あなたとの対話(Q&A)

輪廻転生と業/記憶のメカニズムについて

パティパダー2012年11月号(183)

転生するとき、業はどうなりますか?

今の私が持っている業は、今生が終わって来世に転生するときには、他の生命の業と混ざったり、いくつかに別れたりすることはあるのでしょうか。生まれ変わるとしたら何匹かに別れたり、何人かぶんの業が合わさって大きな生きものになったりすることはありますか?

私たちの仏教の立場から言えば、これはまったくありません。分離はしません。チベットを舞台にした映画『リトル・ブッダ』(一九九三年)のように、生まれ変わりの過程で「魂が三つに分離する」というようなことはありません。

「私」という今の業の塊も、いろいろなものの組み立てでできています。今の身体もずっと変わって、変わっていきます。細胞にしても三ヵ月程度でほとんど新しいものに変わりますし、遺伝子のはたらきも変わって、変わっていきます。生まれたときの肉体は、とっくにありません。肉体は変わって、変わっていって、死んだら捨てます。地球からもらったものは、全部地球に戻すのです。

 しかし、感覚だけは、地球からもらったものではありません。感覚、つまり心です。心は、身体よりものすごく早く変わって、変わって、変わっていくのですが、死んでも地球には戻りません。
 
 心はものすごく早く変わって、変わっていきます。今の瞬間の「私」が次の瞬間の「私」ではないのです。ただ、流れを思い出せるので「私」という言葉を使っているだけです。流れを記憶できなければ、「私」がわからないのです。人間にも時々、記憶喪失という問題があって、かなり重度な記憶喪失におかされてしまったら名前まで忘れてしまうのです。
 
 何かの治療ミスで、脳の記録するところが壊れて2~3分のデータしか残らない日本男性のケースを、テレビの録画で見たことがあります。とにかく全部、忘れていきます。人としゃべる場合は、いつでも相手を紹介していないと誰かわからなくなってしまいます。そのドキュメンタリー番組を作るスタッフが何日間もいるのですが、朝がきたら、また最初から一人一人、紹介していきます。毎回、毎回です。自分の奥さんと二人の子供のことだけは、紹介しなくても何となくわかっている、その程度です。そして、ものすごく穏やかで、悩みが無くて、とても美しい身体でした。なにせ過去がないのですからね。
 
 奥さんは、記憶を取り戻してほしいという願いから、仕事を頼んだり買い物に行かせたり、いろいろ試みていました。しかし、買い物ひとつでも、リストを書いて、子供か誰かが一緒に行かないとできないのです。店に行ったら、「リストを見る」ことを子供が言わなくてはならないからです。それさえも忘れてしまうのです。本人は、そのときのことしか覚えていないのです。自分に過去があったか、子供の頃どうだったか、全部忘れているのです。
 
 つまり、私たちが「私」「私」というのも、ただほんのちょっとのことを覚えているだけ、ということなのです。覚えたものはいたって簡単に忘れてしまいます。もし、ものすごく記憶力が優れていたなら、過去はどこにいて、どうでしたと言えるはずなのです。
 
 我々が死んだらどこに行くのか。「これは私だ」ということなどは、よくわからないのです。とくに「私」という単語は怪しいのです。存在しないのです。そのあたりのことから、一般の方々には輪廻転生というものがすごく理解しにくいものになっています。「私が」「生まれ変わるのか」と聞くでしょう? このときに言う「私が」とは、何年何月何時何分の私ですか?と訊きたくなるのです。
 
 さらに、死ぬときには心だけでなく物質もぜんぶ変わります。その差はすごく激しいので、だいたいのことは忘れます。次の瞬間に変化してしまいます。過去を忘れるのも、生きるためのことです。私たちは生きることに執着しないと生きていられません。もし、生まれた時の苦しみを覚えてるならば、もう生きていられないのです。生まれる時はすごく苦しくなるのです。すぐそれをケロっと忘れます。我々もだいたい都合の悪いことを忘れるでしょう。都合の悪いことを覚えているともう生きていられないからなのです。
 
 私たちは自分の都合のいいところだけを憶えています。ですから、それは正しい記憶ではありません。勉強したものにしても、ほとんど一部だけが記憶に残っている状態です。残っているところは自分の都合によって必要なもので、必要なければ全部きれいに忘れてしまいます。
 
 そんな人生ですから、今の私と次の私は、結局は違います。すべて違います。この流れを輪廻というのです。私たちはこのことを、川の流れでよく説明します。「隅田川はありますか?」と聞けば、「ある」という立場から見れば、答えは「ある」となるでしょう。では実質的に「隅田川って何でしょうか?」というと、そんなものがあるわけではないのです。ただそこに水が流れているだけです。一秒ちょっと隅田川を見たら、次の瞬間はもうその川は見えません。すでに別な川です。全部変わっているのです。それでも「あ、これは隅田川で、もう300年、400年、1000年前からもありましたよ」と、へっちゃらで私たちは言いますが、これは言葉上のことであって実質的にそういうことではありません。
 
 我々の命も同様です。川のように激しく流れるものに、言葉上、「私」と言うだけなのです。ですから言葉上、「私が生まれ変わるのか」というと、「まあそうだろう」と答えるしかありません。現実的にどうなるのかというと、「変化し続けるだけですよ」と言うしかないのです。
 
 質問の答えですが、分離はしません。死ぬときは肉体から感覚が無くなります。物体になった肉体は、地球の物質に分離して戻ります。感覚・認識は、変化して別な物質に依存するでしょう。別な物質(身体)の状況にあわせて、感覚のはたらきが変わるのです。コウモリになったら聴覚の範囲がかなり広くなります。イヌになったら嗅覚の幅がすごく広くなってしまいます。物質によって心の働きが変わるということなのです。
 
 皆さまは、一般的に蚊をバカにするでしょう? 私はバカにしませんね。自分の国・スリランカは暑いので一年中、蚊がいます。そして、私の身体は蚊に対してすごく拒絶反応を起こすのです。一匹にでも刺されたらもう、猛烈に痛くなってかゆくなって大変です。朝まで寝られません。ですからなんとかして刺されないように工夫します。しかし、十人ぐらい人が居るところに蚊が一匹来たら、真っ先に蚊は私を刺すのです。
 
 あるとき、日本で、夏の暑い日に出かけて高速道路のパーキングで四人でいたのですが、「何かおかしいな」と思ってふと上を見たら、私の頭の上にでっかい蚊柱が出ていました。「他の三人には出てないじゃないか。不公平だ」と思いましたよ。おそらく蚊にすれば、私は自分たちの餌以外の何でもないでしょうね。しかし、私の身体にとっては、蚊の分泌する唾液は拒絶すべきものです。
 
 夜も私は蚊帳を張って寝ます。自分が蚊帳の中でライトを付けて本を読んでいると、蚊がいっぱい蚊帳にとまっていて愉快です。「ざまあみろ」と思います。それが、ちょっと経つと、中に蚊が居るのです。どうやって来たんだろうと思って調べてみました。すると、蚊たちは、まず床の上に停まるのです。停まって歩いて上ります。そして、ちょっとした隙間から入るのです。もうビックリです。「ここまで考えるのか。どうやってその知恵が入るのか」と。
 
 そこで、私はまた蚊帳をひっくりかえして全部蚊を外に出して、また入らないようにベッドのマットレスにものすごくきつく付けて、付けて、付けて、付けて。……様子を見ました。それでも、身体がどこかネットに触れたら、もうそこを刺しているのです。そういうことで、蚊といえどもなかなかバカにすることは出来ないなと思います。何が言いたいかというと、生命の心は、肉体によって制限されますが、必死に働いているのだということです。
 
 私はそうやって生命に対して、いろいろ実験してみたのですが、どんな小さな動物でも大事にするとすごく気分がいいのです。対等に扱うとすごく気分がいいのです。動物たちの生きる時の大変さとか悩みなどを感じて喋ると、相手はすごく態度がよくなります。あちらは喋れないけれども、いろいろな方法で自分の悩みを訴えたりします。悲しくなったりもします。
 
 まあ、しかし、寿命も短いし、蚊には生まれ変わらないでください。あんまり面白くないですしね。もっと善いことをして、できれば人間より高い次元に生まれ変わったほうがいいと思います。ま、質問の答えは「分離はしません」となります。心は一個しかないのです。心には分離することはできないのです。その生の身体によっては感覚に差は生まれます。それだけです。


記憶のメカニズムとはどのようなものでしょう?

私は前世の記憶はまったく残っていませんが、残っている人もいるのでしょうか。また、私にしても、今の人生での過去の記憶は保存されています。仏教的にいえば、「今」の私は過去の私でも次の瞬間の私でもないということになるのですが、今の私ではない過去の私が触れたものは保存されていて、その記憶(妄想)に触れることによって実際にさまざまな行為に出てしまいます。この記憶の仕組みとはどのようなものでしょうか?

記憶は二つの働きで起こるものだと思います。一つは感情です。そして一つは理論的で明確な理性です。一般の方々は、誰でも感情で記憶するのです。まず感情があって、感情が何かデータを引き起こすのです。
 
 たとえば、怒りっぽい性格の人の記憶は、ぜんぶ嫌なデータだけになります。ほとんど、自分に不親切にされたことばかりになってしまうのです。実際、不親切にされてばかりというわけではなくて、親切にされたことはすぐに忘れてしまうのです。
 
 反対に、まったく怒りっぽくなくて、いつも「ありがとう」というような感謝の気持ちで生きる人々は、そういう方向のデータをたくさん持つことになります。助けてもらったことばかりを記憶しているのです。ですから、何を記憶するのかということは、性格からもわかります。
 
 どんなふうに記憶するのかということは、感情がどのようにはたらくのか、ということなのです。いつでも混乱状態・興奮状態・緊張状態でいる場合、無智の感情がはたらきます。そういう人々はものごとをほとんど忘れます。一般的には、どちらかというと怒りや欲の感情でものごとを記憶します。ですから、どんな記憶も「たいした記憶ではない」というのが実態なのです。
 
 しかし、理性で記憶する方法もあります。一時期「脳ブーム」と言われましたし、皆さんは私よりもよく脳のことをご存じだと思いますが、脳というのは明確な論理だてがあれば忘れないのです。脳にとっては、論理性・理性というのは感情よりはるかに記憶しやすいのですね。仏教は理性を育てますから、理性が育てば、いたって簡単に好きなデータがいくらでも引き出せるようになります。嫌なデータであろうが好ましいデータであろうが、望むデータを瞬間で引き出せます。ですから、理性を育てたほうがいいのではないかなと思います。
 
 また、別の側面からいっても記憶には二つあります。一つは「自分がそうだと思うこと」。いわゆる自分の妄想です。それを思い出しても現実ではありません。正しい記憶というのは事実を思い出せること、実際に起きたことをそのまま思い出すことです。
 
 人間には、実はそんなにたいした記憶能力はないのです。ときどき、脳が特別な状態になってしまって、「一回見たら忘れない。このまま憶えてしまう」というフォトグラフ的メモリを描く人々もいますが、それは心理学的にいうと病気の一種です。脳の構造によってデータを記憶できるわけで、すべて起きた出来事を頭に記録していることが可能なのです。しかし、その場合、あとで不幸になって人生をどうすることもできなくなって大変なことになります。記憶にはいくらかの管理が必要なのです。
 
 すべてを記憶する必要はありませんね。我々は、実際、自分の命を支える程度のことしか憶えていません。なぜ、皆さんは英語を学校で習ったのに忘れているのでしょうか? 毎日の人生にぜんぜん関係ないからでしょう。しかし、英語でなければ生きていられない場合は、わけなくできるようになります。今からでも英語がなければ生きられない状況に放り込まれたら、小学生、中学校で学んだ英語などがどんどん出てきます。我々はふだん「学生時代に英語を憶えたのに忘れちゃったー」などと言っていますが、命に関わってくると思い出すのです。自分の命を何とか守る程度の記憶能力しか持っていないのです。
 
 どうして、歳を取ってくるとものごとを忘れてしまうのでしょう? いらないからです。生きていくのに、ほとんどのことは記憶する必要がないからです。ですからいくらか認知障害になっても、どうということはないのですが、どんどん進行して自分の家まで忘れたら生きることが危うい状態になりますね。ですから大問題なのです。自分の子どもの顔を忘れたり、朝ごはんを食べたのに、それを忘れたりしたら、かなり危険です。
 
 基本的には、記憶するメカニズムというのは、どの程度で自分の命と関わりがあるのか、ということで決まってきます。ものすごく人生で勉強しても、高齢になればなるほど、減ってはいきます。
 
 私は昔、いろいろな言語を学びました。フランス語には格変化があったり、ドイツ語もいろいろ難しい規則があって、最初は「無茶苦茶でとても憶えられない」と思いました。しかし、すぐ逆に考えたのです。「どうすればラクに憶えられるのか」と。若いときでしたから、みんなとふざけて楽しく生きていたい。ですから、それぞれの語学クラスの連中とその言語で楽しくふざけてしゃべることにしたのです。ドイツ語でしゃべることはけっこう楽しいな、フランス語でしゃべるとけっこう楽しいな、というふうに思える状況をつくったのです。当時、そうとうしゃべりました。すると、自動的に格変化とかナントカという複雑な規則がぜんぶ出てくるのです。楽しかったです。フランス語のクラスの友だちと話すときは、もうフランス語しか出てこない。ドイツ語のクラスの人々やらその関係の人との会話なら、すぐにスイッチオンになってドイツ語が出てくるようになりました。
 
 そうして楽しく学んでいたのですが、日本に来たら習得した言語がなんの役にも立たなくなったのです。はじめは大阪外大に入りましたから、フランス語を学ぶ学生さんもいましたし、ドイツ語を専門にやる若者たちもいました。皆、大学生たちが仲良くワイワイとキャンパスライフを楽しんでいたのですが、「大学で専攻としてドイツ語をやるなら、ドイツ語ぐらいしゃべるだろう。私も1カ月ぐらいで話せるようになりましたからね」と私が思って話しかけても、一言もわからないのです。発音は当然おかしいし、○○(ほにゃほにゃ~)と言う程度。フランス語をやってる若者たちも同じでした。
 
 たとえば、二人だけでフランス語でしゃべったりすると、周りの誰も理解できなかったりして楽しく会話できるのです。しかし、日本の大学では、そういうふうに役に立たなかったのです。ですから全部きれいさっぱり私の頭から落ちてしまいました。
 
 最近、ちょっとまた外国語を勉強し始めたらどうかなと思ったのですが、やはり自分の人生にもう関係ないことなので脳に残らないですね。
 
 そういうことで、我々の記憶能力は、命を支えるために制限されています。たとえば皆さんが死んで、次は犬になったら、2+2=4であるということなどはもう不要でしょう。それで全部きれいさっぱりその記憶を忘れてしまうのです。人間で生きて、人間で死んで、そのまま人間の世界に転生したら思い出しやすいのです。勉強は早いのです。必要なものなので、そのぶんの過去の勉強がさーっと出てくるのです。ま、記憶とはそんな程度のものです。