あなたとの対話(Q&A)

勉強に集中できない/悪はどこから生じるのか/ストレスなしに生きたい

パティパダー2012年1月号(173)

勉強しようとしても、なかなか集中できないです。どうしたらいいですか?(子どもの質問)

本当は勉強しなきゃいけないとわかっているのです。でも遊びたい、勉強より遊びが好きなんですね、だから集中できないのです。
 
 勉強をするいい方法がありますよ。勉強というのは、本当は遊びなんです。みんなそれを忘れているのです。昔、私たちは勉強というのはチョー面白い遊びだと思っていたのです。「勉強」ではなくゲームです。算数で答えがあっていると、嬉しくなってしまうでしょう。それはゲームだからなんです。
 
 例えば、日本で九九がありますね。私たちは12×12まで暗記するのです。憶えたところでいきなり友達に「はい、7×8は」とか「はい、13×4は」、とか訊いて、間違ったら「ブッブー」、とやるのです。また、11で割るためには、なにを足せばなにを引けばいいかと、数字を見た瞬間でゲームをやるのも面白い。例えば、368。いくら足せば、いくら引けば、11 で割れますか? 5を引いて363にすれば11で割れるでしょう。こんなふうに、ただの計算では面白くないことでもゲームをやってしまえば簡単にできるでしょう。
 
 そうやって、なんでもゲームにすると、もう誰も敵わないのです。私が小さい時から学んだことを、いまだに憶えているのは、ゲームで憶えたからなのです。勉強で憶えたことをゲーム感覚でお母さんと勝負してみてください。お母さんは手強いかもしれませんが、すぐ勝てると思いますよ。
 
 生物学も面白いのです。学校でいろんな生物のことを教えられると、私達はあちらこちら藪に入って、その同じカテゴリーの植物を探すのです。例えば、豆科の植物がありますね。いろんな植物を、「あ、これは豆科。こっちは葉っぱを見ると豆科じゃなくてウリ科ですね」とか。
 
 昆虫の勉強するときは、虫を一万倍に大きくしてみてください。とんでもない化け物になるでしょう。もしカブトムシがこの部屋ぐらい大きくなったら、怖くてたまらんね。それで、各部のかたちを全部憶えてしまいます。例えば、私がゴキブリを学んでいたとしましょう。ゴキブリの足は随分気に入ったのです。なぜかというと、トゲトゲがあって、後ろにきれいに曲がっているのですね。あれがでっかくなっちゃうと、触れたらけっこう怪我するだろうと思います。(笑) 
 
 こんなふうにゲームをやれば、数学が面白い、生物学が面白い。楽しく学ぶことはできますね。勉強することは、正真正銘、本当にゲームなのです。ですから憶えておいてください。皆さまは死ぬまで勉強しなくちゃいけない。しかし、勉強するものはなんでも、むちゃくちゃ楽しくやってみることです。
 
 大人の方もこのことを真面目に理解してください。私は子供向けに冗談を言ったわけではないのです。学ぶことがゲームでなければ駄目なのです。学ぶことというのは、四苦八苦して行く地獄への道ではなく、幸福の道ですから、ディズニーランドに行くようなことなのです。グワーッと両手を拡げて、好きなところを走り回ったら、ディズニーランドはどこでも楽しいでしょう。でも同じディズニーランドでも、地図を見ながら、番号を憶えながら歩くと最悪なのです。
 
 私は普段でも頭でゲームをやるのです。新聞や雑誌にいろんなキャッチコピーがあるでしょう。たとえば「手作り料理のレストラン」とか書いてあるとしましょう。「なるほど、足作り料理もあるのかい」と聞きたくなるのですね。これはちょっとした冗談ですが、視点を変えてみると面白いことはいくらでも出てきます。
 
 語学で言うならば、ドイツ語というのは文字通りに発音するのです。ちょっとでも発音をすべったりしてはいけません。bus はドイツ語だったらブス。バスじゃないのです。その、書いている通りに発音するのです。
 
 フランス語だったら、長く書いてなにも発音しないのです。例えば、beauの発音はボ。アッシュ(H)がありますが、全然発音しないでしょう。フランス語で「8」は? ウィトゥ。スペルはHuit。なんのためにあのH書くんですかね。「発音しないんなら抜けよ」と思っちゃうと、もう憶えています。
 
 そういうふうに、なにをしても楽しいのです。人間は死ぬまで学ばなくてはいけないでしょう。勉強が苦しいものだったらどうしますか。死ぬまで苦しまなくてはいけないでしょう。逆なのです。勉強することは、本当は楽しいゲームです。

人間の心には悪が生じることがあります。悪はどこから生じるのですか。どこから来るのですか。

悪というのは、わがままから来るのですね。私たちには生まれたときから、「自分」という自覚があるのです。それが悪の根源なのです。
 
 誰にでも「自分」という実感があるでしょう。だから悪は犯せます。自分があるから「自分が偉い」ということになってしまうのですね。自分を「なんとしてでも守らなくては」ということになるのですね。だから、いつでも「相手が言ったことが気に障った」、と思ってしまう。それは「私の」気に障りました、ということです。それで「コラ、テメー」というふうに、自分が悪い言葉をしゃべるでしょう。だから、悪の根源というのは、「自分という実感」から生まれてくるのです。
 
 これを直す方法があります。「みんな同じだ。みんな平等に生きている生命だろう」と思えばいいのです。そして「厳しいことを言われたら私は傷つきます。同じように私が厳しいことを相手に言ったら、きっと相手も傷つきますよ。だから、私が相手にきつい言葉、傷つけるような悪い言葉を言わない限り、私にも悪い言葉は言われないでしょう。それで自分は守られますよ」と考えるのです。
 
 自我意識は、覚らない限りは消えません。ですから、覚るまで待っていたら、大変なことになります。一刻もはやく自分を守るのです。自分を守る方法は悪を犯さないこと。悪を犯してしまうと自分が壊れます。人を殺すと、その時点で自分の生きる権利も消えているでしょう。人間としての権利が消えているのです。番号で呼ばれます。名前で呼ばれません。もうかたちだけ人間ですが、人間扱いされません。
 
 ですから、「自我」「自我意識」「自分がいるという実感」が悪の根源です。自我意識があるから、我々は自我を守ろうと思って、悪を犯すのです。それによって不幸に陥ります。自分を壊さないように、自分を守ることは、他の生命を慈しむことです。私が相手に「元気でね」と言ったら、相手も私に、「じゃあ、あんたも元気で」と返してくれます。それで、もう守られますね。そのようにして、悪と善が成り立つのです。

仕事がきつくて、どうしてもストレスが溜まってしまいます。ストレスなしに生きることは可能でしょうか。

ストレスがかかることも、やっぱり「自分が、自分が」ということを、あまりにもきつく気にしているからなんです。自分を気にしすぎると、なにもできなくなってしまうんです。
 
「私がこの仕事をしなくちゃいけない。ああ、失敗したらどうしようか」、と思ったとたん、ストレスが溜まりますね。「これは相当難しいだろう」、と思うとまたストレスが溜まる。仕事は頑張っても、「上司が認めてくれるだろうか」、とストレスが溜まる。
 
 それから、嫌で仕事をするとストレスが溜まる。また欲がいっぱいあって、「あれもやりたい、これもやりたい」「金も儲けたい」「絶世の美女と結婚したい」とか、アホなことを考えれば考えるほど、ストレスは溜まります。
 
 そこでストレスなく生きる方法は、「きょう、私はなにすればいいか」、「いま、私はなにをして生きていればいいか」と考えるのです。そうすると、人生っていうのは極限にシンプルなものになるのです。
 
 夢がいくらでっかくても、いまの一分でできる仕事は決まっていますね。たとえばいま、五時十八分ですが、十八分から十九分まで、なにができますか。できることは決まっているでしょう。それをやってしまえばいいのだから、大したことはないでしょう。では、五時二十分では? やはりできる仕事は決まっているでしょう。そんなふうに人生はシンプルなのです。死ぬまでシンプルなのです。ですから、ストレスをかける必要はないのです。
 
 ストレスというのは、余計な妄想です。過去のことを考える、将来のことを考える。あるいは、あまりにも「自我」が気になる自意識過剰。「過去の後悔も将来の希望も今の悩みもどうでもいい。いまの一分でやるべき仕事をやります。いまの一分、楽しくいますよ」、と思ってしまえば、すぐストレスはなくなります。
 
 これは中部経典のなかで、「聖者たちはなぜ穏やかで明るくいるのか」という王様の質問に、お釈迦様が答えた内容なのですね。
 
 昔の聖者たちは、みんなホームレスでしたから、家はなかったのです。もともとすごい大金持ちでも、全てを捨てて出家したのです。だからはだしで歩く。木の下で寝る。当然、食べるものはなし。聖者たちは、朝起きたら、ちょこちょこっと何軒か托鉢して歩く。家の人々は、夜の残飯とか朝の食事を取って、ちょっとあげる。もらったものは食べます。でももらわなくても、別にへっちゃらで気にしない。
 
 出家は何も持っていないけれど、いつも晴れ晴れと輝いている。いつだって微笑んでいる。なにも不平不満はない。「きのう、土砂降りで参りました。私はこの木の下にいたんだけど、ムチャクチャ濡れてしまった。アア困った、いやですねえ」とか、言わないんです。濡れたら濡れたで自然に居る。
 
 でもあまりにも雨が降る場合もありますね。そのときは、畑にある掘立小屋の持ち主のところに行って、「今晩こちらで泊まってもよろしいですか」と聞くのです。許可を得たら、一晩だけ、その屋根のあるところで過ごす。それだけで、朝起きたら出ていく。
 
 この出家者たちの様子を見て、王様はびっくりしたのです。

「私は靴を履いて分厚い絨毯の上を歩いているし、寝るときは毛布をかけたい放題かけて寝ている。安全のために虫も入れないくらい窓もしっかり閉めているし、二十四時間体制で、警備が私を守っている。それでも夜は眠れない。しばしば睡眠不足で悪夢をみるのだ。でも何も持たない出家者たちの穏やかなこと」と。
 
 王様がお釈迦様に、「なんであなた方は、こんなにストレスなく幸せなんですか」と聞いたら、「いまを生きているからですよ」と答えたのです。そして王様にも、「できるなら、『いまを生きる』ことをやってください」と言われたのです。ということは、ストレスなく生きるためには、この答えなのですね。
 
 皆さんも、いまの一分を生きること、やってみてください。