【特集】ヴィパッサナー冥想とことんQ&A 自己流冥想の危険/「言われやすい」人間になること/ラベリングの言葉を省略していいのか・他
パティパダー2011年12月号(172)
西湖合宿レポート 早川瑞生
2011年 10月8日~11日にかけて、富士五湖のひとつ西湖の湖畔にある合宿用のホテルで、スマナサーラ長老指導のヴィパッサナー実践合宿が行われました。
西湖は、河口湖などに比べて観光化されておらず、とても静かで美しい湖です。合宿所は湖から歩いて二~三分のところにあります。一般ホテルなのでお寺のような荘厳な雰囲気には欠けますが、小さなホテルなので全館貸し切りにでき、廊下でもどこでも冥想できるという利点があるので、大人数(120名)での合宿には適しています。周辺は豊かな自然に囲まれ、屋外の山道や西湖湖畔で歩く冥想をしたり坐る冥想をしている方も多くおられ、皆さん熱心に修行に励まれていました。
今回、参加者の皆さんに質問を募集したところ、多くの質問が集まり、法話の時間にスマナサーラ先生に答えていただきました。先生の法話を聞くと、不思議と、皆が「まるで私に向かって言われたお話のようだった」と思ってしまうことがよくあります。実際、そういうことを言う人がとても多いのです。特に質疑応答では、先生が私たちの質問のところに降りて来てお話ししてくださるので、とても身近に仏法を聞くことができます。皆さん、いつもに増して、身を乗り出すようにして聞いておられました。中でもヴィパッサナー冥想についての質疑応答は、初心者から経験者まで、どなたにも大変役に立つ内容でしたので、ここでご紹介したいと思います。
自己流冥想の危険
「言われやすい」人間になること
ラベリングの言葉を省略していいのか
合宿中に冥想の「中断」はない
感覚をはっきり感じるために
「待ちます」の意味について
なぜ「妄想」とラベリングするのか
冥想中に身体が揺れる
人は妄想を手放したくない
自己流冥想の危険
坐る冥想の時、「膨らみ、縮み」より「坐っています、感じています」とラベリングする方が集中できます。「膨らみ、縮み」を観るのはあまりうまくいかず、眠気が出てきます。やり方がおかしいのでしょうか。
初心者指導で教えられた通りに冥想してください。「この方が気分が良いから、私はこのように実況します」と自分でプログラムを組むと、ヴィパッサナーではなくなるのです。
自分で、「膨らみ、縮み」はうまく観られないから失敗だ、と思っているようですが、どうやってそれが失敗だと判断できるんですか。正しく実況したら、次から次へと現象が出て落ち着きがなくなってどうにもならなくなることは、あり得ることなんです。気分が良くなるために冥想するわけではないのです。ヴィパッサナーは穏やかな冥想ではありません。気分が良くなるどころか、冷や汗が出ます。大変な重労働です。だから、初心者には相当やりづらいということは知っています。しかし、とにかく失敗しながらでも、教えられた通りにやって、やって、能力を上げていくしかないと思います。
「言われやすい」人間になること
立つ冥想、歩く冥想の時は、割と簡単に妄想が止まるのですが、坐る冥想の時は、どんなに実況中継をしても、妄想が止まらないことが多いです。このような場合、実況中継をし続けるのか、無理矢理に妄想を止めるのか、どちらが良いのでしょうか。
この方も、ご自分でプログラムを組んでいます。私に「AかBかどちらか選びなさい」と答えの選択肢を与えて、その試験を受けさせようとする。「AかBか」と答を知っているなら、訊く必要もないでしょう。そういう質問のし方は、間違っています。
正しく訊くなら、「冥想中どんなに実況中継しても妄想が消えないことが多いのですが、それはどういうことでしょうか」と言えばいいでしょう。あるいは、「坐る冥想で妄想が出て、「妄想、妄想」といってもなかなか妄想が消えません、大変です」と言うなら、必要に応じて何かアドバイスできます。または、反論的に、「あなたが、「妄想、妄想」とラベリングしたら妄想は消えると言ったから、言われた通りやっていますが、妄想は消えません。妄想ばっかりだ」と言うのは、かまいません。その場合、私は反論に答えないといけない。
答えを出して選ばせるということは、自我で、相手を管理しようとしているのです。仏教徒になるための大事な資格は、素直であること、柔軟であることです。冥想を教えてもらう側が、「私はすべて知っているよ」という態度では、教えられません。お釈迦さまは、「私は知らないと謙虚に言う人が賢者だよ。我こそ知っていると言ったら、愚か者で人生は終わってしまいます」とおっしゃっています。
人は、何か言われること、注意されることを嫌います。しかし、言われやすい人間になることが、仏教徒の資格の一つなんです。言われることを好きになれということではありません。好きになったらまたかえって困ります。言われるのは嫌だから、言われたことは二度とやらないことにする。しかし、言われやすい人間になる。「あの人には注意しにくいから、間違っていても言わない方がいい」となったら、その人を育てることはできません。とことん謙虚になって、何も知らないという気持ちでいれば、成長していけます。
では質問に答えますが、はじめから冥想は間違っていると思います。まず、立つ冥想、歩く冥想の時は、妄想を管理するのではありません。立つ時は立つことを実況する、歩く時は足だけ実況することをがんばる、他のデータは強引に遮断する、と教えたはずです。歩きながら「妄想、妄想」と言っても、実況中継したことにはなりません。歩く冥想が進んでいる場合は、雑念が出てくると、足が自動的に止まるんです。止まった瞬間に「妄想、妄想」と確認し、次に実況中継で足を動かす。そこまで厳密に冥想できるなら、坐る冥想でこういう状況にはならないでしょう。まだそこまで成長してないのだから、初心者が勝手に冥想のプログラムを変えてはならないのです。
坐る冥想は、とにかくこれから妄想を叩きつぶすと決めて、坐るのです。妄想を叩きつぶすことが、坐る冥想の宿題です。どんどん妄想を叩いていくと、腕が上がるのです。やり方は、妄想が出たら「妄想、妄想、妄想」とラベリングする。心の法則からいえば、「妄想、妄想」とラベリングすると、妄想は消えるはずです。それは「人の首を切断したら死にますよ」というようなものです。「私は人の首を切断したが死ななかった」といったら、どうすればいいんですか。あり得ないでしょう。妄想が消えないなら、妄想に「妄想、妄想」とラベリングしてないのです。もしかすると、首を叩いたかもしれません。力一杯叩いたかもしれませんが、刀の柄で叩いただけで、刃の方で叩いてないんです。妄想の場合も、ちゃんと当たってないと、妄想がずっと出てきます。
今の瞬間以外はすべて妄想です。とにかく「今の瞬間以外はすべて妄想」と頭にインプットしてください。一秒の百分の一でも、今より前は過去です。過去に飛ばないように訓練しないと、どうしても我々は過去を追ってしまいます。過去や将来に飛ぶ癖は、生まれてからついたという生やさしいものではなく、ものすごく長い輪廻の間でついた癖なんです。「今の瞬間のみ現実で、他は全部妄想だ」と知って、「妄想、妄想」と妄想にラベリングすれば、妄想は消えるはずです。しかし、消えてもまた出てくる。またラベリングする。そこで消えても、また出てくる…。それを繰り返すのが、坐る冥想の戦いです。智慧が現れない限り、思考・妄想は減りません。早くその段階に行きたいと思うと、将来を考えているでしょう。それも妄想です。妄想との戦いは、かなりまじめに、真剣に、実況し続けなければならない。負けず嫌いの精神で、とにかくがんばってください。
ラベリングの言葉を省略していいのか
歩く冥想の時、「右足、あげます、運びます、下ろします」を、「足、あげる、運ぶ、下ろす」と変えて言ってもいいですか。
なぜ楽をしようとするのか、わかりません。省略しない方がいいんです。穏やかな気持ちで歩いてください。省略したくなるのは、焦っているのです。焦る必要はありません。
合宿中に冥想の「中断」はない
冥想をしていて、途中で中断しなければならなくなった時、中断してまた冥想というやり方でもいいですか。
観念的な質問なので、もう少し具体的に言ってもらわないと正しく答えられませんが、家で冥想する場合は、自分でちゃんとプログラムを組んで、この時間からこの時間まで冥想すると決める。それで、ちょっと紅茶を飲みますとか、トーストを焼きます、などはだめです。プログラムがあまりにも下手です。それくらいプログラムできなかったら、冥想はできない。智慧の世界じゃないでしょう。
宿泊冥想会では、冥想の中断は認めません。坐っていることが冥想ではなくて、生きることが冥想にならないといけない。だから冥想の中断など、成り立たないんです。例えば、四〇分くらい坐ろうと坐ったところで、トイレに行きたくなったら、身体の不都合な感覚を実況して、坐る冥想を終える。坐る冥想では心のスピードを上げていますから、いきなり立ったら良くないので、「吸います、吐きます、終わります」と三回実況して坐る冥想を終えるのです。それから「立ちます」と立って、実況中継でトイレに行く。実況中継しながら戻る。すべて、焦らずに、ゆっくりと行います。
冥想には、論理的には、中断はない。中断というのは、妄想を始めたということです。実況中継をしていれば、何をしていても、冥想の中断ではありません。家でやる場合も、できるだけ中断にならないように上手にプログラムを組んで、冥想するようにしてください。
感覚をはっきり感じるために
「膨らみ、縮み」の感覚が、はっきりと感じられません。特に、「縮み」の感覚を感じるのが難しいです。
おなかの感覚を感じられないのは、姿勢が悪いのです。必ず背中をまっすぐに伸ばす。それともう一つ、胴体に力が入るとうまくいきません。私が説明した背中を伸ばす方法を、一万回でも、やって、やって、胴体に何の力も入らないように背筋を伸ばせるようになってください。そうすると、「膨らみ、縮み」はわかります。
それでも、「膨らみ、縮み」とやっていて、途中でわからなくなったら、対処のし方は二つあります。一つは、身体の他の感覚を実況する。わかる感覚は何でもいいんだから、足や、おしりや、何かを実況する。ずっと実況している間に、「膨らみ、縮み」がわかるようになってきます。
もう一つのやり方は、もう一度、三回くらい、「(息を)吸います、吐きます」としっかりと深呼吸して、「待ちます、待ちます、待ちます」と待ってみる。そうすると、また「膨らみ、縮み」を感じ出します。だいたいそういうやり方で、わかるようにすれば、よろしいです。
「待ちます」の意味について
坐る冥想の時、「待ちます、待ちます」というのは、何を待つのですか。
何かを待つのではなく、ただ待つのです。待つ時に大事なのは、「自分がいない」と想定することです。冥想が進むと、「自分はいない」という想定が事実であることを発見します。自分を観察する研究なので、仮説として、自分がいないということを想定しておくのです。それで冥想はうまくできるようになります。
「自分はいない」だけでは力が足りないので、「自分は存在すらしない」というような気持ちで冥想した方がいいのです。「私が」というものは存在すらしないんだという感じで、待ってみる。待つことで、肉体のいろんな感覚を感じてきます。それで、ここに「膨らみ」がある、ここに「縮み」がある、ここに「痛み」がある、ここに「かゆみ」があるという風に実況していくのです。
雑念・妄想が出るのは、そこに「自分」が割り込んだということです。妄想は、必ず、「私」がやっています。ですから、雑念・妄想に気づいたらすぐに、「妄想、妄想、妄想」とラベリングする。自分は存在しないが、この身体に妄想があるんだぞという気分で、「妄想、妄想」と実況します。
普通、我々は主観で生きています。主観で生きている限り、幻想の世界に、捏造の世界にいるのです。それを破って、真理の世界に入らなくちゃいけないんです。そのための準備が必要なんです。冥想指導の項目は、とてもよく考えて言っていることです。厳しく感じないように、すごく軽く言うのも狙いがあってのことで、ヴィパッサナー冥想は結構大変な仕事だから、かえって軽くふざけた感じで紹介しています。しかし、内容はすごく尊いもので、難しいものなんです。
冥想を始める前に、主観のアプローチを客観的なアプローチにすることが必要です。「自分」という気持ちを入れないようにする。「待ちます、待ちます、待ちます」というのは、その準備です。
なぜ「妄想」とラベリングするのか
妄想が出た時、「これは怒りの妄想だ」と気づいても、ただ「妄想、妄想」とラベリングするだけでいいのでしょうか。
初心者は、成長するまでは、思考・妄想に気づいたら、ただ「妄想、妄想」とラベリングしてください。まず妄想の激流が、いくらか普通の川が流れるくらいにならないといけないんです。初期段階では、妄想は激流で、巨大な滝みたいに流れるのだから、あれこれと観ている場合じゃないんです。だからまず、「妄想、妄想、妄想」とラベリングする。それで、いくらか妄想が落ち着いてきて管理できるようになったところで、無理せずに「これは怒りだ」とわかったら、「怒り」とラベリングしてもかまいません。
わからなければ、「妄想、妄想」と処理する。「怒りの妄想だ、欲の妄想だ」と気づくことは最初でもできますが、初心者が欲や怒りの妄想に気づくためには、かなり大量に妄想が溜まってからになってしまいます。これが結果的にはダメなのです。妄想は、すぐに気づいてつぶしていかないといけない。初心者が怒りに気づく頃には、妄想しはじめてから相当の時間が経っているのです。
時間というのは、時計の時間ではありません。時間とは、ものの変化なんです。皆さまが知っている一番速い変化は光だそうで、最近はニュートリノという説も出てきていますが、それよりも心の変化は速いんです。だから我々が怒りに気づくには、相当時間がかかってしまう。一秒でも、仏教から見れば、何億刹那も経っています。一般の人が怒りに気づくのに、たとえ2秒間でも、大量に妄想しているということです。だからその妄想をどうするのか。妄想するたびに、「自分がいる、自分がいる」という錯覚が続いている。客観性もなくなってしまっている。そういうことがあるので、まだ冥想に慣れてない方々は、「妄想、妄想」とラベリングします。やがて妄想をカットできるぐらい集中力が上がったら、「怒りの妄想」「欲の妄想」とラベリングしてもかまいません。本当に心の状況を観察するステップは、その先にあります。いわゆる四念処経の法の観察に突入する。それは自動的に起こるので、気にする必要はありません。
怒りと欲が発見できるようになると「無知の妄想」とは何かという疑問が出ますが、答えは簡単です。怒りの妄想と欲の妄想以外は、すべて無知の妄想です。怒りと欲は区別できます。区別できるから怒るんです。区別できるから欲張るんです。無知には、区別する能力がないんです。だから無知の妄想を発見するには、「怒りの妄想」と「欲の妄想」を実況して、その他は「無知の妄想」にすればいいのです。
冥想中に身体が揺れる
坐る冥想の時に、上半身が勝手に前後に揺れ出して、なかなか止まらない時があります。これはなぜなのでしょうか。
すべての現象には原因があります。だから説明できないわけではないのですが、ケースバイケースなので、調べないとわかりません。医者が、おなかが痛いのはなぜかと訊かれても、調べないとわからないのと同じです。
ですから今ここで、この方の身体が揺れる原因の説明はできませんが、皆さまは、冥想中に「これは何でしょうか?」と考えたらダメです。そう考えた瞬間で、「待ちます」モードが壊れて主観的なところに入り込んでいます。冥想がガタガタに崩れてしまっているのです。
冥想のパスワードがあります。「何が起きても気にせずに、放っておく」。これを覚えてください。これが、悟りまで成長するパスワードです。これがなくなると、どうにもならないのです。だから、身体が揺れようが、石になろうが、そんなことはへっちゃらに放っておく。気にしないで、「揺れている、揺れている」と実況だけする。揺れに乗ってはいけません。揺れに乗ったということは、放っておいてないんです。ただ「この肉体が揺れているんだ」と、捨てた気分で実況する。それで何とかなります。
身体が揺れるのは、たくさんの理由があるし、全部は説明できませんが、いくつか説明します。冥想の時、神経はかなり重労働をしています。そのために筋肉が揺れることがあります。ヴィパッサナー冥想は、一見つまらないほど簡単に見えますが、やってみたら、とんでもない難しい冥想で、大変です。身体が仕事をしているわ、脳が仕事をしているわ、その上、神経細胞を休ませてないわ、大変なことをやっています。神経細胞も、あまりにも仕事をさせると、揺れたりします。
あるいは、すごく冥想が成長した時の揺れもあります。かなり成長してものごとが観える場合は、物質はない。あるのは、振動なんです。仏教ではそれを、基本的な四種類の振動(地水火風)に分類しています。その四種の振動を、私たちは、物質として認識しています。幻覚をつくっているんです。例えば、我々は、「壁がある」と言うが、「壁がある」ということも、変化する光の振動です。ですから、正しく見えたなら、壁も結構変化して振動しているように見えるはずなんです。でもそうは見えませんね。すぐに脳で捏造して現象をつくってしまうからです。そういうことだから、すごく集中力が生まれて、冥想がうまくいって、客観的な観察ができたら、足やおしりは感じなくなって、元々の振動を感じる。心に捏造する暇がない時には、振動で感じることがあるということです。しかし、そこはすぐに終わって、冥想は、心の観察に進んでいくのです。
たまに、冥想のプログラムにあるような成長の変化が、皆さまに起こることがあります。それで、びっくりして興奮したり、「これは何なのか」と焦ったりしたら、すごくもったいないんです。また始めからスタートということになる可能性があります。だから、「気にしないで放っておく」という性格に、早く慣れてください。「放っておく」と言っても、何が起きているか知らないわけではありません。全部知ってはいるが、気にしないで放っておくのです。
人は妄想を手放したくない
思考を停止することが困難なのはなぜでしょうか。
それは、人が思考したいからでしょう。我々は、思考・妄想で生きているんです。思考・妄想で苦しみをごまかすんです。苦しみを紛らわすんです。紛らわさないと生きていられないくらい、生きることは苦なんです。だから「がんばったらいいことがある」とか「何とかなる」とか、いろんな期待・希望の妄想をして、そのエネルギーで生きているんです。そういうわけで、相当がんばらないと、思考は止まりません。
「思考を停止する」と言うより、「妄想を停止する」と言った方がいいのです。思考には正しい思考もあります。生きる上で具体的に必要な判断も思考です。また、仏教では、「正思惟」という正しい思考もあります。今は、妄想とは何か、思考とは何か、ごっちゃ混ぜにしたらわからないでしょう。だから、思考・妄想を全部止めるようにがんばるのです。そうすると、妄想はなくなって、お釈迦さまがおっしゃっている正思惟は残ります。
普通、私たちは、妄想で、「痛いの、痛いの、飛んでいけ」という考えで生きているんです。だから結構、でっかい夢があれば、元気でがんばって、苦労も気にせずがむしゃらにやります。生きる苦しみを隠してごまかすために、私たちが選ぶ手段は、妄想することです。そういうわけで、生きることが苦である限り、妄想をそう簡単に手放したくはないのです。
これで、西湖合宿でのヴィパッサナー冥想の質疑応答報告を終わります。冥想を実践していると、これでいいのだろうかとか、どういうことだろうとか、あれこれ疑問に思ってしまうことは、多くの方が経験しておられると思います。私も、今回の質疑応答を聞いて、なるほどなあと気づかされることばかりでした。
最終日には、「お釈迦さまは、仏教など全く知らない人が見ても「なんと穏やかで落ち着いている方か」と驚くような方で、会った人が「あなたの教えはどういう教えですか」と聞かずにはおれないような、すばらしい安らぎを感じさせる方でした。私たち一人一人が、仏教の修行を通してその安らぎを体験し、なめらかな、優しい、笑顔溢れる、ストレスで悩んでない、すごく明るい人間になって、周りに良い影響を与えることができるような人間になること。それこそが仏教徒の道であり、社会福祉です」というお話がありました。それを肝に銘じて、今後も少しでもこの道を前進していけるように励みたいと思います。スマナサーラ先生、本当にどうもありがとうございました。