あなたとの対話(Q&A)

懺悔の意味/悪友を避けること、他者を判断すること

パティパダー2014年7月号(202)

懺悔の意味

仏教の「懺悔(さんげ)」ということの意味が、いまひとつ分かりません。教えてください。

我がままな脳のプログラムを直す

 人間というのは、過ちをいっぱい起こすでしょう(人間だけに限りませんが……)。我々は完全ではありませんし、物事を知っているわけでもありません。夏に目隠しをして、スイカ割りをするでしょう。なんとなく、そんな感じで生きているのですから、当たる場合もあるし、当たらない場合もあります。
 
 ですから、仏教から見れば、どうしても私たちにはありのままに物事を認識できないのです。いつでも幻覚を作って、それを認識するのです。これが花だろう、花に決まっている、という態度を取るのです。しかし、本当に何かということは分からないのです。別に花が見えているわけではありません。目に何かデータが触れてしまって、信号を起こして、その信号が脳に行くだけです。脳が自分勝手に花を作るのです。脳に記録しているいろんなパーツを繋げて、それに花だというのであって、実際に目の前にある花ではないのです。これに一向に気づかないのです。
 
 そういうことで、仏教から見れば、私たちが見るもの・聴くもの・嗅ぐもの・味わうもの・触れるもの・考えるものは、何であっても「正しい」という保証はないのです。どちらかというと「おかしい」ということがほとんどなのです。たまたまスイカ割りのように当たることもあるので、たまたま正しいことも発見したりしますけど、それは目隠ししていて当たっただけです。あっちに行け、こっちに行けと周りがうるさいのだから、まあ当たる確率も高いのです。もし周りの人が黙っていたら、どうなりますかね? 当たる確率は、ものすごく低くなるのです。周りが教えてくれているのにもかかわらず、当たらないということもありますね。
 
 私たちの人生のスイカ割りには、そういうガイドがないのです。とにかく目隠しして、ぐるぐる回されて、あまりにも激しく回されて頭がこんがらがっていて、正しく打てない。それでも何とかしようとしますが、結局当たらない。私たちの人生は全体的に、そのように生きてきたのです。
 
 赤ちゃんの時は何も分からなかったのに、相当偉そうな判断をしたでしょう。小さい時には、お母さんがダメだと言っても、自分の判断が間違っているとは頑として認めませんね。お母さんは心配しているし、大人でしょう。いくら自分の気持ちがあっても、お母さんが言ったことを聞いた方がいいのです。でも聞かない。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌という態度です。それは、大人になっても同じことなのです。変わっていないのです。自分の判断は正しいと、頑固に断定的な態度をとっているのです。
 
 そういうことで、生きるということは「過ちの連続」以外の何ものでもないのです。それを「懺悔」することによって、自分の過ちを認めることで、我がままな脳のプログラムを直す方向へ持っていくのです。

柔軟で広い心を育てるための第一歩

 懺悔というのは、落ち込むことではありません。誰だって、間違えるのは当たり前です。それが自然の流れです。しかし、だからといって「私が正しい」ということにはなりません。懺悔することで、気持ちがかなり楽になって、「次から気をつけましょう」と、心に柔軟性が生まれてくるのです。
 
 心には、柔軟性が欠かせないのです。柔軟でなければ、心は直りません。硬いままだったら壊れます。まず心に柔軟性が出てくる。それから容量が増えてくるのです。これはすごく大事なことです。
 
 宗教の世界は心が狭くて、たとえばイスラム教では豚肉を食べると地獄に堕ちるぞ、と狭くなっているのです。他の宗教にしても何か決まりがあって、昔カトリック教会では、離婚したら遺体を教会の墓地に入れてくれなかったのです。離婚するのは宗教を侮辱したことだと言って、そこまで厳しく・狭くなっていたのです。
 
 しかし、宗教だけが悪いのかというと、そうでもないのです。人間はみんな、結構心が狭いのです。たとえば日本に住んでいる方々は、日本のしきたり・習慣が最高で、それが一番いいと思っています。他の国に住んでいる人々は、その各国のしきたり・習慣が最高で、他は変だと思っています。

 そのように、他人のことを変だと観ている場合は、すごく心が狭いということなのです。

 譬えで言いますが、ある立派な男の若者がいるとします。その人が女装する。完璧な女装でなくても、髪型とか服装とか。そうすると周りの男友達は「お前は変だ!」と言ってしまうでしょう。そこで、おかしい、変人、ヘンタイという言葉が出てくるのはなぜかといえば、自分の心が狭いからなのです。

 学校でよくあるイジメ、それも心が狭いということ、容量が少ないということなのです。「オレが思うことだけ正しくて、みんな変だ」という石のような頑固な人々が、いっぱいいるのです。まだまだ小さい子どもなのですが、「オレだけ正しい」と思っているのです。それで相手を攻撃するのです。

 そんな調子では、人間どころかまだ猿にもなっていません。猿は仲間で殺し合い・イジメをしないですからね。
世界は極限的に狭い心をもって、自分と違うものを破壊しようとして、共食いする生き方をしているのです。ですから、学校でもイジメはあるのです。

 そういうことで、人間は、やはり大きな心で、無限の容量で生きていなくてはいけないのです。

 懺悔するということは、心理学的に心を変える最初の一歩なのです。それで道が開いていきます。どんどんと、心の広い人間になっていく。相手が変だったら、私も変でしょう。他人に向かって「お前は変人だ」と言った時点で、言った人も変人でしょう。そうでなければ、相手が変人には見ません。

「立派な心」というのは、まず心に柔軟性があること、それから心の容量が広大であることです。「私が正しい」という頑固な心を変える懺悔の習慣は、立派な心を育てるための最初の一歩になるのです。


悪友を避けること、他者を判断すること

人間関係で、ある人と付き合って、その人と一緒にいると道徳的に悪影響があると判断して、縁を切ろう・距離をおこうと思いました。お釈迦様は、人を判断するなかれ、過去にあった出来事で人を判断してはならない、相手に慈悲の心を抱きなさい、などと説かれています。そのような教えと、「悪友と付き合わない」という教えと、どのようにバランスを取ればいいのでしょうか?

「私の気持ち」「私の考え」という態度で生きる

 私たちは、自分が作った世界にいるのです。ですから、自分が作った世界で、「この人はヤバイ」「この人はイイ」と自分で判断する。いつだって刑務所は自分で作るのです。
 
 できれば他人を勝手に判断しない方が正しいのです。しかし、まだまだ私たちは、そこまで人格が出来ていないのです。では、こうしましょう!「この人は悪人です」ではなくて、「この人を悪人のように感じています」と、「私には悪人に見える」「私には道徳を守っていない人に見える」というふうに責任を持ってください。
 
 正しいのは、他人を自分勝手に判断しないことですけど、まだまだ人格が出来ていないのですから、それは無理です。そこで理性のある人間として、自分の判断に自分で責任を持つのです。これは簡単です。実践できます。

 たとえば「このラーメンは美味しいよ」ではなくて、食べたところで「私にはすごく美味しかったよ」と言うと、まったく別の世界が見えてくるのです。「あの店のラーメンは世界一だ」と言ってはいけません。それは愚か者の言い方です。「私はあの店でラーメンを食べましたけど、ものすごく美味しく感じましたよ」と言うと、それを聞いた人がラーメンを食べに行って不味く感じたとしても、こちらの責任ではないのです。

 そのように、「私の気持ち」「私の考え」という態度を心がけてください。自分の判断で「この人は道徳を守っていない」と思ったとしても、私がそう思っているだけで本人がどう思っているのかは知ったことではありません。この本人も友達(私)がどう思ったのかは知ったことでありません。私からは道徳を守っていないように見える。ですから、私はそれに合わせた対応をする、ということになるのです。

念のために悪人は避けておく

 次のポイントは、自分が精神的に弱くて、他人の影響を何でもいいから受ける性格だったら、気をつけるしかないのです。自分で責任を持っていて、「私は自分で選んで影響を受ける」というところまで成長しているならば、悪人と付き合うことの問題はそれほど出てこないのです。「この方の影響は受けます。あなたの影響は絶対受けません」と、そういう態度ができれば、誰とでも一緒にいることはできます。

 とは言っても、あまりにも悪人で、波長が悪くて、嫉妬・怒り・憎しみにかられている人々は、できるだけ避けた方がいいのです。なぜかというと、心というのはいつでも元気でしっかりと自己管理できないのです。時々、私たちは自分のガードを緩めるのです。その時、相手の影響を受けてしまうのです。

 ですから、一応、念のために一般の方々は悪人を避けたほうがいいのです。しかし、それは普遍的な法則というわけではありません。もしお釈迦様が悪人を避けたならば、どうなりますか? お釈迦様から見れば、お釈迦様だけ覚りに達して、みんなは頭の汚れた悪い人々でしょう。しかし、お釈迦様はそんな人々を避けなかったのです。みんなを育ててあげたのです。犯罪者のところにも行ったのです。相手がたとえ殺人者であっても、真理を教えてあげたのです。

 人格が出来た人には、悪人善人という考えはあまり起こらないのですね。他人を判断しないのです。行為が悪いのだったら、「あなたのやっていることは悪い」「これをやったら、こういう結果になる」と客観的に言うのです。その場合、悪人も精神的なパワーのある人の影響を受けて、善い方向に変わります。ということで、ご自分でバランスを取りながら、頑張ってみてください。