「全体性」とテーラワーダ/思考はなぜ現実化するのか?/「私の存在」とは何か?/固定概念を無くす方法/来世でブッダに会いたい
パティパダー2013年1月号(185)
「全体性」とテーラワーダ
スマナサーラ長老が著者ではないヴィパッサナー瞑想の本を読むと、よく全体性という言葉が出てきます。特に、ティクナットハン師から影響を受けていると思われる方の本にでてきます。ティクナットハン師は大乗仏教の思想もあると聞いていますが、全体性というのは大乗仏教の考え方なのでしょうか? ティクナットハン著 ”The heart of the Buddha’s Teaching” の中に all in the one and the one in the all という表現があります。「全体性」という教えはテーラワーダ仏教にはないのでしょうか。
私は全体性という言葉を使っていたかどうか憶えていないのです。もし、使っていたとしても、それは、形而上学的な、哲学的な意味ではなく、一般的な意味だと思います。ティクナットハン和尚は大乗仏教の大僧侶です。初期仏教の経典も参考にしていますが、大乗の教理を大事にしていらっしゃるのです。
All in the one and the one in the allとは完全に大乗仏教の考えです。「一即一切」という考えです。それは、ヒンドゥー教の一派であるウパニシャッド哲学の「梵我一如」の考えです。大乗仏教になると、梵=絶対的神という概念を仏性という概念に変えたのです。
それで、「森羅万象に仏性があり」とか、「森羅万象は仏性である」とかに変わってゆくのです。ティクナットハン和尚はこの考えを述べられているのではないかと推測いたします。
参考のために、初期仏教のスタンスを説明します。全体性とは、一切の現象は、「無常・苦・無我」であることです(形而上学的な概念ではありません)。Sabbe saṅkhārā aniccā, …dukkhā, …anattā一切の現象は無常・苦・無我である。(この真理を発見することによって、解脱に達するのです。)
また、yaṃ kiñci samudaya dhammaṃ sabbaṃ taṃ nirodhadhammaṃという有名な言葉があります。「生じる・生起する性質のものごとは、すべて滅する性質である」という意味です。これは、因果法則に基づいて語られているのです。
結論:初期仏教は「一切の執着を捨てること」を推薦するのです。一切の物事の全体性、all in one and one in allなどの信仰に基づいて修行すると、個人という執着が消えるかもしれませんが、全体性に、仏性に、如来蔵に執着したことになるのです。
執着に値する、依存することに値するものはなにもありませんので(無常・無我)これは解脱ではないのです。むしろ解脱の反対なのです。
思考はなぜ現実化するのか?
スマナサーラ長老の『いま・すぐ・ここで、幸せになる』(サンマーク出版)という本の中に、「人間は何かを思えば、その思ったようになる。今生きている自分という実体は、過去から現在の思考の結果です。この宇宙のすべての存在は無常であり、変化しないものはありません。この宇宙の法則を知っておけば、いかなる状態の自分にも変えることができ、思うように、生きられる」(P.294)という文章がありました。思考というのはなぜ現実化するのでしょうか? また、思ったことが、思ったようになる条件、思ったようにならない原因は何でしょうか? 例えば自分を変えようと思っても、思ったように変えるのが難しく感じるのですが、何が原因で、どのようにすればよいのでしょうか?
こころには二重性という性質があります。多重性だ、といっても構わないのです。この二重性は普通、相反するのです。相反する二重性の中で、当然、より強いほうが勝つのです。将棋と同じです。たとえば、「勉強したい」と思っているのに、こころの中で「やりたくない、遊びたい」という気持ちも起こるのです。
強い気持ちのほうが勝つのです。結果は「希望通り」です。が、本人はその結果を嫌がることもよくあります。頭の上で考えることが、すべてその通りではなく、反対の結果になる理由はこれです。この二重性の戦いによって、①期待通りの結果になった、②がんばった結果があった、③やっと、苦労の末、結果が出た、④上手くいかなかった、⑤結果が出なかった(無駄でした)、⑥反対の結果になった、などなどの普通の人生が現れます。
しかし、何一つも、こころなしでは成り立たないのです。こころの意志で人は行動しているのです。原因に相応しい結果が現れるのを妨げることはできません。従って、個人の評価はどうであっても、その個人のこころの希望通りの結果になっている筈です。例えば、金持ちになりたいからといって、銀行強盗する。この場合は、①豊かになりたい、という希望がある。②他人の財産を奪い取りたい、という怒り優先的な希望もある。これは、こころの二重性だとしましょう。豊かになりたいという気持ちが抑えられて、強盗するという怒りの気持ちが優先になったので、銀行強盗したのです。
怒りは破壊、不幸という結果を出します。喜んで、自分の責任で強盗したのですから、喜んで刑務所暮らししなくてはならないでしょう。いまさらその個人が「こんな筈ではなかった、金持ちになるはずでした」などの不平不満をつぶやいても後の祭りです。
善い人間になりたいと頑張っている場合でも、同じ働きです。こころの底に「こんなことをやりたくない」という気持ちが働いているのです。勝つのは、こころの表か裏か分からない。だれが勝っても、その結果は、「自分の希望どおり」なのです。普通は、無意識:本性は貪・瞋・痴です。ですから、皆、貪・瞋・痴が期待する結果を得て生きているのです。
良い結果を出したければ、不貪・不瞋・不痴が必要です。良い結果をだすことは、水の上に火を立てるようなものです。難しいですが、不可能といえません。たとえば、先ず水の上に、浮くものを置いておきます。その上に、蝋燭などで火を立てるのです。われわれも良い結果を出したいと希望するならば、本性である貪・瞋・痴を抑えて、不貪・不瞋・不痴の気持ちで行動しなくてはいけないのです。これは水の上に火を立てるような仕事になります。
「私の存在」とは何か?
ヴィパッサナー冥想をしていると、「名色の流れの因果関係」が理解できると言われていますが、これは「色」と「色に気づく私」の存在が理解できるということでしょうか?
「私の存在」とはどんな意味でしょうか? それもまた様々な原因で組み立てられている、瞬間瞬間変化して変わって行く現象の流れではないでしょうか。「私」とは単純に集合名詞group nameです。瞑想実践で、「個体的で変わらない存在であると錯覚をしている私」を分解、分析して見るのです。しかし、この作業を無理矢理、強引に行うと、結局は自分の固定概念・先入観の仕業になって、客観的なデータを得られなくなります。妄想したこと・考えたことになります。
ですから、客観的に身体の感覚を観察してみるのです。「私」という集合名詞は身体と感覚に対して当てはめたものだと発見するのです。そこで、身体とは単なる物質で、外の世界を構成している物質と同じものであるという理解に達するのです。次に物質とは、変化しない、永遠不滅の、固定したものではなく、滝のようで、噴水のようで、川のようで、変化していくものだと理解する。瞬間瞬間、どの理由で変化したのかと簡単に理解する。過去ではなく、将来でもなく、いまの瞬間の現実のみを観られる能力があらわれたならば、できることです。
同じやり方で、感覚(受)、思考(心)なども瞬間的に変化することも、その瞬間の変化を引き起こした理由(原因)も、発見するのです。これが、名色の流れの因果関係ということです。正しく観察するならば、結果として、「私は存在しない。私という名称は無数の現象の流れに貼られたラベルに過ぎない」と発見するのです。「色と色に気づく私の存在が理解できるということでしょうか?」というのは成り立たない問いです。色と感覚に「私」というラベルを貼って、互い違いの無数の瞬間を一束に纏めようとしているのです。ボールペンを部品に分解してから、「では、ボールペンはそれでも変わらないで存在するのか?」と聞くようなものです。
結論:私の存在は理解できます。「“私”は成り立たない。名色の流れです」
固定概念を無くす方法
固定概念を無くしていく方法をおしえてください。
いくつか実践のリストがあります。
①「我は思う。故に我こそが正しい」という、だれでも持っている態度を改良するのです。各個人に、自分の意見、価値判断、好き嫌い、ものの見方があるとを認めること。「我は正しい」錯覚するのはどうしようもないが、誰一人として、正しくもないし、間違ってもいないのです。
皆ただ、自分の意見・主観を持っているだけです。無知な人間の隠れ家である固定概念で、ワンパターンに、他人の意見に乗るだけで物事を判断するのは、無知に支配されているがゆえです(固定概念で判断するのは結構楽ですよ。考える必要がないですから)。
②全ての生命の対して慈しみを実践する。
③常に理性で物事を考える練習をする(たとえば、マスコミがある人、ある国を一方的に非難すると、非難される側の立場もシミュレーションしてみるなど)。
④判断する時は、自分の意見、好み、希望を後回しにして、相手に対して良いことは何かと考える。自分個人の好みなどは、当然、固定概念です。(好きな本、好きな音楽、好きな食べ物、嫌いな云々…)個人の自由だから構わないと思われるでしょう。しかし、それで、自分の範囲は狭くなるでしょう。個人的にも範囲を広げる努力をすることです。
⑤ヴィパッサナー実践で客観的な観察能力が上がると固定概念が薄くなって消えます。
来世でブッダに会いたい
死は確実に訪れ、その時期は一秒先かもしれないという現実を考えたとき、「来世(人間に生まれ変わるという前提ですが)では素晴らしいブッダの教えに一秒でも早く出会いたい」と希望しています。そんなことを念じるのは、おかしな考えかたでしょうか?
解脱に達するまで輪廻転生する間、ブッダの教え・真理に出会いたいと思うことは、それほど間違ってないと思います。しかし、注意点があります。
①来世で解脱しますと思うと、今世の修行は疎かになります。真剣にがんばらなくても良いと思ってしまいます。今世で真面目に修行しているのですが、もしもゴールに達することができなかったならば、「来世でいち早くブッダの教えに出会いたい」と誓願しておくことは構わないのです。これは、「念じる」ことではありません。そんことを念じてはだめです。誓願するのです。
②それから、人間に生まれ変わるという前提は問題です。来世も輪廻も業と渇愛によって定められるものです。しかし、何かの次元で生まれ変わることを狙って、それを希望して、適切な善行為をするならば、可能であると釈尊が説かれるのです。
しかしブッダが、①と②を推薦しているのではないのです。もしある個人がこのような希望を持っているならば、それを実現する方法を説かれただけです。ブッダの教えは、「死は確実に訪れます。その時期は一秒先かもしれない」という現実を考えなさい、ということです。これは『死随観』といいます。この考えを念じると、早く解脱に達したいという、強い意欲が現れるのです。
来世でブッダの教えに出会いたい、などといった要らぬ思考をせず、現実を観察する習慣をつけたほうがよいと思います。解脱に達したいという目的を持って、人が観察実践をし続けたとします。しかし、解脱に達する前にその人が亡くなられたとしましょう。それで、生前の修行が無駄になったと思ってはならないのです。その人は次の生まれで、こころが成長したところから実践を始めて、解脱に達するチャンスが訪れます。
ですから時間設定をしないで、早く解脱に達したいという誓願を持って、実践したほうがよいのです。「早く」という時間は、人の能力によって、実践にとりくむ意欲によって、変わるでしょう。何年もかかって今世で成功することもあり得るし、来世で成功することもあり得るのです。明確な時間設定はしないほうがいいのです。