闘病生活の心構え/笑いについて/戒律と衛生
パティパダー2013年8月号(191)
闘病生活の心構え
今、C型肝炎のインターフェロン治療を受けています。日々熱があり、対処として解熱剤を服用して解消し、切れるとまた熱が出て同じことを繰り返しています。そんな中でしんどい、少しマシだというふうに感情だけにとらわれ怒りが出たり、焦りの気持ちにとらわれたりしています。実際毎日体がだるく、しんどいので感情的になるのもやむを得ないのかとも思っています。しかし、落ち着いて冷静に生活を送るようにしたいのでご質問させていただきます。このような状況で、仏教的にはどのような視点でとらえて日々生活していくべきかアドバイスを具体的にいただきたいのです。
このような場合は初期仏教では以下のように観察します。
「この肉体は病の巣であり、苦しみの泉です。
たとえ健康だと思っても、絶えず衰えていくものです。
無常な肉体に執着すればするほど、苦しみが増します。
肉体にとどまらず精神さえも病気になります。
肉体的な苦しみはこらえて我慢することもできますが、それに伴う精神的な苦しみは耐えがたいのです。
苦しみしか作らない、また壊れてしまう、やがて死体として処分される身体に執着しないことにするべきです。
肉体の苦しみを瞬間、瞬間ごとに観察します。
瞬間の苦しみなので、精神的にも参ってしまう価値はありません。
たとえ身体が壊れても、心が堕落しないようにします。
死後、腐る肉体はもっていけるものではないのです。
しかし、汚れた心で死んだら、その精神的な汚れを死後まで持ち運ぶことになる。
だから『身体が病気で倒れても、心が病気に陥らないように』と励みます。
常に『一切の現象は無常である』と念じます。
無常なる現象に執着する価値がないことを認めます。
無常なる現象に期待することも、希望を抱くことも無意味なので、止めるように励みます。
私の肉体の苦しみによって感情的になり、他人も嫌な気持ちにさせたり、他人に迷惑を掛けたりして、新たな悪業を作ることもやめます。
一切を放棄する、棄てる、諦める、無執着になる精神的な力がつくようにします。
私はこの苦しみを、『存在への愛着を棄てるべき』という戒めとして受け取ります。」
以上です。
どうか、頑張ってみてください。
笑いについて
スマナサーラ長老の著書を読んだのですが、その中に「よく笑い、よく慈しむ」というのがありました。慈しむのは理解できますが、「『あの人はバカだ』を『あの人はカバだ』と言い換えれば笑えるでしょう」のところについて一度長老にお聴きしたいのです。
スッタ・ニパータ328(中村博士の訳)に「笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴な言葉、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え」と書いてありますよね。これは長老のおっしゃっていることと真逆だと思うのですが、これについて長老はどうお考えになっているのでしょうか。
欲・怒り・無知・嫉妬・恨み・傲慢などの感情を爆発させて笑うことは「俗世間の笑い」で、仏教では禁止です。それはただ、感情のコントロールが出来なくなっただけのことです。
しかし、心の成長のためには明るさや、活発性が必要です。心を明るくしておかないと成長することはできません。ですから、心の成長の最初の一歩は「明るさの練習」になるのです。一般的な世界では、笑う・微笑むことから始まります。しかし、「あの人はバカだ」などと笑うならば、傲慢・他を軽蔑すること・他に対して不親切な態度をとることになるので、断言的に罪です。
慈しみに基づいて笑うことができます。様々な問題に対して神経質にならないで、落ち込まないで(落ち込みも怒りです)解決策を探すために、明るくアプローチした方が良いのです。
そうはいっても、「明るくしよう、明るくしよう」と頑張って妄想したところで、決して明るくなりません。ですから、何も考えず笑ってみることです。そうすると、脳がリラックスするはずです。私が推薦している笑いは、俗世間の破壊的で煩悩漬けの笑いではなく、理性・慈しみなどから起こる気楽さです。その精神状態に達するために、先ずは「笑ってみること」なのです。
確かにお釈迦様は「笑い」はだらしないと説かれています。しかし、仏教は苦を目指す教えではありません。冥想を始めたら、「喜び」(pīti)が必ず現れます。これがないと、禅定に達することも不可能です。喜びにはランクがあります。まず喜び(pīti)、次に、楽(sukha,「気楽さ」でしょう)、それから、ウペッカー(upekkhā|感情が一切落ち着いていること、冷静であること)です。成長は順番に起こります。自分勝手に、自分の主観で順番を無視することはできません。
本物の喜びは冥想すると徐々に経験することが出来ます。しかしこの場合も、俗世間の「執着から起こる喜び」ではないのです。「執着から離れると起こる喜び」なのです。
日常生活で激しく悩んで、精神的にも問題を抱えている人には、冥想どころかブッダの教えを理解することも大変です。ですから一般の方々は、笑いの練習から始めてもよろしいと思います。「何が起きても笑って対応する」練習をするのです。そうして、精神的に楽になったところで、冥想に取り組めるのです。冥想が進んで心が成長すれば、もう笑う必要はありません。心が明るくなって、顔色が輝きます。
脳を中心にして説明する場合でも、脳が成長して、活発に働くためには、「喜び」という栄養が必要なのです。仏教的にいうならば、「喜悦」です。悩み苦しみに陥っていたら、脳の機能は低下します。鬱状態になります。仏道を実践して成功する人々は俗世間の人間に想像することすら出来ない「喜び、安らぎ」を感じるのだと、長部経典、中部経典などに説かれてあります。
今日、生まれた赤ちゃんは、将来オリンピックのマラソンランナーになるかも知れません。しかし最初は、立つこと、ヨチヨチ歩くことから始めなくてはならない。仏教から見れば、人々は悩み苦しみに陥って立ち上がれない状態でいるのです。ですから、努力して究極の幸福に達するまで成長する必要があります。
この難しいプロセスを「先ず、清らかな笑いの練習から始めましょうよ」と簡単に説明しているのです。笑顔でいる人は、自分だけではなく、周りの人々の暗さも無くしてくれるのです。これが慈しみです。
戒律と衛生
在家の五戒を守っています。私は主婦ですので、掃除や洗い物をするとき、特にこの時期は熱湯消毒をします。ほかにも、洗剤に「除菌」の文字が入っているものが多いなと思いました。
ふと気になったのですが、これは「殺生をしない」の戒律を破ることになりますか。破ることになるなら、家事の方法を考えようと思います。とても気になりましたので、お教え下さい。
殺生とは命のある生命だと知った上で、意図的に、殺意をもって何かの方法で殺害することです。
細菌の存在は一般的に人間が知らない筈です。しかし、科学の発展によって現在、推測的に皆、その存在も知っています。その場合は『殺意』をもって細菌を殺すならば、『もしかすると』殺生になるのではないかと思います(経典や注釈書に記されたところがないので、私の意見で答えなくてはならなくなります。しかし、決定ではありません)。
もし、人が顕微鏡で観察しながら細菌を意図的に殺害している場合は殺生の条件が揃っています。日常生活の場合は、だれも細菌の存在を気にしません。知識で知っているかもしれませんが、実感はないのです。自分や周りを清潔に保つ目的で石鹸などのもので、体や使う容器などを洗う場合は『殺意』がないのです。殺生になりません。
実感はないでしょうが、殺意は強い怒りです。「細菌を殺します」という意図で、考えで、意志で除菌剤を使うと殺生になるかもしれません。
言葉とは面白いものです。軽く「除菌しましょう」という気持ちで洗う場合は、目的は自分を清潔にすることで、誰かを殺すことではないのです。
怒りの解毒剤は慈しみです。慈しみの気持ちで家を清潔にすることは、罪ではないのです。ですから、この問題の解決策は、常に慈しみの気持ちを絶やさないことです。