無口な性格を直すべきか?/親孝行と「言語」の理解
パティパダー2014年3月号(198)
無口な性格を直すべきか?
自分は無口な性格が欠点だと思っています。もちろん仏教では無駄話を戒めていますが、職場など世俗的な環境においては、やはりもっとスムーズに喋れた方がいいのではないか、と思って努力しているのですが、なかなか上手くいきません。そこで「無駄話をしないこと」という仏教的な戒めと、社会で求められる円滑な言語コミュニケーションとの関係について教えて欲しいのです。
ひとの性格はみな違う
まず、無口であることを欠点と思っているところが問題です。ひとの性格はみな違うのです。自分の性格が「欠点」と思ってしまうと、やっていられないのです。自分が持っている性格を自分のため社会のためにどう活かすかが問題です。例えば、相撲取りは巨大な体格ですけど、「おれはデカいんだぞ」と他の体格の人をバカにする権利はない。彼らは自分の特徴を使って、相撲という自分の世界で活動するだけ。そのように、誰だって自分の性格を活かして生きていくことが大事なのです。
危険なネガティブバイアス
私たちは、自分の性格を見る時、いつもネガティブバイアスで見てしまうのです。そういう見方も自我の働きなのです。自我という幻覚に惑わされているのです。生命の認識は「私がいる」という実感を作ります。その実感がどんどん勘違いして、「自分こそ偉い」と思い込む自我の幻覚が現れるのです。しかし、「自分は偉い」と思い込んでいる自我から自分を見ると、ぜんぜん偉くないダメなところばかり見えるのですね。それで「こんなはずではなかったのに……」と、落ち込んで引篭もってしまったりするのです。
特別な人はいない
自分の性格を見るときは、「人間は誰でも同じだ、みな問題を抱えているのだ」と事実に基づいて客観的に見ることが大事です。特別に神に恵まれた人など何処にもいません。人類は平等なのです。特別に「ついてる」人はいません。誰だって、「ついてる」ところもあれば、「ついてない」ところもあるのです。それが客観的な事実です。自分の性格をチェックするなら、そのスタンスでチェックしないといけないのです。それで「自分にはこういう能力も必要だな」と客観的に分かれば、何のことなくできるようになるのです。見栄を張って「これもやらなくちゃ!」と思ってもできないのです。
一番良くないのは、自分の性格について悲観的に見ることです。それで自分の能力がわからなくなります。せっかくの能力を使って社会に貢献することもできなくなるのです。
「では、私に何ができるのか?」
質問された方は、「無口な性格は欠点だと思っている」とのことですが、喋れないのに喋りたがる人は迷惑です。極端な例を挙げれば、喋り下手のバイオリニストがステージで無理にしゃべろうとしてコンサートをぶち壊しにしてしまうようなものです。バイオリニストならば、演奏会で無理に喋らなくてもいいのです。演奏に専念すれば充分なのです。ですから、自分の欠点を見る前に、「では、私に何ができるのか?」と見ることです。私達がいつでもやってしまうことですが、他を羨ましがること、他を軽視することは成り立たないのです。それはあり得ない話であって、罪なのです。
ひとと喋れないような身体的な障害を負って生まれていない限り、必要な時に必要なことは誰にでも喋れますよ、心配しなくても大丈夫です。
聖者の沈黙
お釈迦様が、「あまり喋らないほうがいいのです。人格完成者は聖者の沈黙を保つのだ」という場合は、それとは全く違う話ですよ。ちゃんと分けて理解してください。聖者には、一般人のように、何か喋りたいという衝動はないのです。心にはつねに平安な波動が流れていて、必要なことだけ喋ります。だから聖者は、求めに応じて説法して真理を教えるのです。
言葉の罪を犯さない
もう一つポイントがあります。私たちは言葉で罪を犯します。十悪のリストのうち、言葉の罪は四つもあります。嘘(musāvāda・妄語)、無駄話(samphappalāpa・綺語)、乱暴な言葉(pisuṇāvācā・粗悪語)、他人を貶める噂話(pharusāvācā・離間語)ですね。それらを犯すくらいなら、何も喋らないほうがいいんです。挨拶のセットフレーズを適切なタイミングで使うくらいでもいい。特に日本社会では、それができるだけで円滑に暮らせますからね。
避けられない仕事なら能力は自然に備わる
喋るのが職業ならば別ですが、「うまく喋れるようになりたい」と焦るのは良くないのです。スリランカでは、お坊さんほど上手に喋る人はいません。仏教の話というのは、「酒飲むなよ」とか「怠けるなよ」とか、誰も聴きたくない話です。そんな話をお坊さんたちは、みんな釘付けで聴いてしまうような調子で話すのです。特別な訓練は受けてないが、坊主になったのだから、義務として、聴きたくない話を人々に伝えるというのは、仕事として逃げられないから、自動的にできてしまう。喋れないことを気にするのは、自我を張りすぎなのです。
お喋りは脳にダメージを与える
お喋りの人は脳が混乱しているのです。お喋りがすぎると脳にダメージが大きいのです。女性が男性に比べてお喋りなのは、一つは子供を産んで育てるために必要だからです。それは批判できません。しかし、女性は男性に比べていつでも精神的に不安なのです。常に周りのことを心配しています。何かあれば心配するし、何もなければ何もないことに心配する。何があっても悩むという性格なのです。これは直さないといけない。もっと楽しく穏やかに生きて欲しいのです。
一般的に見ると、喋りすぎとは精神的に不安定の証拠なのです。伝えたいことがあれば喋ればいいし、無ければ黙っていることです。無理に喋ろうとせず、自分の性格を活かすことを考えればいいのです。
親孝行と「言語」の理解
いま両親の介護をしています。仏典にも親の恩は返そうとしても返せないくらい重いものだ、と説かれています。また、もっとも尊い恩返しとは、親に真理・道徳を教えることだともありました。老い先みじかく、あまり仏教に関心も持ってくれない親に、どうすれば道徳・真理を伝えられるでしょうか?
相手の「言語」を理解する
まず認識しておかなければいけないのは、それぞれの人には自分の言語がある、ということです。相手にわかる言語で話してあげないと受け取れないのです。日本語だからいいのだ、というわけではないのです。我々も相手の年齢によって言葉を変えるでしょう? 子供と喋る場合は、子供の言語で喋るのです。
相手の言語を知るのは、いたって簡単なことです。相手がどんな言葉に反応するのか、ということをチェックするのです。特に家族の場合は、お互いの言語を知っておかないと大変なことになります。「あいつの気持ちがわからない」という場合は、相手の言語がわからないのです。親が子供の気持ちがわからないというのは、子供の言語が変化していることに気づかないからなのです。十五才の子供に十才の子供向けの言葉で喋っても、気持ち悪がられるだけです。日本語で「あの子の気持ちがわかっている」というのは、実は「あの子の言語がわかっている」という意味なのです。
「親の説教」利用術
解決方法はこうです。親に説教する前に、あなたが親から説教してもらって下さい。「私の人生はどうでしょうね?」とか、「私はどう生きていけばいいでしょうか?」とか、「死後はどうなると思いますか?」とかいろいろ質問して、親から説教してもらうのです。親が持っている世間観、人生観、死後についてどう思っているのかなどをよく聴いて、それを理解した上で、その言語に合わせて話してみてください。すぐに理解してくれると思います。そうやって理解したことについては、仏教の本を渡せばちゃんと読んで理解してくれるはずです。親があまり喋ってくれない場合は、(息子・娘である)自分のことを相談するような感じで訊いてください。親が子供に伝えようとする人生観は、親自身の人生観でもあります。もちろん親が実際にそのとおり実行しているかどうかは別です。後からそこの矛盾を指摘して、「お父さんお母さんが言っているのは立派な教えだから、ちゃんと実践しましょうよ」と励ますこともできますよ。