「楽」なのです。
巨大台風の嵐のなかで人々を助けるレスキュー隊は、何が楽しいのでしょうか? 彼らは自分の命をかけて働いています。彼らが必死で働くことで、人々の命が救われるのです。だから、彼らは有意義な仕事をしているのです。お医者さんたちが夜も寝ないで急患の重症者を手術して何とか命を救ってあげようと頑張るのも同じ理由です。それが有意義な仕事だからです。人生において、「有意義な仕事」によって得られる楽しみ(充実感)以上の楽しみはないのです。
私たちも、一日30分でも冥想できれば、その時間は有意義だと言えます。その時間だけでも、危険な輪廻を離れるために、適切に対処することができたのです。輪廻を脱出するための「有意義な仕事」ができたのです。ですから、冥想するというのは、人生でそれ以上ないほど楽しいことなのです。俗世間的に楽しいと感じないと思うならば、レスキュー隊の例で理解してみてください。