あなたとの対話(Q&A)

不邪淫戒の解釈について/カルナー(悲)の冥想について

パティパダー2014年2月号(197)

不邪淫戒の解釈について

スマナサーラ長老が戒律について述べた文章のなかで、五戒の三番目、kāmesumicchācāraについて、「不倫」という意味の他に、「諸々の欲に対して不適切な行為」という解釈をされていました。この戒律の意味を「不倫」ととるべきなのか、もっと広く取るべきなのか、もう少し詳しく教えてほしいと思います。

他人に守られている人と性行為しない

 ある特定の項目をとなえて戒律を守るという習慣は、宗教世界から現れたものです。ブッダの道徳論は常識的に道徳を守ることです。でも人間はそれがわからないから項目戒律ができてしまうのです。五戒もお釈迦様が開発したものではなくて、世間でだれでも大体正しいと認める項目でした。インドで家を出ていた宗教家の大半は、brahmacariya(梵行)という戒律を守っていました。出家は家族と離れて生活するということなので、性行為しない、というポイントが派手に出てきたのです。そこで、出家=brahmacariyaということになったのです。しかし在家の人々にとってそれは無理なことなので、そこをkāmesumicchācāra veramaṇīということに変えた。在家バージョンとして柔らかくしたのです。

 仏教は定義が好きだから、戒律の意味も注釈書などで細かく定義します。「邪な行為」というのは、他人に守られている人と性行為してはいけない、という意味になります。そうすると女性というのは一生、誰かに守られているのです。子供の時は親に、結婚したら夫に、年老いたら自分の子供に守られる。身体も弱いのだから守らないといけない。みんな他人に守られている女性になるのです。その中で、自分が守っている女性は奥さんだから、その人と性行為するのはOKで、それ以外はやるなかれと。それが註釈書で定義されているブラフマチャリヤの在家バージョンですね。

五欲に対して節度を超えない

 しかし私は、kāmesuという複数形をなぜ使っているのかと疑問なのです。なぜkāmaではなく、kāmesu、諸々の欲に対して悪いことをしないと言っているのかと。もっとも、異性と性行為する場合は相手から五欲(色声香味触)を感じるのだから、それで複数形のkāmesuではないかという解釈も取れます。私は、仏教は品格ある教えですから、kāmesuという複数形を文字通り「諸々の欲」と取ったほうがいいのではないかなと思うのです。

 性行為に限らず、私たちが五欲を楽しむ、見て楽しむ、聴いて楽しむなどをする場合、やり過ぎはみっともないのです。節度を保って五欲を楽しむことが大切なのです。例えば、自動車を買うのは身体の楽しみですが、五台も六台も買う必要はないのです。映画を見るのは眼や耳の楽しみですが、四六時中映画を観ていたら生活が破綻するのです。美味しいものを楽しむのはいいけど、朝昼晩とグルメしてしまうと、自制・自己管理ということが消えてしまう。だから、他のことも気をつけて、節度を知ったほうがいいのではないかなと思います。

 不邪淫戒とする場合は自分の奥さん以外とは性行為しないということだけど、古代インドでは奥さんは一人とは限らなかったのです。合法ということなら、それで構わない。しかし、自然法則で見れば、一人でも大変だから一人になったんですけどね。何人ということは仏教では決まってない。やはり節度を知るという規準を入れないと、おかしなことになります。

 それから、古代インドにも売春制度はありました。若い人が売春する場所に行くことは、戒められているkāmesuの範疇に入らないのです。その時間だけお金を払って自分の奥さんにしているんだから。それは「やりなさい」という意味ではなく、仏教の法律的には違法にはあたらない、というだけのことです。インドには花魁のようなひとがいて、一日二四時間、千両もらってその人の奥さんとして生活する。料理もできて、声も綺麗で、金持ちたちは絶世の美女を一日だけでも自分の奥さんとして手に入れたいと、競ってお金を払ったのです。そういうことは、仏教ではあまり批判していないのです。お釈迦様の時代、インドで有名だった二人の花魁は、ふたりとも仏教徒になって、一人は覚りにも達したのです。仏教では売春をする人に向かって「ふしだらな仕事はやめなさい」と言ったことはないのです。

 少し話が脱線しましたが、kāmesumicchācāra veramaṇīという場合は、ただ性行為だけではなくて、五欲に対して節度を超えない、というふうにとった方がいいと思います。


カルナー(悲)の冥想について

慈悲の冥想で、サマタ冥想として対象を区切ってカルナー(karuṇā・悲)の冥想をする時に、身体の具合が悪い高齢の両親のこと、津波の被害者のこと、原発事故の被災者のことなどを思い浮かべると、どうしても感情が高ぶってくるのです。その感情自体は自分にとってよくないことだと教えていただいているので自分を戒めているのですが、カルナーの場合は相手に同情する感情がないとインセンティブ(刺激や動機)が出てこないのではないか、とも思うのです。そこで、冥想実践において「他人に対する感情」というのはどう捉えればいいか、どう理解すればよいのか、そこを教えていただきたいのです。

心の騙し機能

 いまの言葉から判断すると、ご両親のことを考えても、身体が弱くて惨めな姿が入ってくる。被災者の悲しい姿とか、そういうところばかりあえて集中しているような気がします。仏教の心理学に、心はいかに自分を騙すのかという研究があります。自分自身をごまかす、騙す、と聴くと、そんなことあり得ないのではないかと思うでしょうね。自分に騙されているのは自分なのです。騙しているのは自分ですから、騙されているとはわからないでしょう。
この騙しの一つに、慈悲喜捨のカルナー(悲)を装うパターンがあるのです。質問した方もカルナーに心が行っています。人々の悲しい姿が見えるのです。あえて不幸を見てしまっているのですね。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じるときも、不幸な人にフィルタリングするのです。これは正しく慈悲の冥想をしている場合は問題ないのです。あえて不幸な人々をフィルタリングして、冥想の対象にして、禅定に達するのです。これは正しく行けば、なのです。

 気をつけなくてはいけないのは、心の騙し機能です。憐れみの気持ちをかぶって、怒りが自分を騙すんです。怒りが人を怒らせないで、そのかわりに憐れみの気持をつくってしまう。「ああいやだ、なんて可哀想なんだ。フィリピンでは台風被害で支援物資も届かないんだ」「福島原発でもうこれは嫌だ、終わりだ、福島にはもう二度と戻れない人もいるのだ」などと思ってしまう。そうするとすごく嫌な気分になるのです。嫌な気分になるだけではなく、逆に落ち込む方向にもいってしまう。悪い方向にも+と―があるとしましょう(釈尊は内と外という風に分けています)。怒りがプラスに行くと、怒りを外に出すと、他人に対して怒るんです。怒りがマイナスに行くと、怒りが内に出ると、「なんだこれは上手くいかないんだ、どうせオレはダメな人間だ」と落ち込むのです。そうやって激しく感情が湧いてくる。それは、怒りが自分を騙しているのですね。怒りはシンプルな単語だけど、あらゆる顔をもっています。怒りにはいろんなバージョンがあって、それぞれ内・外がある。嫉妬の場合も、ふつうは外に向かって他人を嫉妬する。しかし内向きになって落ち込む時もあります。

慈悲の瞑想をするとなんか悲しくなってくるという場合、親のことを思ったり、災害の被害者のこと思ったりして、悲しくなってくると、ちょっとヤバイのです。慈悲のふりをして、怒りが騙しているおそれもあるのです。決して、悪く思わないでください、我々は覚っていないから、怒りも欲もあります。あるのだから修行しているのです。わがままや傲慢にかられて愚かなことをやったりして、ろくでもない人間でしょう。だからこそ、立派な人間になろうと頑張っているのです。質問した方も、慈悲の冥想をしたからといって心のなかに汚れがないわけではないのだから、心の汚れが波打って興奮してしまっている可能性があるのです。

心を手術する

 慈悲の冥想では、自我をいじっているのです。自我という妄想を無くすことが目的なのです。無くすためにそれをいじらないといけない。悪性腫瘍を摘出しようとしたら、医者は患部を切り開いて手術するのです。修行中も手術と同じやりかたですからね。我々の弱み、汚れたところ、だらしないところを、特定して、まとめて切除できるようになってくるのです。集めて、はっきり取り出せるようになってくる。それで手術するのです。ヴィパッサナー実践の場合は、千五百煩悩を直撃して取り除くから楽ではないのです。汚れを上から白く塗って「なかったこと」にするのはサマーディ冥想です。汚れがあっても上からシートを張ってキラキラにして見えなくしたら判りませんからね。ヴィパッサナーというのは、お化粧する世界ではないんです。人間はプロにかかればかっこよくメイクできます。大きめの顔も小顔に見せられる。それも仏教では否定していません。しかしそれこそがスゴイとは言わないのです。女性が化粧して身なりを美しくするのはいいけど、あんたそれだけかい、それで満足するのかい、ということです。もっと心のなかから美しさをつくれと。ロボットみたいに笑うのではなく、自然にあらわれてくる美しさはどうですか、と提案しているのです。

冥想のチェックポイント

 脱線しました。慈悲の冥想をやろうとしても、慈悲喜捨のひとつにひっかかる。それはそれで構いません。それはその人に適した冥想かもしれません。しかし、それが騙し機能だったらどうしましょうか。そうなるとやっぱりヤバイのです。冥想にならないのです。質問ではたった一つの例だけです。慈悲の悲・カルナーに騙し機能が取りついているのです。カルナーの冥想をする場合は、対象になるのは苦しんでいる人々、生命です。正しいカルナーの冥想の場合は、自分にもすべての生命にもカルナーを実践するのです。生きとし生けるものという限界の無さはそのまま。慈悲は無量心というのです。無制限で実践しないといけないのです。でも実践する人があまり理解しないでやってしまって、煩悩の騙し機能に負ける人はうまく行かなくなるのです。正しいカルナーの冥想とは、生命にはいろいろ問題があって毎日苦しんでいる、自分にしたってそうだ。他の生命を見たってみなそうであると観察するのです。まず派手に不幸になっている人から対象にしてやったほうがやりやすいと思います。

 そこで、カルナーの冥想中に、暗い感情が割り込む場合は気をつけたほうがいいのです。もしかして自分がもっている煩悩が、自分を騙してやろうかなと思っている可能性があります。でも観察してみれば、これっておかしいのではないか、と自分でわかります。慈悲の実践をすればするほど、しっかりした落ち着いた人間になって、感情の波が減って、冷静で穏やかにいられるようになっているはずなのです。人格向上している、興奮しない、無気力にならない、というポジティブ的なものがついているならば、冥想はうまくいっているのです。それは各自でチェックできます。「慈悲の冥想」をして、落ち込むなぁと思ったら要注意です。落ち込むはずがないのです。

 ただ、「私の嫌いな人々も幸せでありますように」というところで怒りがこみ上げてくるのは、別に問題ないのです。あえて自分の心をチェックしているセクションですから、そこは気にしなくていい。「そうか、まだ自分はダメだ」と思えれば問題ないのです。

自分にできることは何か?

 私たちは慈悲の実践を通して、あわれみを求める気持ち、助けてほしいという気持ちはみんなにあるのだと、できる範囲で他の生命を助けてあげることが道なのだと理解しなくてはいけないのです。一切生命が「助けてほしい」と思っているのです。一切衆生を救うなんて、具体的にできる話ではないでしょう? しかし、ちっぽけな自分にも何かができるはずなのです。それを実行しましょう、というだけのことなのです。多くの人々が大震災でたいへんダメージを受けたのだから、「皆がまた幸福になってほしい」と思うのはいいけれど、あなたに何ができるかと聞かれると、一人の人間にできる量は決まっているのです。それをやらなければダメでしょう。苦しんでいる人がいるんだぁ、と暗くなっている場合ではないのです。

 福島原発事故の被災者だけじゃなくて、被災した皆様が、みな落ち着いた生活にもどってほしいと思うのはOKです。その人たちを助けることが必要であると。みな幸せであって欲しいけど、自分には何ができるのかと、調べてみればそれが出てきますね。そのようにカルナーの冥想が進んでいく。親に対しても、カルナーで観察してみれば、親に必要なものは何かとわかるのです。当然、親に必要なものを自分ですべて揃えることはできないです。親が寝たきりで自分のこともできなくなっているのを見て、「昔みたいにさっさと歩ければいいのに」と思っても無理ですね。どんどんひどくなるばかりです。いつまでも若くて元気でいてほしいと願っても、それは無理。しかし、老いて弱った親に何かしてあげられることはないかと、小さなことが見えてきますよ。すべてをしてあげるのは不可能だから、自分にできることだけしてあげる。親が末期ガンだったら、当然、死にますよ。その前提で自分ができることをするのです。

 危篤状態の人にどう接すればいいのかと相談されて、私が言うのは、「ただそばにいて手を握ってあげてよ。くだらないこと、だらだらいろんなことをしゃべってあげてよ」ということです。相手が聴いていても聴いてなくてもどうでもいいんだからね。それで救われますよ。何か喜びを感じることを喋れば、それで充分ではないでしょうか? 世界の法則はひっくりかえすことができないですからね。そういうふうに智慧があらわれてきたら、自分にできることを実践するようにすると、汚い感情が起こると思う? 無気力が起こると思う? 慈悲の発見をしてそれを実践するようになれば、感情が出てくると思う? ああどうしようと無気力になると思う? そういうことで、慈悲の冥想を進めていって欲しいのです。

感情について

 それから感情について説明します。感情というのは煩悩です。慈悲喜捨も一般的にみると感情の別バージョンなのです。慈悲喜捨の実践をする時は、汚い感情はみな取り除きます。しかし感情自体は精神的なエネルギーなのです。汚い怒り嫉妬憎しみを取り外して、精神的なエネルギーだけ置いておかないといけないのです。そこで、精神的なエネルギーに慈悲喜捨という釘をうって止めておくのです。煩悩は取り除いたけれど、精神的なエネルギーはそのまま慈悲喜捨という釘で止めておく。そうすると、慈悲喜捨は感情と同じ働きをしますけれど、汚れていないのです。そういうところも理解したほうがいいと思います。一般の人は「煩悩は悪いのだから、それを慈悲喜捨で取り替えますよ」と理解すればいいのです。