「覚悟」とは何か?/もし暴力を振るわれたらどうするのか?/「ご縁」について
パティパダー2014年6月号(201)
覚悟とは何か?
最近、仕事の上で覚悟の程を問われる局面が以前に増して多いのですが、ふと、覚悟の定義とはなんだろうと思ってしまったのです。世間や周りの人々の話を見たり聞いたりすると様々です。無我夢中でやる、死ぬ覚悟、殺されてもいいと決意するなど結構殺伐としているように思います。それって怖い人たちのやることじゃないのと思うような事を語る人もいます。
そこで是非お聞きしたいのですが、お釈迦様は相当な覚悟を持って出家し解脱へと至ったことと想像しますが、そのお釈迦様が「覚悟の意味」「覚悟の決め方」について語ったことはありますでしょうか。例えば、覚悟の決まっていない比丘の方を叱咤したようなエピソードなどありますでしょうか。
覚悟について
覚悟とは、「覚り・解脱」を意味する仏教用語です。覚悟して○○をやるのではありません。解脱を目指して精進した結果、覚悟するのです。
しかし、日本語では別な意味で使っているのです。仏教用語で結果、ゴールを意味する言葉は、日本語になると、道、方法、心構えを意味する言葉に変わったようです。私が日本語の正しい使い方を説明するという、いかがわしいことをしなければいけないはめになります。
覚悟とは「決意」でしょう。こころの曖昧さ、揺らぎ、優柔不断がないことでしょう。最近は、何でも簡単に諦めて、ギブ・アップ(give up)してしまう人々が増えたので、気になる単語だと思います。チャレンジする精神が弱くなると、障害に当たったら、止まってしまうと、人生では何一つもできませんね。
人生は「楽ちん」だというとんでもない錯覚に陥ったら優柔不断で、挑戦する精神が欠けた人間になります。上達するということは、社会であろうと、仏道であろうと、簡単、楽々ではありません。強い決意が必要です。これが「覚悟」ということだと思います。
仏教用語で説明いたします。
こころの揺らぎは「怠け」です。
優柔不断は「痴」です。
釈尊の弟子達には「優柔不断」はなかったのです。しかし、困ったことに、修行者は怠けの攻撃を受けるのです。それには、釈尊が厳しく叱るのです。現代日本語でいう、「覚悟」と似た意味の言葉を使用するのです。釈尊でさえ、「死ぬならば、死んでも構いません。解脱に達しない限り修行を止めません」という覚悟(決意)で最後の挑戦に挑んだのです。
理性は絶対必要
何でもかんでも死ぬ覚悟でやるのではありません。目的の価値を考えなくてはなりません。例えば、死ぬ覚悟で仕事をするならば、それは何の意味でしょうか? 生きるために仕事をするものでしょう。仕事だからと言って命を危険にさらす必要はありません。
挑む目的は、1.自分の幸福になる、2.自分と関わりのある人々の幸福になる、3.皆の幸福になるという基準に合わせるのです。明確にいうと、基準の2は1+2です。基準の3は1+2+3です。要するに、皆の幸せになる行為は、自分と、親しい人々の幸せにもなるのです。このような目的の設定ができれば、その目的に達するために、苦を顧みることがなく、精進するのです。
死ぬ覚悟はあほらしいのです。死んだら何もできないでしょう。目的に達してないでしょう。「これ以上は不可能・無理」と言えるところまで精進するのです。これに「死ぬ覚悟」と、言葉の意味を重視しない人々が大袈裟にいうのです。
だれの役にも立たないことに精進しないこと。昔からやってきたのだからと言って精進しないこと。役に立たないと分かったところで、いい加減に無駄な行為を止める勇気も、「覚悟」です。
覚悟とは自分との戦いです。怠けは自分のこころに起こるのです。やりたくないと思うのは自分です。ギブアップ(give up)するのは自分です。
「人は結果が出るまで精進する」というのが、釈尊の言葉です。
もし暴力を振るわれたらどうするのか?
治安のいい日本各地で、通り魔や殺人などの理不尽な暴力が起きています。そのようなニュースを目にする度に心を痛めているのですが、いつ起こるか分からない理不尽な暴力に対して、現実に、もし起こったとしたら、自分を守るための正当防衛(反撃)、妻や子供、生命や財産を守るために戦うことを、仏教的にはどう考えるのでしょうか? お釈迦様は「鋸の喩え」で、暴力を振るう人にも怒ってはいけないと教えていますが、実際には暴力を振るう人々にどのように対応したらいいのでしょうか?
妄想の仮定に答えはない
この質問は答えづらいのです。なぜかというと、これは自分が一人勝手に妄想して出てきたことでしょう。こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようと、それはいくらでも妄想できます。北朝鮮が核爆弾を撃ったらどうしようとか、中国と日本が戦争になったらどうしようとか、人間が妄想することにどう答えればいいのでしょうか?
当然、ニュースでは通り魔事件などいろいろと出てきます。それを何でも自分に当てはめて妄想してしまうと、ただ自分が困るだけですよ。自分の心の明るさも消えてしまいます。ですから、妄想は要らないのです。妄想は好きでやっても自由ですが、自分が妄想遊びをやっているんだと分かっていなければいけません。妄想というのは無知のはたらきですから、無知のゲームをやっていると自覚していなければいけません。
妄想しているときは無知が繁殖しています。勝手に妄想するのは構わないのですが、大変気を付けた方がいいのです。妄想ですから、その妄想を真剣真面目に受け取ってはいけません。
現実にそうなったら……といっても、それ自体が妄想なのです。現実に北朝鮮が核爆弾を撃ったとしたら、どうしますか?「現実に~が起きたら」と言っても、同じ妄想でしょう。現実に中国軍が日本の領土に入ったら、どうしますか? ですから、いくらでも「現実に~」という言葉は使えるのですが、それは成り立たないのです。そういう思考が問題なのです。
別に思考で遊ぶのはいいのです。それは、はっきりと遊びだと自覚しておいてください。でないと、あなたは病気になってしまいます。あなたは今も、その妄想で「ブッダの教えは正しいのかな?」という疑いが起きたでしょう?「自分の身体を鋸引きにしている相手に対しても慈しみの気持ちを起こせ」と教える『鋸の喩え』と比較すると、「それはあり得ない」という立場になっている。仏教を学んで、なんとなく新しい生き方に挑戦している最中なのに、その土台が崩れていっているでしょう。妄想がせっかくのこころの落ち着きを壊しているでしょう。それが現実なのです。
あなたの身の上で、誰か家族が攻撃されたり財産を奪われたりといったことは、現実的ではありません。そんなに現実的にしゃべりたければ、日本の人口から割り出してみてください。日本人がどれぐらいいて、一日にどれぐらい犯罪が起こり、一日にどれぐらい人が殺されているのか、きちんと統計的に考えてください。そうすると、あなたが攻撃を受ける可能性は何パーセントですか? 義務教育を受けて数学も学んでいるのですから、ご自分で統計学的に計算してみてください。
あなたが幸せでいることを、また統計的に見てください。今までの人生で何回酷い目に遭ったのかと見てください。子供の時に学校で友達とケンカしたことは数えないでください。そんなことは統計には入りません。そうではなくて本当にいじめられたこと、暴力を振るわれたこと、お金を奪われたこと、それを数えてください。それであなたが攻撃を受ける可能性は何パーセントになりますか?
もしあなたが酷いことに遭っていたとしても、それは一千万分の一です。ですから、残りの出来事を全部無視して、その酷い目に遭ったことだけを取り上げて生きていくのですか? 例えば、あなたは現金で一千万円の賞金を貰うことになっていました。それでお札や硬貨を合わせて一千万円を貰いました。その貰ったお金から一円玉を落としてしまいました。あなたはその落とした一円玉のことで、「あぁ、一円を損してしまった」と落ち込んで泣きますかね? 一千万円から一円がなくなったら、残りはいくらですか? 残りの九百九十九万九千九百九十九円を手に持っているのですよ。ですから、明らかに妄想しているのです。妄想をやめて、幸せを感じでみてください。
明らかに現実的ではないのです。それが癖になってしまうと病気になってしまいますから、妄想をゲームでやるのはいいと言いましたが、はじめから現実的ではないのです。
成長していない心の反応
それでは仮定で答えますが、人間が理不尽な暴力などに遭ったとき、どうするのかということは、誰も分からないのです。我々は誰も計画を立て準備して構えて生きているわけではないのです。それが現実なのです。その瞬間、その瞬間で反応するのです。その現実があらわれない限りは、分からないのです。なぜかというと、脳にはそのようなプログラムはないからです。心にもありません。その都度、その都度、反応するだけです。
心が成長していない場合は、反応が全部おかしくて、やってはいけない反応をします。心が成長していると、ぴったりと正しい反応ができます。あなたは成長していない未熟な心で、「もし財産を奪われることになったら、みんなをぶん殴って殺して家族を守るぞ」と決めているだけなのです。
それで仏教を通して、別な方法・守り方もあることを学んだら、それは即却下です。結局は、あなたは成長する前に、真理を聞く前に、野蛮人でいた時の心で今もプログラムを組んで、それを実行するぞと決めているだけなのです。それは大変な間違いです。プログラムというのは、その瞬間に現れます。どのように反応するのかということは、誰にも分かりません。
しかし、長い間修行をして、しっかりとした人間らしい心を、いわゆる成長した心を持っているならば、どんな時にも見事に反応できます。だらしのない本能的・動物的な反応はしません。
もし誰かが殴りに来たとして、動物ならどうするのかというと、攻撃されたら逃げるか・逆に攻撃し返すか、のどちらかなのです。動物には、「第三の道」はないのです。もしかすると、皆様は人間も同じだと思っているでしょう? 誰かが自分を殴ろうとすると、殴り返すか・逃げるか。ですから、動物のレベルから成長していないのです。
仏教は第三の道を説く
そこで仏教では、三番目の道があると教えているのです。なぜかというと、この二つの動物的な反応はダメなのです。逃げると、気持ち悪いのです。人が殴ってきて逃げたとすると、何かプライドが傷つくでしょう。では殴り返したら、同じことでしょうに。お互いに怪我をするだけでしょう。誰も勝っていないのです。
ですから、その二つの反応ではない正解があると、お釈迦様が正解の道を教えているのです。お釈迦様が教えたその道は、未だかつて失敗したことはないのです。家に厳重にカギをかけて、セキュリティーを付けて、我がまま・エゴイストで、誰にも私の財産を見ることさえも許さないと思っている連中の家に、強盗が入るのです。窓は開けっ放しで、玄関の鍵もかけないで、隣の人でも友達でも勝手にこんにちはと入っていくような家には、誰も泥棒に入りません。その家に入っていく人は、お金を盗みません。それは人間が偉いということではなく、心の法則なのです。
我々の心は、味方を裏切れないようにプログラムされているのです。敵を攻撃するのです。味方を攻撃するということは、考えられないのです。お釈迦様は、その同じ法則を使って解決策を教えているのです。ですから、あまり悪い出来事をイメージしないでください。だからといって、無責任に生活するということもあり得ないのです。適当に気を付けて生きていればいいのです。
そういうことで、「もし現実的に~が起きたら、どうしますか」という思考パターンは、執着の態度なのです。正解は、無執着の態度を示すことです。
起こった悲惨な出来事に対して、執着の態度を取ると、怖くなって、夜も寝られなくなってしまって、悪夢を見たりするかもしれません。寝ていると、その光景が見えたりするかもしれません。それは執着の結果なのです。
それで我々は、その出来事に出会う瞬間でなければ、どうするのかと分かりません。将来について妄想しては絶対にダメです。
「ご縁」について
「ご縁」のことをお聞きします。私は今日、長老のお話をお聞きしようと思って、縁があって講演会に来ました。今日ここに来ようと思っていても、別な縁があって来られない方もおられます。今日たまたま通りすがりで、縁があってこの場におられる方もいるかもしれません。そうすると、頭で考えて何かを「する・しない」というよりも、縁があってタイミングが合うと、必ず出会えることができるような気がしているのですが、そのような縁とは、どこから来るものなのでしょうか?
神秘的に考えない
「ご縁」という言葉について、あまり神秘的にならず、客観的に考えた方がいいのです。では、なぜ神秘的な気持ちになるのかというと、所縁・諸々の縁のすべてについて、私たちは分かっていないからなのです。すべての縁が分かったらならば、「ご縁」は神秘的なものではなくなるのです。
例えば、何も知らずに今日この場所にいた人が、偶然に看板を見て、この講演会にちょっと寄ってみようと思って、仏教の話を聞くことになったとします。それで、「これは不思議な縁だな」とか、そういうふうに神秘的に考える必要はないのです。
大事なのは自分の意志
さまざまな縁のなかで、大事なのは、自分の「意志」というものなのです。「意志」は自分に管理できる縁なのです。例えば「この日に、講演会に行こう」という意志を作りました。そこで、その日が近づいてくると、友達が電話をかけてきて、今日食事をする約束だったから行きましょうと誘われ。そうすると意志が揺らいでしまうのですね。それで「やっぱり講演会はやめにしよう」と意志を変えるのです。意志が変わってしまったのだから、講演会に行くことはできなかったのです。
そこで、判断する縁が「意志」なのです。例えば意志があって、講演会に来る。来る途中にこけてしまって、足に怪我をしてしまう。そうなると手当てをしなくてはいけませんし、手当てをすると時間がかかるし、では講演会に行くのを止めました、ということになる。という場合は、意志が変わったのです。
それで、その人が「この程度の怪我は大したことない」、「すぐに手当てをしないと死ぬわけでもない」、「そこら辺で絆創膏を買って貼って、講演会が終わってから医者に行く」と決めたら、その意志によって、この場に来ることができます。
意志が決定権を握る
そういうふうに、大体は「意志」が決定権を持っているのです。もちろん、決定権を持っていても、他の縁で意志が変わらざるを得ない場合もあります。例えば、こちらに来る途中に事故に遭って、自分には立つこともできない。そうなってくると、いくら講演会に行きたかったと思っていたとしても状況が変わって、救急車が来て無理矢理にでも病院に連れて運ぶのです。その場合は、まだ「講演会に行きたい」という意志は変わっていないのです。しかし、周りの縁が変わってしまったのです。それで自分の意思が通じなくなってしまったのです。「縁」というのは、そういう性質のものです。決して神秘的に考えないでください。