還俗した出家者への布施功徳/弟子の境地を吹聴すること/子育ての心配/感情を駆り立てる仕事の是非/他人に貢献する生き方/雇われ人の義務とブラック企業
パティパダー2014年1月号(196)
還俗した出家者への布施功徳
タイで多くの人々に尊敬されていた長老が、突然に還俗して女性と結婚したことが大きなニュースになりました。寝耳に水の出来事に、信者さんは悲しみに暮れているとのことでした。そこで疑問が生じたのでお聞きします。①これまで一生懸命お布施してきた比丘が還俗してしまった場合、信者さんの功徳はどうなるのでしょうか? ②比丘の還俗や不品行な振る舞いなどに接すると、怒りや失望・悲しみを感じてしまう場合もあると思うのですが、そういう場合の心構えを教えてください。
尊敬されていた比丘が還俗すると、驚いてしまう気持ちは分かります。しかし還俗するという現象は、タイ仏教でもミャンマー仏教でも一般的な習慣です。サンガ組織はそれをよく知っているのです。生涯、出家として修行する比丘と、一時出家して還俗する比丘という区別を明確にしています。一時出家する仏教徒たちは、信者さんに嘘をつかず、自分たちは一時出家であることを言うのです。一時出家して修行する時でも、その比丘たちは真剣に戒律を守って、修行に頑張っているのです。
ですから、生涯比丘か一時出家の比丘かということに関係なく、お布施などをして面倒みてあげる在家信者さんに功徳が入ります。還俗したからといって、功徳が消えるわけではありません。自分が行った善行為の結果は自分のものです。布施を受けた人のものではありません。還俗した人に布施を受ける権利は無いのです。
もしある人が出家して、仏教徒たちの信頼を得て、たくさん布施をもらって豊かに生活して、あとでその財産も持ち去って還俗したとしましょう。その布施はどうなることかと心配する必要はありません。布施を行った人がすでに功徳を積んでいるのです。それを持ち帰って在家として使うならば、それはその人の行いの問題です。実は、サンガの一員として受けたものは、還俗する時は他の出家者のために置いて行かなくてはいけないのです。それをしなかったならば、サンガの財産を個人使用したことになります。個人として受け取ったものを、個人として持ち帰ることが良いか悪いか、私にも判断できません。「お寺にいる時に貰ったものは、還俗する時はお寺に返します」としたほうが、罪にならない安全な態度かもしれません。
一般人が特定の比丘を「あの人は立派な比丘です」と思って真面目に信仰することは、よくあるケースです。一般人の人気を博する特色は、ブッダの教えを参考してみると全てお釈迦様が否定する性格になってしまうのです。一般の方々は、尊敬に値する長老たちを尊敬しないのです。自分の機嫌を取ってくれるので、尊敬に値しない若者の比丘たちを尊敬するのです。カッコイイ・若い・声がキレイ・お経をあげるのが上手・話が巧い・人気があるなどなどは、決して信頼できる、信仰に値する比丘の特色ではないのです。無知な人に好まれる性格と、聖者たちが認める性格は相違するのだと、お釈迦様も説かれています。最終的に言えるのは、在家の方々が獲得した功徳は無くなりません、ということです。
②に答えます。仏教徒には、出家を無批判的に盲信しなさいと言われていないのです。信仰するという現象自体が怪しいのです。在家仏教徒も、仏教を理解しては如何でしょうか? ブッダの教えを理解しているならば、もしある比丘が不品行な振る舞いをしているならば、仏法に基づいて叱ればよいのです。教えてあげればよいのです。出家したからといって、皆ただの人間なので、間違いはあるのです。ですから、それを教えてあげるのは一向に構わないのです。出家した比丘も、相手は在家であっても慈しみに基づいて自分の間違いを教えてくれるならば、それを聴いて自分の生き方を正すべき義務があります。話に耳を傾けない、という性格は、釈尊に厳しく批判されます。
もし在家の人々が出家の不品行な振る舞いに対して怒りを抱いたならば、それはその人の怒りです。悪行為になります。出家に対して簡単・単純に怒りを抱くのではなく、よく調べてみることです。調べたところで、自分が納得できない出家比丘がいると発見したら、その人のことを放っておいても構わないでしょう。各自でおこなう行為の結果は、各自で受けるので、余計に怒って罪を犯す必要はないのです。
弟子の境地を吹聴すること
テーラワーダ仏教では、僧侶や冥想指導者が特定の弟子や人物について「あなたは◯◯の境地に達した」「この人は◯◯の境地に覚った」というふうに言及することはありえるのでしょうか? そのような話をする指導者は、間接的に自分の境地をひけらかしているようでインチキ臭く感じてしまうのですが、それは偏見でしょうか?
そうかもしれません。責任感を持っている、お釈迦様の教えを重んじる指導者は、行わない行為です。はっきり言うとこれは、自己PRです。詐欺師には自己PRする必要があります。本物の指導者は、弟子のことを吹聴しません。しかし、冥想実践する弟子がどこまで成長しているのかと、指導者は把握しています。指導者も弟子のことを吹聴しないし、弟子も「私はここまで達した」と自慢しないのです。
子育ての心配
子育て中です。子供のことを心配すると、苦しい気持ちになってしまいます。どこまでだったら善行為的な心配で、どこまでいったら悪行為的な心配になるのでしょうか?
そういう心配は一切いらないものです。ただ妄想で期待・願望を膨らませているのです。原始脳のはたらき、遺伝子のカラクリに乗せられてしまっているのです。人間は理性的に子育てしないといけません。躾をする場合でも、子供に「それってやって良いことですかね?」というふうに理性的に話すと、一回で理解するのです。「やめなさい!」などとギャーギャー叱ると、「何をいっているのか?」という態度で全然聞かないのです。
極端なことを言えば、あなたがいてもいなくても子供は育つのです。執着で子育てしないように心がけてください。人間として必要な躾は短い時間で終わるのです。残りの時間で子供と遊んであげてください。
余計な獣の脳(原始脳)から出てくる、わけのわからない感情がキツイのです。それに苛まれて、育児ノイローゼになってしまいます。子育てはムチャクチャ楽しくなくちゃいけないのです。将来の心配する必要は親にはないのです。あくまで、子供の将来ですからね。親は今日、その子にとって必要なことだけやってあげれば充分です。親の仕事はそれで終了です。
それから、子供が成長して物事がわかるようになったら、「親は子供の奴隷だ」と思っている子供の勘違いを直してあげる必要があります。人間は自分で仕事をして生活するものだということを教えなければいけないのです。「高校生になったらバイトでもしなさい」と促せば、それでしっかりした大人になります。将来とは、子供が自分で築くものです。親がどんなに考えてプログラムで組んでも、しょせん、親は古い時代の人間なのです。計画が現実にそぐわない場合もあるのです。
そういうわけで、極端に気楽に子育てしてください。私は正直な気持ちで思いますよ。「子供をいい子にするなんてことはいかに簡単なことか」と。必要なポイントを正しく、短く言ってあげれば、子供はすぐに理解するのです。
感情を駆り立てる仕事の是非
ダンス(踊り)の仕事をしています。ダンスは人間の感情(貪瞋痴)を駆り立てるので、このままダンスを続けると仏教的には罪を重ねるのではないかと悩んでいます。どう考えるべきかと教えてください。
なぜ自分の仕事に自信を持たないのでしょうか? 自信を持って仕事をしないとマズいのです。どんな仕事であろうと、自分の仕事にしっかり自信を持って取り組んでください。でないと世の中が困ります。だいたい世の中でやっている仕事は、仏教から見たら悪い仕事かもしれません。人間は気楽に生きるのは嫌で、わざわざ仕事を作るのです。社会にとって必要でもないのに、苦労して仕事を作る。複雑な仕事がたくさんあるが、冷静に考えれば、そこまでいらないのです。百年も使える万年筆をつくる技術って必要でしょうか? でも、逆に見たらそれもカッコイイのです。この世の中はどうなっていますかね?
世の中にはごちゃごちゃ仕事がたくさんあるけど、必要かどうかわからない。ダンスは古い仕事です。私には、良いとも悪いともなんとも言えません。しかし、わざわざ地獄に堕ちようと計画を立てる必要も無いでしょう。自分の気持ちを変えれば、ダンスの仕事も善行為に変えることができます。ダンスを教えることによって、脳の開発に役に立つようにします。世の中の人たちが健康に過ごせるようにしてあげます。このように明るく仕事したほうが良いと思います。
他人に貢献する生き方
他人のために貢献して結果として自分が損するという場合、仏教的には完全な善行為とはいえないのかなぁ、と思います。しかし、自分が損をしても他人のために何かをする必要がある場合もどうしてもあると思うのです。行動する場合にどのように考えればよいでしょうか?
確かに、何か行動をして、周りの人々や世の中には役に立ったとしても、自分は損をしたというケースもあるのです。それでも、自分の損得は度外視して、献身的にやらなくてはいけない時も当然あります。仏教ではそれ自体、「よかったんじゃない?」というのです。献身的な行為もやりすぎは良くないが、やらなくてはいけないこともあるのです。
やりすぎというのは自分を犠牲にして、自分の命までかけてやるようなことです。そこまでする必要はない。自分の命までかけて犬の命を救ってあげたというならば、本末転倒でしょう。子供が何度も金を無心してきたら、「出ていけ」と言ってください。親を破産させてまで子供が遊び惚けているなら、縁を切ってください。
そこは常識的に考えてみてほしいのです。時々は、自分がたいへんな目にあっても、やらないといけないこともあります。それは「献身的に頑張ったぞ」と喜べばいいのです。他人の役に立っているなら、その行為は当然、自分の役にも立っているはずです。社会の役に立つなら、当然、自分の役にも立っています。一方的に自分が損した、ということは広い視野でみれば成り立たないのです。
雇われ人の義務とブラック企業
『シガーラ教誡経』のなかで、雇われている人が雇用主に果たすべき義務として、雇用主よりも早く職場に出ること、雇用主よりも遅く帰ること、という項目がありました。労働基準法を守らない、現代のいわゆる「ブラック企業」に勤めていても、そうすべきなのでしょうか?
現代社会では労働基準法があるから、それに従うべきでしょう。長時間労働は会社に問題があるのです。会社自体が間違っているから、存続するのも大変だと思います。自分は自分の給料分の仕事をすれば充分なのです。釈尊が仰っている事柄は、常識的な範囲で通じることです。常識的な会社だったら、上司より早くでて、上司の後に片付けして帰ったほうが断然カッコイイのです。
経典に出てくる「雇われている人」というのは、金持ちの家に使用人として雇われている人のことです。そうであれば当然、主人の行動する前に雇われ人が準備しないといけないでしょう。現代社会で、企業が労働基準法をハチャメチャ破っているなら、従業員は労働基準監督署や司法に訴えた方がいいでしょうね。
現代バージョンでは、時間の問題ではなく、仕事の量で考えてください。自分に与えられた仕事は、とにかく終了させること。その程度で頑張ればいいと思います。それで一時間余分に仕事することになっても、一日でこなさないといけない仕事量をやったということになりますから気分がいいのです。管理職が部下に対して、三日がかりでやらないと納期に間に合わないような仕事を「今日じゅうにやっといて!」と頼むのは問題です。それは上司に文句を言ってみたらどうでしょうか? でも日本人にはそういう勇気がないのだからね……。とにかく、給料分働けば義務を果たしたことになります。上司よりも早く職場に出るというのも、現代バージョンで考えれば、「遅刻しない」というくらいのことです。勤め始めてから一度も仕事に遅刻していない、といったら、カッコイイでしょう。そういうふうに、常識に照らして柔軟に考えてみてください。