「生きることは苦」なので子供はいらない?/親への怨みを断ち切る/「私の嫌いな人(生命)」への違和感/無念無想か一念無想か/無我と冥想実践
パティパダー2013年7月号(190)
「生きることは苦」なので子供はいらない?
お釈迦様が、生きることは苦だとおっしゃったのであれば、人間はできる限り子供を産まないように仏教は教えるべきではないのでしょうか。スマナサーラ長老の書籍や法話の中で、できるだけ子どもはたくさんつくったほうがいいというようなお言葉を何度か読んだことがあります。しかし、生きることは苦で仏教はそこから解き放つ方法を教えているのに、わざわざ苦しむ人間を増やすことを勧めるのはなぜ?と、矛盾しているように思えてなりません。
生きることは苦であるから、苦しみを超えなさい、脱出しなさいとお釈迦様が教えられます。苦しむために人間を作るなかれと説かれてありません。ブッダにも一言教えてあげるという態度は少々良くないのではないでしょうか。以下、説明します。
例えば、ある人が目を閉じる。世界が見えなくなります(当然)。それで、このような結論に達するのです。「私が目を閉じたら世界は存在しないことになる。私が目を閉じたら世界はなくなる。世界の存在は私の目の開閉にかかっている」
この人は事実を語っているのではなく、自分勝手な主観を述べているのです。世界が目を閉じたら消えるのはその人の経験なので、その妄想哲学の過ちを他人が教えてあげることも難しいのです。
「私は子供を産まないようにする。それで、世間の苦しみが消える。人間はこどもを作らないならば、世間から苦しみが消える。従って、苦しみを乗り越えるために、修行して覚りを開くのではなく、子供を作らないことは道です。ですから、ブッダが子供を作るなかれと説くべきでした」などと言うことも、目を閉じて世界の存在を消す人と同じ間違いです。
理解しないだろうと思われますが、説明します。
生命は自分の業によって、生まれるのです。死後、再生するのです。業とは精神のポテンシャルエネルギーなので、だれにも輪廻転生の回転を止めることはできません。
「私が子供を産む、私が子供を作る」というのは勘違いです。たとえ人が性行為をしても、子供が出来るという保証はありません。妊娠しても産めるという保証はありません。産んでも大人になるまで育つか、どんな人間になるかは保証がありません。各個人の業によって、各個人の生きる道は仮に決められます。しかし、周りから学んだり、躾を受けたり、自分で努力したりして、生きる路線は変えられます。(業だけではなく、これも因果法則です)
子供が現れるか否かは知ったことではありません。しかし、妊娠したならば、その命を大事に育てて、立派な人間を社会に提供する義務が生じるのです。そんなのはやりたくはない、社会に対して義務を果たすべき義理はありませんと思われるならば、度を超したエゴイストであり、恩知らずで残酷な人間でもあります。社会に支えられて、社会のおかげで生きているから、社会に迷惑を与える権利はありませんし、社会の役に立つことをしたならば、立派な人間にもなります。妊娠させた男にも同じ義務が生じます。
まとめ
子供を作らないというのは、輪廻の苦しみに対する答えではありません。ある個人が子供を作らないことに決めても、その個人の苦しみが減ることも、他の生命の苦しみが減ることも全くありません。
苦しみをなくすために、乗り越えるために、完全たる幸福に達するために、存在に対する執着を絶つべきです。自我、エゴの幻覚から目覚めて一切の煩悩をなくすべきです。
これは他人にできることではありません。各個人が自分の意志で適切な実践を行って達する境地です。修行できる、こころを育てる、智慧を開発する環境は人間という次元の生命にあります。他の生命も苦しみを乗り越えるべきですが、それは不可能な環境に生まれているのです。人間に生まれることは、解脱することに挑戦できるという、生命にとっては希に巡り会えるチャンスなのです。
ですから、間接的に言うならば、人間が子供を産んで正しく育てることは良いことであって、何故それが悪行為になるのかはわかりません。
「人間にとって、子供がいることも楽しみの一つである」と釈尊は説かれています。しかし、子供を作れとも、作るなかれとも言ってはないのです。それは、ブッダには関係のない、管轄外の問題です。
善行為をする、慈しみを実践する、他の生命を助ける、思いやりのあるこころを育てる、悪感情をなくす、生命に喜びをもたらす人間がいることは、善いこと? 悪いこと? 当然、善いことです。従って、この世に、人間として生まれるチャンスを生命に与えることは、間接的に善いことになります。生まれるだけでは、善いでも悪いでもないのです。どのように育つのか、どの様に生きるのかということが問題なので、子供を産むことは間接的に善いことになります。
どうせ、生命は解脱に達しない限り、苦を転生しているのです。ですから、人間として生まれたからといって、新たな苦を加えたことになりません。苦が変わっただけです。人間として生まれることが出来なくなったら、別な生命として生まれて、変わった苦を経験するのです。
親への怨みを断ち切る
自分自身、子ども時代から母親のあまりの過干渉や愚痴のはけ口になっていたことが影響して、生きることが非常に辛く感じています。母親も完璧な人間ではないことは理解できる歳ですが、母への憎しみが出てきてしまい自分を生産した親と自分の生そのものを否定したくなります。介護中にそんな思いが生じて辛くあたってしまうことが一番辛いです。
親が悪人であっても、親を怨む権利はありません。生を頂いたので、返しきれない借りがあります。自分自身が、素晴らしい人間になることで、その恩は返せます。
親の介護は自分にとって善行為になります。しかし、それで親が「救われた」ということにはなりません。介護があってもなくても、生きる苦しみにはかわりありません。安らぎは、精神的なものです。だから、「慈しみ」なのです。
怨みながら介護すると悪行為になります。せっかく苦労しているのに、得るものはなにもありません。ガヤガヤ言わず、天地顛倒する妄想を止めて、いい加減「慈しみ」を実践してください。
このケースの場合は、親が悪いのではなく、子がいまだ、親離れをしてないという、不自然な現象です。親離れをして、大人になって初めて、人は親のありがたさ、親の恩に気付くものです。
親を怨むと自分自身の徳が消えます。過去で行った善行にも結果を出すチャンスがなくなります。人生がだめになります。
人間として生まれるのは希なことなので、それを無駄にしないことです。親だけではなく、一切の生命を慈しむことです。
「私の嫌いな人(生命)」への違和感(慈悲の冥想にちなんで)
こんにちは。心を強くしたくて最近ヴィパッサナー冥想と慈悲の冥想を始めた者です。慈悲の冥想で「私の嫌いな人(生命)も…」ということばを使いますが、どうも「嫌い」ということばがしっくりきません。苦手だと思う人ならすぐに思い浮かぶのですが、嫌いという気持ちにぴったり合う相手がいません。わたしの「苦手」という概念が間違っているのでしょうか。それともことばに囚われすぎですか。または「嫌い」ということばを「苦手」に変えてはいけませんか?
①嫌いな人がいなければ、それで問題はありません。その場合は「例え嫌いな人であっても幸せでありますように」と念じれば良いと思います。「苦手」という言葉は構いませんが、次のフレーズで「私を嫌っている人々も…」に入れ替えられません。そのフレーズはそのままにしておいた方が良いでしょう。
②自分が気づいても気づいていなくても、普通は嫌いな人、嫌いな生命がいるはずです。「嫌い」という言葉が消えてなくなるのは慈悲の実践でこころが成長して、一切の生命を自分と同一存在として感じられる時です。ですから、言葉が空回りだと思われても、テキストの通りに実践したほうがベターです。
③出会いと環境の問題
まだ、嫌いと言える人に、生命に出会ったことがない場合は、この単語はしっくりしません。冥想道場などの仏教のみを実践する環境でも、「きらい」という言葉の意味が薄くなります。これは、こころが成長したということになりません。
お釈迦様の言葉は、「自分は暴力的な被害を受けている時でさえも、相手に対して嫌な気持ちが起こらないならば、それが本当の慈しみです」という意味になります。(ノコギリの経の意訳)
④というわけで、こころが成長するまで、誰でも『嫌いな…』というフレーズも実践した方がよいという結論になります。
⑤しかし、個人差もあります。全くこころに響かない単語であるならば、「嫌いな…」のフレーズをカットしてもいっこうに構わないのです。
⑥こころは、物事と生命を「1⃣敵、2⃣味方、3⃣どちらでもない」と分類するのです。冥想経験のないこころには「敵」が存在するはずです。この状況は私の言葉に変えると「差別意識」になります。
慈悲の実践で、こころが差別判断することを超えなくてはならない。差別判断は瞬間に、無意識的に起こるので、冥想実践は欠かせない訓練です。この理論を理解して、実践を続けてみてください。
無念無想か一念無想か
ちまたの冥想解説には、冥想とは無念無想になることであるというのをよく見ますが、ヴィパッサナーは極度の集中力で(瞬間瞬間は)一つの対象を観察するという意味でむしろ「一念無想」ではないかと思うのですが、この理解は正しいでしょうか?
理論はどうでもいいと思います。考えようとすれば何でも考えられますが、現実になるとその自由はありません。無念無想というのはただの理屈です。それを謳っている方々も何故「念」と「想」はいけないのかと説明しません。ですから、私は「ただのスローガンでしょう」という失礼な態度をとります。
そう簡単には我々の脳は無念にも無想にもなりません。あり得ないことをやろうとすると、返って脳が妄念・妄想ばかりするのです。
ヴィパッサナーは具体的な脳の開発だと理解してはいかがでしょうか。(実はこころの開発ですが。)それで、こころに「気づき」という仕事をさせます。脳が出現して以来はじめて、忙しくなるのです。他の作業が出来なくなるほどです。他人の、間違ったスローガンを借りて発言するならば、これが無念無想です。しかし、無念無想は「智慧」ではありません。ヴィパッサナー実践では、無念無想に達することも、智慧を開発することもできるのです。
無我と冥想実践
無我というのは、永遠に変わらない自分という存在があるのではないという意味で、瞬間瞬間の自分、ヴィパッサナーをし、お腹の膨らみ縮みなどを観察している、その瞬間瞬間の自分の存在は認めているという理解はあっているでしょうか? また冥想においてよく「自我を無くす」などと言われますが、ここでいう自我とは要するに煩悩によって発生する雑念や感情のことであって、決して自分をなくすという意味ではないという理解でよろしいでしょうか?
余計な妄想です。余計な理論です。自我という錯覚に、幻覚に、執着し過ぎです。自我を肯定したいという気持ちが、この質問でバレバレです。先入観で持っている自我に対する愛着と、ブッダが語る無我論とを合わせて、たちの悪いハイブリッド思考を作ろうとしているのです。
①自我、自分という実感は、瞬間瞬間起こる感覚によって現れる錯覚です。瞬間瞬間現れて消え去る感覚に対して「私、私の、自分、自我」などとレッテルを貼っているのです。「瞬間瞬間の自分の存在」というのは危険なフレーズです。(言葉の取り方はひとによって違いますので、そちらはどんな意味でとらえているのかはわかりません)
②「冥想によって自我をなくす」と言われたところで、怖くなったようです。ひどい執着ぶりです。質問者の理解は邪道的な理解になるので、以下の考えをインプットしてください。
私は、あまり、自我をなくすというフレーズをつかいません。たまに、不注意で使いますから、「決して使いません」とは言えません。正しい言葉は、「冥想によって、自我という錯覚・幻覚がなくなります」です。(幻覚が消えて何が悪いでしょうか?)
この質問者にも、昔から自我はなかったのです。今もないのです。これから現れることもないのです。あったのは、「自我という錯覚」です。あるのは「自我という錯覚」です。錯覚に対する愛着を捨てることが出来なかったら、これからあるだろうとするのも「自我という錯覚」です。
冥想に成功することで、ありもしない自我がなくなるわけではありません。覚り・解脱に達するのです。悩み・苦しみを超越するのです。