「身を守る」ということ/将来に備えることと、今を生きること/豊かさとは何か?
パティパダー2012年4月号(176)
■「身を守る」ということ ~五戒こそが最高のお守り~
世の中には、危険や災難が満ち溢れているように思います。危険や災難から身を守るために、セキュリティ会社から神社のお守りまで、様々なメニューが提示されています。しかし、どれも決め手に欠くように思えるのです。「私たちはどうやって身を守ればよいのか?」ということについてブッダの教えからアドバイスしていただけないでしょうか?
それでは、「身を守る」ということについてお話しします。
私たちは、いかにして身を守るべきでしょうか? 日本にはお守り文化があります。神に守ってくださいと祈る文化は世界中にありますが、沢山お守りをぶら下げる文化は日本独特のものでしょう。
お釈迦様ご自身の立場からは、そういうモノはまず認めないのです。お釈迦様は、「いろいろなモノには頼るなよ」と説かれています。そうは言っても、人は何かに頼りたいものです。お地蔵様などを立てて、どうぞお守りください、と拝むのです。人間は、何かに守って欲しいのです。お釈迦様は、「それって結局、怯えだよ」と仰いました。
私たちに「怯え」が無かったらどうなるでしょうか。すごくラクになるのです。
世界中に迷信があります。西洋人も迷信的なことを頑として信じている。私たちが怯えているのは、先が見えないからです。先は読めないし、知るのは不可能です。でも、知りたがるのです。無理なことをしようとするから、不安や怯えが生まれます。新幹線の電光掲示板を見ても、企業PRが流れて、「◯◯で明るい未来を築こう」と謳っています。まったくのウソばかり。実際は、未来ではなく、「いま」必要なものを作って、売りさばいて必死に生きているだけです。人々も、「いま」欲しいものを買っているのです。ですから、未来はいらないでしょう。いまの問題を解決すれば、それで人生は解決するのです。
「将来」という言葉はとても危険です。現実化していないことを妄想しているからです。例えば、いま十四歳の女の子が、最初に産む子が男か女かなんて知られるはずがないのです。政治家のマニフェストのように、調子に乗ってあれこれ決めて、後から撤回するのは情けないのです。将来を知ろうというのは試験問題をあらかじめ知ろうとするのと同じです。ですから、将来のことは放っておいて下さい。とても気持ちがラクになります。
「お守り」が誰かを守ってくれたという試しは、歴史上、一度たりとも無かったのです。実は、スリランカには「鉄砲に撃たれても当たらない」というお守りがあります。たいへん高価なお守りですが、自分で試してみる人はいないですね。効果ゼロなのに、信仰だけはしっかりある。人間は愚か者だから、いつでも先を読もうとするのです。そうではなく、「今日は悔しくない生き方をするぞ」「今日は悩まない生き方をするぞ」「今日は失敗しない生き方をするぞ」と決めれば、明るく活発になってビシビシ生きられます。でも、そう話しても、なかなか乗ってくれない。
お釈迦様の時代、ブッダの弟子はお守りを持ってなかった。余計なものは、何も持ってなかったのです。私も日本に来て、お数珠を貰ったことがあります。でも、ある有名なお坊さんが、「私は数珠を持っているとすごく落ち着くんです」と言ったのを聴いて、「こんなものを持つのはかっこ悪いんだ、これからは持たないぞ」と思って捨てたんです。だって、落ち着きはお数珠の問題ではなく、自分の心の問題ですから。
お守りを持たないで、ありがたいお数珠も持たないで、私たちはどうやって身を守ればいいのでしょうか? 「五戒」こそ身を守る唯一の手段です。五戒を守っていると、ぜんぜん他から攻撃を受けないのです。攻撃しようとした人が、協力してくれるはめになります。私たちがこの世界で身を守る手段は、戒律なのです。
私は「戒律」という手垢の付いた言葉を、別な単語に入れ替えたいのです。それは、「バレたらやばいことはしない」です。必ずしも五つの項目でなくても構わない。あるお坊さんが、「戒律が複雑すぎて守れません」とお釈迦様に相談されたのです。お釈迦様は、「いつでも、心が汚れないようにしてください。それだけ守ってください」と仰りました。そのお坊さんは、「釈尊が自分のために特別に教えてくれた」と喜んで実践して、二十四時間、心が汚れないようにと実践して、あっという間に覚りに達したのです。
「いつでも心が汚れないように」というお釈迦様のアドバイスは、在家には現実的に難しいと思います。商売をしたり、家族の面倒を見たりしても、心は汚れます。だから実践できるように「五戒」になっているのです。五戒の中に、「酒を飲むなかれ」という項目がなぜ入っているのでしょうか? それは心が汚れるからです。大人しく酒を飲んでいても、ジワジワと心が汚れていくのです。不飲酒戒は、破ったらいちばんヤバイ戒律です。酒を飲むと、ひとは判断力がなくなるのです。
酒は日本の文化だと言っても、仏教は文化に価値を入れないのです。文化とは、毎日変化するものです。文化のために命をかける必要はありません。文化はたいしたことない代物です。人間の便利に合わせて変えればいいだけです。日本では神様にお酒を捧げますが、相手は酔っ払っているのだから、こちらの願いなんか聞いてくれませんよ。
お釈迦様の仏教に「お守り」はないですが、私たちを守ってくれないわけではないのです。きちっと守ってくれますよ。それは証拠がいらないほど確実です。「ばれたらヤバイことはしない、今日から」と決めるだけです。それで何の問題もない。今日から決めたとしても、これまでした悪事の分でやられるんじゃないか、と不安になるかも知れません。その不安にも対策があります。それは、「過ちを素直に認めること」です。過ちを隠さないことです。それで、周りは何も攻撃できなくなるのです。いままで、自分が恥ずかしいことをした憶えがあるなら、「はいそうです、確かにそうでした」と言えば解決します。仏教に懺悔の文化があるのはそのためです。昔の事は気にしなくていいのです。過去の過ちを隠すことは、かえって罪になります。さらに、死後まで心配するなら「慈悲の冥想」をすれば、それで何の問題も無くなるのです。
■将来に備えることと、「いま」を生きること
日本に「転ばぬ先の杖」ということわざがあります。世の中では、「リスクマネジメントは欠かせない」「将来への備えを」と言われることが普通です。これに対して仏教では、「いまを生きること」「将来を心配しないということ」が強調されます。どう考えればよいのでしょうか?
確かに、現代社会には「リスクマネジメント」という単語があります。しかし、実際には誰もリスクマネジメントなどしていないのです。日本は立ち上がれないほど経済状態が悪いのに、何も気にしてないようです。格好をつけて、いまだに無駄遣いを続けています。原発は危険だということは子供でも分かるのに、「日本の原発は世界で一番安全だ、絶対に安全だ」と言っていた国が、一番酷い大事故を起こしてしまった。
大変なのは「いま」なのです。「いま」何とかしなければいけないのです。将来がどうのと妄想して、あれやこれや考えても意味がありません。飛行機のパイロットは精密にハザード訓練をしているでしょう。パイロットたちは、飛行機がちょっとしたことで墜落するのは、「いま・ここ」の現実だと知っているのです。危険が現実だと理解して対応するならば、その分は確実に安全になります。
私たちは、「将来」を妄想して偽善世界に生きることを止めるべきです。リスクマネジメントは現実であって、いまの問題なのです。いま金融市場に投資しても、ドカンと金が無くなる可能性があります。五年先ではなく、いまがどうなっているか観察すれば分かることです。金融市場は気まぐれな感情で、気分で揺れ動きます。それで、実際に仕事をしている人々が迷惑するのです。私が経営者なら、そういう世界からは離れます。誰かさんの気分で、人々の長年の努力がパーになるような経済システムはおかしいと思います。
私たちは眼の前の現実を見て、日々調整して生きていかないといけないのです。世界に冠たる日本の自動車メーカーも、販売不信の時のリスクマネジメントは無かったのです。よくよく見ると、リスクマネジメントというのは掛け声だけで、誰も実行していないのです。ウソをついて、無駄な金を使っているだけです。
人間はどうしても、見えないからこそ先を見ようとします。それでかえって、足もとが見えなくなるのです。足もとが見えなければ、当然、倒れます。いまの現実の自分をしっかり見据えることが、即ちリスクマネジメントです。ビジョンではなく、現実を見るべきです。
将来を気にしてもしょうがないのです。「老人が転ばないように杖を持って歩く」「運転する前に道路標識を理解する」これは、いまの現実への正しい対処です。しかし、将来が不安だからと言って、若者が杖を握りしめても意味がないのです。日々トラブルは起こり得るのです。常に現実を見て、その都度適切に対応するべきです。
■豊かさとは何か?
日本は戦後、ずっと物質的な豊かさを追い求めてきました。国民総生産(GNP)世界第二位の経済大国になったことを誇りに思って来ました。しかし長引く経済不況で国民は自信を無くしているようです。昨年十一月にブータン王国のジグミ・ケサル国王夫妻が来日され、その言動が日本人に強い感銘を与えました。ブータンでは国民の心理的幸福などを指標とした「国民総幸福量」(GNH)を重視した国づくりをしていると聞きます。ブータンはチベット仏教を国教とする国です。私たちは「豊かさ」についてどう考えれば良いのでしょうか?
豊かさとは心の安らぎなのです。日本は物質的にどんなに豊かでも、心の安らぎと関係なくなっているのです。ですから、仏教から見れば、日本は「豊か」とは言えないのです。
おっしゃるとおり、ブータンの人々はかっこいいです。ブータン国王も国民と分け隔てなく気さくに付き合っているのですね。それを見ると、皆「いいなぁ」と思ってしまう。ブータンと日本は物質的には比較になりませんが、日本人は誰も笑えないのです。モノに満たされていても、心配や憂鬱に押し潰されて、笑うどころではなくなっているのです。ブータンの人々は、いつでもニコッと笑えます。
また、日本ではちょっと人が集まって仲良くしようとするだけでも、段取りや準備が大変です。物質的なレベルが上がると、四人集まってパーティーするのも大変になってしまう。息苦しい社会になってしまうのです。
客観的に世界情勢をみても、これ以上、物質的な発展を望むのは無理です。アメリカは世界を破壊することでなんとかもう一度儲けようとしているようですが、皆さんにはそういう人々を応援して欲しくないのです。ですから、心の安らぎを味わって、楽しく生きてみましょう。
楽しみも幸福も、モノには無いのです。いかに楽しめるかということが決め手です。スティーブ・ジョブズさんのように、子供でも触って楽しめるようなものを開発して「ああよかった」と楽しめるならば、皆が幸せでしょう。そうやって、satisfaction 充足感を最大のポイントにすることが、次の世代を生きるためのポイントです。この世界をそのように変えるならば、次世代はどう生きるべきか、問題なくクリアに見えてくるはずです。
人々に喜びを与えるのではなく、騙してでも売ってしまおう、という世界は上手くいかないのです。大胆に時代が変わらなくてはいけない。根本的な生き方の変革が必要です。もう地球上の資源も食い荒らして、次の世代が生きていけないようになっている。これからは、人々が喜びを感じられるように、安らぎを感じられるように、充実感を得られるように、経済システムも社会制度も変えていかないといけない。ブータンは、いい例になると思います。
この世界で長く生き続ける技は、アジアにあります。そして、未来をどうすべきか、という智慧は、仏教にあります。先のことなど考えるな、という仏教に、あらゆる問題を見通した答えがあるというのも不思議でしょう?
それから、日本では「文化を守らなければ」という意識が、社会を窮屈にする足かせになっています。文化は人間の都合で変わるものです。日々、変わっていくものです。いま、日本の伝統とか文化とか言われているものも、ある時代の何かの都合によって作られた代物に過ぎないのです。それに感情でしがみついていたら、国そのものが化石になって滅びてしまいます。例えば、日本のお寺はある意味で化石になっています。お坊さんたちはとても良い人々なのに、複雑な伝統や文化・しきたりに縛られて、何もできない状況に置かれています。お寺のしきたりには何一つ、お釈迦様が決めたことは入っていないのに。「古い文化を守る」と言っても、それが化石だったら意味がないのです。社会に何もプロフィット(利益)も生み出さない化石は、博物館にだけあればいいのではないでしょうか? でないと世界じゅうが博物館になって、人類が崩壊してしまいます。いかに楽しく、ラクに生きていられるかと考えて、新しい社会を築くことです。伝統的にお盆をやるのはいいけれど、イヤイヤで続けることになっては意味がないのです。お盆のお祭りが人々に安らぎを与えるようにと、工夫しなくてはいけないのです。
本当の豊かさを追求したいと願うならば、「最高の財産は喜びを感じることです」というお釈迦様の金言を忘れないことです。