あなたとの対話(Q&A)

渇愛と目標・意欲の関係/生命の願いごととは何か?/「心の成長」に不可欠な条件

パティパダー2012年8月号(180)

渇愛と目標・意欲の関係

渇愛はよくないと言われますが、人生の目標・意欲は必要ではないかという疑問が起こリました。渇愛と目標・意欲の関係について教えていただきたい。のです

これは大切なポイントです。生命は生存欲で生きています。「生きていきたい」と意欲が起こると、そこに恐怖感と怒りが出てきます。生命は認識対象を敵・味方で区別するのです。自分に有効だと思ったら好きになるし、害があると思ったら敵意を抱く。本当に害があるかどうかは分からないのです。敵か味方かという見方を捨てれば、蛾や虫も可愛く見えるのです。

 何が私たちを生かしているのでしょうか? 神ではありません。それは渇愛というのです。ブッダは渇愛を三種類に分けています。欲愛、有愛、非有愛です。人間には昆虫と違って、ものごとを考える能力があります。概念をつくってしまうのです。これは大したことない能力です。概念がなくても、他の生命はちゃんと判断して生きています。動物と違って、人間はもっとややこしい世界を作るのです。生存欲を肯定するために、より安心して生きるために、いかに死を避けるかということのために、ありとあらゆる工夫をするのです。薬を開発したり、家を建てたり、飛行機を作ったり。そんなシロモノは大したことないと思います。だって、津波があっても野生動物は死なないでしょう。人間が死ぬのです。人間が自分を守ろうと築いた文明は、その目的どおり役立っているのか、大いに疑問なのです。

 建物をたてること、会社をつくって経営すること、商品開発すること、勉強すること、それらの中で、ああなりたい・こうなりたいという希望・願望が人間社会に出てくるのです。その根本を探したら、何が見つかるでしょうか? 私は科学者になりたい、画家になりたい、金を儲けて家族を幸せにしたい、表面的にはぜんぜん悪くない。裏を観ると、見えるのは生存欲と恐怖感なんです。だからややこしい。勉強して、いい職について、まともな人間として生きたい、というのは悪いことではないが、生命は全て生存欲の衝動で生きているという厳然たる事実があるのです。

 我々は夢を求めて頑張ってもトラブル続きです。人間は夢がないと元気が出てこないのです。夢が叶う確率は低いのです。人間社会は競争社会です。動物と違って、お互い殺し合いして共喰いして生きています。人間同士、やるかやられるかという世界です。人間に生まれたせいなのだから、私に文句言わないでください。この競争社会で生き延びなくてはいけない。その程度で、必要な量を知って、適当な夢や目標を作っても構いません。しかし、自分が立てた夢や目標にしがみついて、「それこそが人生だ」と思わないでください。それは生命共通の生存欲から発しているのです。原発と同じです。人間社会に電気は必要ですが、こんな地震国で、わざわざ活断層を探して原発を建てるってどういうことか。結局、自分を守ろうとして、自分を破壊して殺して終わってしまうのです。それを考えたうえで、夢を持ったほうがいいのです。いつでも好き勝手な夢を描いて追いかけるのではなくて、理性をつねに働かせることです。

 まず現状認識をしっかりしましょう。皆様は自分のことしか考えてないのです。どんな夢も自分のことばかり。自分を助けてくれるから、家族のことも考える。まず自分の幸せを優先する。自分が幸せになってから、親のことも嫌々考えてみる。だから、周りはそれを壊そうとするのです。といっても、人間を恨んではいけないのです。人間社会は共喰い社会なのですから。人間の作った社会は、誰かが不幸になってそのぶん誰かが幸福になる社会。誰かが不幸にならなくてはいけない世界というのは、人間が作った世界の仕組みです。これも生存欲と恐怖感という動物的衝動でつくったもので、大したことはないのです。

 ではどうすればいいのか? 仏教の提案は、「誰かに貢献してみてはどうですか?」ということです。夢や目標を持つならば、「誰かに貢献できる人間になってみよう」と決めること。自然を守ることでもいいんです。それには誰も反対しません。足を引っ張ることもしないし、何のことなく応援してくれるのです。気持ちを貢献することにする。この人間社会で、自分が殺されてないだけでもめっけものです。殺し合い社会で、殺されてないだけで人類に感謝しないといけないんですよ。世界の核兵器の数を考えたら……。またそれを振りかざしている国々の凶暴さを考えたら(北朝鮮のことではないですよ。皆さんが拝んでいる西洋の国のことです)……。

 誰か一人でも貢献しようと思うと、その人にあまりライバルは出てこないのです。協力者は出てきます。あまり足を引っ張られないのです。夢・目標を作るなら、渇愛と違った、貢献する方向の夢を作ったほうがいいと思います。若者が音楽をつくるなら、音楽を通じて人々に安らぎをあたえましょう、元気になってもらいましょうと。そうすると人気が出ます。みんなの幸せを願うと売れます。みんな自分のことしか考えてないところで、誰かが「あなたの幸せを願います」と歌ったら、みな飛びつきますよ。そうやって、何か貢献します、という気持ちで医者を目指すならば、勉強も身につきます。勉強できるような気持ちになるのです。
 
 これは、勉強する時の秘密でもあります。勉強しながら、「これがどのように人類の役に立つのか?」という気持ちを入れておくと、内容をびしっと憶えていられます。夢と希望は渇愛です。しかし夢と希望なしに生きるのも難しいのです。夢と希望を持つとみなライバルになって、足を引っ張ろうとする。このジレンマを解決するためには、違う形の夢をつくる。それは、みなに貢献する夢をつくることなのです。


生命の願いごととは何か?

慈悲の冥想に関して、私の嫌いな人々のところでひっかかります。嫌いな人々の願い事が叶えられますように、というと悪い奴らの願い事が叶ってしまったらどうしようと、不安になるのです。

もっと冥想を続けると、生命をみる見方が変わってくると思います。そこで疑問が消えると思います。願い事が、というのはすべての生命が幸福に生きていきたいと思っている、その願いです。道を間違っているのはその生命の間違いであって、虫だろうが人間だろうが、幸せに生きていきたいと願っているのです。それが叶って欲しいのです。でないと死んでしまう。悪いことをしてしあわせになろうとしているのは勘違い。「こいつは嫌なやつだけど……」という気持ちで、「(この人の)願いごとが叶いますように」と念じるのは、この人が幸せの道を歩んでほしいということです。殺人計画をしている他人に「願い事が叶えられますように」と願うことは、「殺人が成功しますように」という意味ではない。その人は、殺人を犯すところまで苦しんでいるんです。その人が幸福の道を歩んでくれますようにと、慈悲の気持ちで観ると、嫌いな人も可愛いと思えてしまうし、心配する気持ちも生まれるのです。

 殺人をしたいひとにとっての願いごとは、他人を殺すことではないんです。生命が本来願うべきことが叶えられますように、ということです。どうしても気になるならば、「嫌いな人々も、本来願うべきことが叶えられますように」と変えてもいいでしょう。でも慈悲の冥想は完璧な冥想だから、そのままやっても何の問題も起きません。生命が本来願うべきことというのは、たとえば、お腹が空いたらご飯を期待するでしょう。人間はタダではご飯を得られません。それが得られますように、と願うのです。住む処、薬、着物など……生命が生きるために必要なものが得られますように、と願うのです。悪人はそれを得たくて、間違った道を歩んでいるのです。幼稚園の男の子が、友達にしたい女の子をいじめてしまうようなもので、正しい方法がわからないんです。人間は時々、目的に達しようとして、それと反対の行動をしてしまうのです。

 生命が生きていくためには、基本的な願いごとが叶えられなくてはいけない。お腹が空いてご飯がなかったら、たいへんなことです。病気で倒れたのに治療を受けられないのは大変なことです。どんな生命でも、その基本的なものは揃って欲しい。そうやって大きなスケールで、「生命の願いごとが叶えられますように」と念じるべきです。


「心の成長」に不可欠な条件

「穏やかな気持ちで生きたい」と思っています。なぜか周りに宗教関係の友達が多いのです。「杯にうつった月」ではなくて、「本物の月」を観たいと思いました。そこで初期仏教に出会ったのですが、本を読んでも閉じると実行できないジレンマがあります。私が心の安らぎを得るにはどうしたらいいでしょうか。出家しないといけないのでしょうか?

 お釈迦さまはどちらかというと科学者、生命の科学者なのです。完全なる科学者なのです。釈尊は生命という尺度で見ている。人間の場合は「生まれ」ではなく、行為によって決まるのだよと述べています。バラモンの家に生まれても、人のものを盗む人は盗人であって、バラモンではないのです。煩悩が無くなったら、聖者だよと。男とか女とか出家とか在家とか関係ないのです。冥想する人は、人間であればOKです。でないと仏教は科学的にならないのです。私は年寄りだから、子供だから、女だから、男だから、学歴が足りないから、ということは無いのです。これは人間に語っていることです。医者の出す薬が、日本人だけに効く、ということはあり得ないでしょう。人間なら誰にでも効くのです。ブッダの冥想も同じ。実践すれば成功するに決まっています。本人のやる気次第です。やる気はおのおのの問題です。出家とか、ある形を取ったからといって何の特権もないのです。形を誇るのは科学ではありません。ブッダは科学者がものごとも観るように、「あなたは人間だろう」という教えなのです。冥想は厳しい世界です。しかし車の運転は本で学ぶんでしょうか? 教習所で怒られながら学ぶしかない。泳ぎたければ泳ぎのプロから学ぶしかないのです。

 欲を無くそう、怒りを無くそう、渇愛を無くそう、と闇雲に頑張っても成り立たないのです。そこはプログラムがあります。思考・妄想を無くすことなのです。精密なことは、人間に理解能力がそれほどないから、教えられません。悟った人は貪瞋痴の原始脳に負けないから、頑固です。アリ一匹でも殺せないのです。だったら私を殺して下さいと。それくらい頑固で道徳的な人間になるのです。覚りとは、心の回転を転換することです。それには、ちょっと無理をしないと成り立たないのです。

 脳の構造から説明する場合でも、成長には順番があるのです。こころの成長にも順番があります。それは当然のことです。怒りだけ無くしたいとか、欲だけ置いておきたいとか、そんなわがままは成り立たないのです。順番があります。まず、「自我・私がいるんだ」という実感にヒビを入れないといけない。そこからさらに冥想して、感情・煩悩が無くなっていく。自我を破ることは、自分で踏ん張ってやらないといけないのです。自我は脳がつくる錯覚です。生存欲を維持するために必要な錯覚なのです。釈尊がおっしゃっているのは、その錯覚を破るプログラムです。智慧が現れれば、あとは自然に煩悩が消えていきます。挑戦的に、ぶつかってくる人は早いのです。

 修行できない「いいわけ」も、渇愛がつくるのです。覚れるのだ、幸福になれるのだという希望だけは捨ててはいけない。できないはずはないんだと。仏教はパンダやトキみたいな存在になってはいけないのです。保護された特殊な環境でしか実践できないということはないのです。仏教というのはそんなちっぽけ教えですかね?

 釈尊は初転法輪のあとで、比丘たちに「すべての人間の幸福のために歩きなさい」と命じられたのです。あれだからできない、これだからできない、というのはいいわけです。世の中にはそういうものもあります。アメリカに行ったほうが英語は身につきますが、科学はそうではない。生命の科学はそうではない。自分が生きているんだから、それだけで充分です。

 誰でも覚れるというのは、ブッダの教えにのっとった答えです。覚れない人は、実践しない人です。または、自分の迷信・思考にしがみついている人(邪見者)です。自分の固定観念、自分の思考は、ありのままを観察する仏教の修行には大きなハンディです。ですから、いつでも思考をペンディングにしてください。新しいデータが入ったら、自分の思考は改良しますと決めて、最終結論にだけは達しないでください。それで邪見の問題は解決です。それぞれ自分の考えがあるものです。それはペンディングにしてください。そうすることで、冥想実践は大丈夫です。冥想で、それまでの思考はひとつひとつ捨てることになります。経典で「今生で覚れない」とされているのは、今生で親を殺したひととか、ブッダを傷つけたひととか、ふつうはあり得ないようなケースだけなのです。しかし、このような悪を犯す人々はとても稀でしょう。ということは、みなに心を成長させることが可能なのです。失格のひとはいません。一人ひとりが自分の意志で挑戦すればよいのです。他人の力で覚らせることはあり得ないのです。子供に教えることはできますが、理解させることは不可能です。子供が自分で理解しなくてはいけないのです。ですから、以上説明した注意点に気をつけて挑戦してみればよいのではないでしょうか。