あなたとの対話(Q&A)

高慢な心への対処法/寂しい気持ちに向きあう

パティパダー2012年5月号(177)

高慢な心への対処法

日常生活や職場で、ついつい高慢な気持ちで他人に接してしまう自分に気づくことがあります。この高慢な心への対処法を教えて欲しいのです。

高慢な態度をとったりするのは、いろいろ妄想しているからでしょう。妄想することを思考することだと勘違いしているのです。正しい思考では怒りや嫉妬、高慢、人を見下す気持ちは出てこないのです。純粋な理性というのは気分がいいものです。勉強して何か分かると正しい・理性的な知識が身につくと、何かを発見すると気分がいいのです。その最初のステージで止めて欲しい。そこから自我を張って、「オレはこんなことを考えている、この連中はこんなことも考えてないのか」と調子にのると、心が汚れるのです。これは微妙なところで、中部経典の第一経(一切煩悩経)でお釈迦さまが明確に解説しているところです。新しい何かを発見して開発していくこと、それは心の楽しみ、脳の楽しみなのです。
 
 そこから自我が割り込むと、「オレはこんなことを発見したぞ。みんな認めろよ。もっと金をくれよ」という高漫が生まれるのです。それで地雷を踏んだことになります。ろくでもない人間になって、そこから一歩も成長しなくなるのです。理性も智慧も開発できなくなるのです。それで、人間として終わりです。その微妙なところで、ブレーキをかけることが、お釈迦さまの仰っている戒めです。ビシビシ仕事して、結果うまくいく。それが楽しいのです。それでブレーキをかけてストップすると、明日もあさっても、ばんばん能力があがるのです。いったん調子にのって、そこで周りを見て、軽視する気持ち、慢心が出てくる。「なんだこいつらは」と。それで高漫が出てきて、人を侮辱したり、軽視したり、見下したりする気持ちが出てくる。それで心の成長は終わりなのです。心に汚い放射性物質が入ったのだから、それから自己破壊するしかなくなる。
 
「オレが」という自我が出た時点で、地雷を踏んだことになります。地雷を踏んでいる間は大丈夫です。自我を張って、こちらが怒鳴りちらしている十分、十五分は相手も黙っています。それでリラックスした瞬間、地雷から足を離した瞬間にドカンと破裂するのです。自分の高漫のツケが、一万倍になって返ってくる。自分が破壊されてしまうのです。この危険に対して、簡単な対処方法は教えられません。仏教は科学なので、その都度、自分を観察して、自分を戒めないといけない。「こらこら、高慢が出てきたぞ、トンデモない、ヴィールス、心の放射性物質が現れたぞ」と。その瞬間で、抑えておかないといけない。皆さんも人間の成長の過程を理解してください。
 
 何でも、学ぶことは楽しいのです。花の生け方でも、お茶の入れ方、味噌汁の作り方でも、できてくるとけっこう楽しいのです。ケーキの作り方でも、現在は男性が学んでいるでしょう。それでケーキ作りができるようになると、えらく楽しいのです。でも家に帰ってから奥さんに「お前はスイーツぐらいも作れないのか」と高慢を張った時点で人生は終わりです。ただ「あなたにも美味しいケーキを食べさせてあげますよ」と、自分の能力を楽しく与えれば相手も楽しいし、自分の能力もさらに上がるのです。自分がうまく仕事していると気持ちいいはずです。なぜそこで止めないのか。このまま続ければ午後も、明日も気持ちいいのだと。そうするとストレスなく、楽しく人生が続きます。
 
 楽しく生きていると、人生のいろんな問題に耐える能力が付いてきます。高慢な人は、耐える能力がないのです。まわりのことが気になって我慢できないというのは、自分がろくでもない人間という証拠です。ちょっと能力のない人間がいたからといって、なぜそれに耐えられないのでしょうか。我々は人を非難したくなるし、叱りたくなるし、裁きたいと思っているのです。それで自分の態度は偉いと思っているが、現実は逆なのです。情けなくて、汚くて、品格ある人間として生きる資格がまったくない、ゴミなのです。だからこそ、凶暴な態度を取る。自分が弱いから、他人の弱みに耐えられないのです。だから、その汚い性格を直さないといけないのです。
 
 自分が経験を深めていって、能力が上がると楽しいのです。一単語を憶えただけでも楽しい。アラビア語の挨拶を学んだだけでも(アッラーの祝福ですから私は言いませんけど)気分がいい。我々の脳が、心が、そうできているのです。何か学べと。何か成長しなさいと。進化していない生物のような感じでいるなかれと。そうやって、何か成長しなくてはいけないのです。成長するたびに楽しいのです。頭が悪いから、勉強は大変だ、仕事は大変だ、料理は大変だと悩むのです。道を間違えていますよ。
 
 一輪のバラの花を思い出してください。バラに棘があるからと言って必ずケガをするわけではないのです。正しいバラの掴み方があるのです。棘は下向きだから、上から下に触れば問題はない。ケガをする人は、掴む方向を間違っているだけです。お釈迦さまも「ちょっと生き方の方向を変えてください」と説かれています。包丁は、刃を避けてちゃんと柄をつかめば、怪我しないで自在に使えるでしょう。それが幸せへの一歩です。いまの人間の生き方だったら、苦しみ、悩み、精神的な病気、理由なき人殺し……世界の何処でも人間の生き方はまったく間違っています。それをちょっと方向を変えるだけ、逆にするだけです。大変なことではないのです。それがホンモノの科学ということです。
 
 正しい生き方がなかったら、何を発明してもゴミにしかなりません。まず生きていることを科学的に観て、それを治して、直して、すべてはそれからでしょう。一番先にやるべきことは絶対にやらず、苦労ばかりしているのです。仏教ではそれを無知の循環、無明の循環と教えています。
 
 質問のようなちょっとしたポイントから、「いかに生きるべきか」ということが見えてくるのです。「仕事中、ちょっと高慢になってしまうんだよ。人に辛くあたってしまうんだよ」と。ちょっと気をつけろ、では済みません。そこから、普遍的な心の働きが見えてくるのです。幸福になりたいなら、その普遍的な心の働きに気づいて、生き方を変えないといけないのです。
 
 仏教はすべての人に適応するわけではないのです。人殺しをしたい、とことん苦しみたい、という人は仏教に適さないのです。宗教にすがって、「死んでから幸福になりたい」という人もサヨナラです。しかし悩み苦しみを無くしたい、幸福になりたいという人は仏教の話を聴いたほうがいいでしょう。大多数の人間は幸福に生きたいと思っています。仕事やら勉強やら成功したいと思っているのです。
 
 山を登ろうと思ったら、いくら苦しくても頂上まで登りたいでしょう? 頂上についたら、やったぞ! という気持ちが生まれるでしょう? あれが喜びなのです。下山するときもその気持ちが残るのです。脳には、喜びが必要です。脳には、やったぞ、制覇したぞ、弱みに打ち勝ったぞ、というデータが欲しいのです。それはインチキ・ごまかし・暗示ではできません。現実的な達成感を脳に・心に与えないといけないのです。
 
 そこでストップしなさい、とお釈迦さまは言っているのです。それから「オレがやったぞ。お前らは何だ」と言った時点で地雷を踏んでいます。成長はストップして、自己破壊になるのです。生きる方向性を間違えないこと。先ほどの、一輪のバラの花を掴む喩えで考えてみて下さい。「人生うまく行っているみたい」と楽しむのはいいのです。そこで自我を割り込ませないように気をつけることです。
 
 職場でも、自我が割り込むと、「この人達は真面目に仕事をしてくれないんだ」と高慢になって、同僚や部下に腹を立てることになります。でも、それでは管理職は務まりませんよ。管理職は、自我を抑えて、つねに周りをチェックしないといけない立場なのです。部下が仕事しやすいように環境を整えてあげて、常に気を配らなくてはいけない。自我を張って、人を貶してうまく行くはずがないのです。この人にはどんな能力があって、どんな環境なら仕事をできるかと考えて、それを整えてあげる。そうすると、部下も楽しく仕事をしてくれるのです。
 
 最後にポイントを繰り返します。人が何か学ぶことは楽しいのです。外国語を一単語憶えるのも楽しいのです。そこでストップして、楽しみだけを得るように気を付けて下さい。「オレ」という自我の気持ちで、自己破壊に陥ってしまうのです。


寂しい気持ちに向きあう

寂しいとか、自分が孤独だと思うことがあるのですが、寂しいという心はどういうことなのでしょうか。そういう気持ちになった時の対処法を教えて欲しいのです。

ひとが寂しいと感じることは当り前です。ひとが誰かとコミュニケーションを取って、人間関係を持って生きていきたいと、心に思う瞬間、寂しくなるのです。寂しいという気持ちが起きるたびに、自分は他の人々と関係を持ちたがっているのだと理解してください。
 
 では自分が寂しいと思って、誰かと関係を持ちたくなった瞬間に、いつでも24時間、誰かが話してくれるのでしょうか。それを望んでもいいのでしょうか。寂しくなったからといって、午前3時に電話をかけて相手にしゃべりまくる。それでいいのでしょうか? そんなことになったら、相手は人間関係で苦しんでしまうでしょう? それでは正しい「関係」は成り立たないのです。相手も、あなたからの電話を待ち構えていたならOKです。しかし、それは宝くじにあたるくらいの確率です。
 
 こういう問題は、夫婦の間でも、友達関係でも、よく起こることです。寂しいという気持ちは、誰かと関係を持ちたくなった瞬間に生まれます。他と関係を持つということは誰にも管理できない事で、うまく行く場合も行かない場合もあります。だから、できるだけ程々にすること。程度を知って人と付きあうことです。それができれば、すごくありがたいのです。それもひとつ、人間が学ぶべきことですよ。程度を守って人と付き合うことも、人間の能力なのです。それでお互い様で、すごく気分がいいのです。
 
 寂しいと思った時点で、心が何かに引っかかりたいと思う。その瞬間、心は弱いのです。一人で喜べないのです。だから誰かに関わりたいのです。関わった時点で、また心が喜びを感じます。心が自分で楽しくいる場合は、寂しいと感じない。その心の波によって、寂しく感じたり、感じなかったりするのです。
 
 この問題の解決策は、いかに心を強くするのか、ということです。いたって簡単なことです。楽しみを感じるとき、幸福を感じるとき、充実を感じるとき、やり遂げたと感じるとき、心は強いのです。いたって簡単でしょう? そういう充実感あふれる環境を自分で作っておけば。それを憶えておいて、日常生活してみればいいのです。
 
 ボランティアする宗教の人々は、「神の教えに従ってやっています」とかいい加減なことを言っていますが、本当は、人を助けると楽しいのです。充実感が生まれてくるのです。それで病みつきになるのです。それだけです。人を助けてあげて、本当に相手が助かったならば、ものすごい充実感をかんじるのです。
 
 その心には、寂しいと感じる隙がない。我々はいろんなことをやって、寂しさが生まれないようにしているのです。これは「寂しさが生まれないように」ではなく、心を強く保つために必要なのです。お釈迦さまは、心をどんどん強くして、これでもう堕落しない、というところまで持って行ってくださいと説かれました。
 
 それから、俗世間の喜びと出世間の喜び、ということについて説明したいと思います。一般人(俗世間)は「関係があること」に喜ぶのです。ダニヤ経(スッタニパータ収録)という経典に、資産家のダニヤさんとお釈迦さまの対話が載っています。ダニヤさんは牛持ち(=金持ち)で気分よく生活している。私にはたくさん牛がいて、安全に確保している。子牛も別の所に確保している。だから吾輩は安心だと。
 
 それに対してお釈迦さまは、私には何もない、だから安心だとおっしゃるのです。二人が二種類の幸福を説いています。一人は、何かに依存することで充実感をかんじる。もう一人は、何にも依存しないことで充実感をかんじる。俗世間と出世間を真っ向から合わせて教えている対話なのです。
 
 ダニヤさんは家族を養うことで安全を確保しました。お釈迦さまはだれも養わない、自分さえも養わないことで安全を確保しました。そのようにお互いにいろんな言葉を出して会話するのです。雨が降っても雷が落ちても安心だと。それで最後にほんとうにとんでもなく雨が降る。ダニヤさんはやっぱり、繋いでおいた牛のことが心配になるのです。そこで、ダニヤさんは「私の安心感は大したことはなかったのだ」と覚ります。「お釈迦さま、よく分かりました。私に真理を教えて下さい、ほんとうに心を強くする方法を」と、ダニヤさんがブッダに帰依するところで経典が終わります。教えの深さと言葉の美しさを併せたこの詩をパーリ語から他の言語にはなかなか訳せませんね。
 
 この対話を通じて、心の安全とは何かと語っています。俗世間では、友達がいることで安全を感じるのです。保険をかけることで安心を感じる。それで本当に安心・安全を確保できますかね? がんばって心をなにものにも依存しない状態に持っていかないといけないのですね。
 
 他にも方法があります。一人で無駄のない時間を過ごしているのだと思ったら、寂しさを感じないのです。一人暮らしだったら、冥想でもすればどうでしょう。冥想する時に、他人がいたら邪魔でしょう。慈悲の冥想をしたり、ヴィパッサナー冥想したりすれば、忙しくてしょうがない。そうやって常に心に充実感をかんじられる生き方をしましょう。
 
 そうやって私は充実感をもって頑張っているんだよという気分でいられるようにすること。いつでもやることがあれば寂しくないのです。だったら何でもいい、ということではなくて、心を清らかにする、智慧が現れる、人格を向上させることに頑張ってみればいかがでしょうか。いくら絵を勉強しても、死んだら全部、作品は燃やされてしまいますから。
 
 貪瞋痴が生まれないように頑張れば、ほんとに心が成長します。修行に励む人に、寂しいという気持ちは生まれないのです。余計な関係はつくらないこと。携帯のメモリがいっぱいになるほどメアドを集めたりすることはない。そういうことに必死になるのは、相当な心の病気です。
 
 友達が多ければいいというのは、俗世間の思考です。携帯のアドレス帳がいっぱいということは、その分、心が弱いということなのです。仏道(出世間道)は世間とは逆、いつでも逆なのです。「誰とも関係しない」という風に切ってしまったらどうですかと、物事から「離れる」能力を育てるのです。これをできる人は仏道を成功できます。「ソーシャルになりたい」人には仏道を理解するのは難しいと思います。一人でいる時間は、自分が冥想するべき時間だと、考えればよいのです。一人でいることは心を育てるチャンスだとポジティブに観て、頑張ることです。
 
 一人暮らしが増えているいまの社会では、孤独死などの残念な出来事も起こります。しかし、一人暮らしする人々も、自分に心を成長させる仕事があるのだと思って、冥想に励めば、幸福を感じると思います。死を恐れない人間になると思います。

関連タグ