あなたとの対話(Q&A)

気づきの練習/意識と妄想/「食事の冥想」の実況方法 

パティパダー2014年8月号(203)

気づきの練習

気づきの練習をしています。怒りに気づくと少し楽になるのですが、そのようにただ怒りに気づくことで、怒らないことがだんだん上手になるのでしょうか?

心は繰り返しで上達する

 何事も繰り返しやることで上達します。これは世間でも同じように言いますが、実はそれは「心の法則」なのです。心が繰り返すことによって、能力が向上するのです。
 
 我々はスポーツなどでも体を使って繰り返し練習するでしょう。それは体の成長ではなくて、心の成長のためなのです。すべては心が支配しています。
 
 心というのは、繰り返すとそれが癖になるのです。「癖」という言葉は悪いのですが、いわゆる「上手になる」のです。自然にその方向に傾いてしまうのです。
 
 ですので、これはすごく気をつけないといけないポイントでもあります。心に悪い癖をつけることも、至って簡単です。繰り返し何か変なことを言うと、心はマインドコントロールされてしまいます。それから自分で判断することができなくなり、洗脳されてしまいます。ですから、すごく気をつけて心を守らなくてはいけません。
 
 心があってこそ、我々は生きているのです。心というのは、物ではなく機能です。それが同じことを繰り返すことで、それに慣れてしまって、その通りにしてしまうということになります。
 
 ですから、仏教では心をすごく大事に守って、悪いことは絶対しないでくれ、いくらやりたくても止めなさい、と口を酸っぱくして語ることで、悪行為から心を守ってあげようとしているのです。
 
 そのように、「やりたくなっても止める」ということを5、6回か7、8回繰り返すと、本当にやりたくなくなるのです。悪いことをしないことが、自分の癖になってしまいます。そうすると楽なのです。そのように順番で、丁寧に心を育てていくのです。

判断能力を育てる

 人間には「物事を判断できない」「なんでも鵜呑みにする」という悪い性格があります。次に、そこを叩き上げるのです。「自分で判断しなさい」とデータを与えて本人に判断をさせて、判断能力が身に付くようにします。
 
 判断能力が出てくると、洗脳・マインドコントロールから自分を守ることができるようになります。そうなってきたら、自分で自分を観察して人格向上しなさいと教えるのです。仏道というのは、そのような順番で丁寧に組みあげられたプログラムです。その通りにやるしかない道なのです。

「あってほしいまま」から「ありのまま」へ

 怒りが起きたら、「いま、怒っている」と確認するでしょう。「いま、怒っている」と確認する瞬間だけ、ありのまま観ているのです。そうすると怒りは悪さをしないで、消えていくのです。ですから、ありのまま観ている瞬間では、自分がいつでも正しいのです。
 
 それで、なぜ怒ったのですか? というと、ありのままに観なかったからなのです。ありのままに観なかった結果として、怒りが起きたのです。しかし、後で気づいて「いま、怒っている」「いま、怒りがある」と確認したら、その瞬間でありのままに観ているのです。それで、その失敗は消えているのです。その訓練を繰り返していくと、ありのままに観られることが自然とできてくるのです。ですから、欲が出てこない、怒りが出てこない、他の汚い感情も出てこない、という状態になるのです。

 怒り、嫉妬、憎しみなど、心には一五〇〇ぐらいの心の汚れがあります。それは、ありのままに観ないで、「あってほしいまま」に観るから出てくる汚れなのです。「こうあってほしい」という態度があったから、心が汚れたのです。そのまま観れば、何のこともないのです。

心の病を完治する

 そういうことで、「ありのまま」と「あってほしいまま」というのは、ずいぶん違います。「あってほしいまま」というのは、法則違反で、自我があり過ぎで、自分が世界を支配しようという態度なのです。そんな希望を持っても、実現できるはずがありません。ほんとうは「自分」という存在すらないのです。それは錯覚なのです。我々は、錯覚から錯覚へ、という生き方をしているのです。

 ですから、「あってほしいまま」というのは、相当な心の病気です。それを「ありのまま」に観る訓練を繰り返して、病気が完治するところまで訓練する。二度と発病しないところまで訓練をする。それで終了です。

 そのゴールを憶えてもらうために、仏教では「解脱」という言葉を使っています。「逃げました」「もう誰にも捕まりません」という意味です。以上です。


意識と妄想

心と意識は、どんな関係でしょうか? 意識とは妄想のことでしょうか?

意識とは自然な心のはたらき

 意識というのは、心の働きのひとつです。心と言えば、全体的に「生きる」というエネルギーなのです。生きる場合は、意識も必要ですし、考えることも必要ですし、しゃべることも必要ですね。それは心の様々な仕事なのです。

 意識自体は、妄想ではないのですね。意識というのは、普通、自然に誰にでもあることです。妄想というのは、概念を頭の中で回転させることです。時間のムダで、感情が増幅するのです。ですから、妄想は止めなさいというのです。意識を使って妄想を止めるのです。意識自体は、ごく自然で普通のはたらきなのです。

 見たり聞いたりすることは、ごく自然なことです。しかし、変な角度で見ると、自分の頭の中で別な世界が生まれてくるのです。変な角度で聞くと、自分の頭の中で変なものが聴こえるのです。放っておけばなんの問題もないのです。

放っておけないから問題が起こる

 我々は放っておかないで、見たいものを探し求めて見る。聴きたいものはこれだと、自分で勝手に判断して、探し求めて聴く。その時、探し求めるものが見られると、いい気分になって、「我ながら上手くいった」とかなり自我を張って、ものすごい妄想に陥る。見たいものが見当たらないと、「オレは何をやってもダメだ」と怒りに苦しむ羽目になる。音も場合も、味の場合も、匂いの場合でも、体で感じるものの場合でも、同じことです。放っておけば、なんのことはないのです。

「見たい」ということもないし、「見たくない」ということもなくて、目があるのだからいろんなものが映るだけだと。目が変わる度に、見えることも変わってしまうし、見える対象が変わる度に、見えるという視覚も変わって、「こんなのは、どうということはない」という状態でいられます。

意識を使って妄想を止める

 難しくなったかもしれませんが、妄想とは意識ではないのです。意識をもって妄想をしているのです。ですから、同じく意識を使って妄想を止めるという訓練をするのです。
 
 妄想とは、いろいろな概念を頭でごちゃごちゃ回転させることです。概念を回転させると、概念と一緒に煩悩が生まれるのです。言葉の中に煩悩(感情)が練り込まれているのです。例えば、「お金」とか「ごちそう」とか、その言葉に練り込まれている煩悩(感情)があるのです。
 
 それで、実際に自分の生き方と関係ない概念を頭で繰り返すと、どうなるのでしょうか? 頭の中で要らない煩悩がいっぱい生まれてきて、ひどい心の病気になってしまうのです。ですから、冥想実践それをストップさせる訓練をするのです。


食事の冥想の実況方法

食事の冥想をする場合、「食べる、食べる…」と実況するのでしょうか?「おいしい」というのは妄想でしょうか?

「おいしい」と思った瞬間に欲が起こる

 食事のときは「食べる、食べる」とは実況しません。時間があって一人で食べる場合は、例えば、手を「伸ばす…、取る…、運ぶ…、入れる…、噛む…、味わう…、飲み込む…」というような実況中継で食べるのです。「食べる、食べる…」では冥想にならないのです。そこは気を付けてください。

 それで食べるときは「噛む…、味わう…」、その時「おいしい」と感じたら、「おいしい、と感じている」と実況した方がよろしいのです。「おいしい」というのは微妙なのです。

「おいしい」と感じること自体は煩悩ではないのですけど、ものすごく危険なところで、そこで煩悩が起こるのです。智慧が現れたら、そのプロセスがよくわかります。智慧がない人にはわからないのです。「おいしい」と思った瞬間に、とっくに煩悩が起こってしまっているのです。欲の煩悩で「おいしい」と言っているのです。

「おいしい」は科学的な単語

 一応、仏教的な答えを出します。「おいしい」とは、実は科学的な単語なのです。「肉体がどんな材料を受け取ったならば、この肉体にとって良いのか?」ということを表現しているのです。それは各生命の種によって変わるのです。
 
 人間の肉体、ヤギの肉体、トラの肉体、牛の肉体は、それぞれ構成が違いますね。人は自分の肉体が壊れると、材料を取り入れなくてはいけない。ヤギや牛やトラも同じく、肉体が壊れると材料を取り入れなくてはいけません。
 
 例えば、ヤギは紙まで食べてしまいます。人の服も食べますよ。しかし、ヤギが材料として取り入れるものは、トラの肉体では受け取れないのです。牛は草を食べますね。草は牛の体に入ると、新たに身体をつくる材料として分解されるのです。そうやって、それぞれの種の生命が「体の材料になるもの」を摂取するケースに「おいしい」という言葉が当てはまるのです。
 
 私たちが牧草を取って噛んでみても、牧草は繊維(セルロース)が硬くてお腹のなかで溶けないのです。それを分解するためには微生物が必要です。牛と違って、我々人間のお腹にはその仕事をしてくれる微生物がいないのです。ですから、牧草を取って食べてみても死ぬことはないですが、栄養にはなりません。肉体にとっては、この材料は失格で受け入れられないからです。そこで我々は、拒否反応として「まずい」と感じるのです。

「おいしい」「まずい」が煩悩になる理由

 本当は「おいしい」「まずい」には煩悩がないのです。しかし、「まずい、これは嫌だ」と思ってしまうでしょう。「こんなの食えない」と思うでしょう。それは怒りです。「これは結構おいしいな」と思ったところで、それは欲です。
 
 そういうことで、「おいしい」と感じること自体は、妄想でもなんでもないのです。それは観察能力を育てることで観えてくるものなのです。食べて「おいしい」と感じることは、体が材料を取り入れられるかどうか、ということなのです。
 
 そこで同じ料理でも、体の調子によって、それはいつでも食べられるわけではないのです。朝食に夜のディナーみたいなご馳走が並ぶと、「なんだこれは」と食べたいという気持ちが出てこないのです。そのとき体は、それを取り入れない状態なのです。
 
 それで、一日中ずっと仕事をして、ものすごくお腹が空いて、夕食を食べる時間になって、トーストにバターを塗ってコーヒーを飲むと、すごくまずく感じるのです。体にはそんなものでは足りないのです。でも、朝だったらおいしく感じるはずです。

 同じ食べ物でも、体が受け入れるものに「おいしい」と感じるだけの話なのです。人間が食べる材料はたくさんあるでしょう。あるのですけど、私たちはその都度なにかを選んで食べている。

 そこで私たち人間は頭でっかちで、妄想ばかりしているのだから、正しく食べるものを選べなくなっているのです。肉体に訊かず、妄想に訊いているのです。隣の人が何を食べているのかを見て判断しているのです。それで健康がダメになっているのです。自分の肉体に訊けば、いたって簡単です。概念も要りません。なんのことなく「あれを食べたいな」と出てくるのです。

食事の冥想で智慧が現れる

 そういうことで、智慧があるならば、観察能力があるならば、食べるとき「おいしい」と感じること自体は欲にはなりません。観察能力がない人は、すぐそこで欲を作るのです。観察能力がある場合は、「まずい」「おいしくない」と感じることは煩悩ではありません。観察能力を育ててない人の場合は、「まずい」「おいしくない」「食べたくない」などの怒りが出てきて、心が汚れてしまうのです。

 ですから、食べる冥想はとても大事な冥想です。食べるときは「噛む…、味わう…、飲み込む…」という感じで実況中継しながら、食べてみしょう。その時でも、煩悩が生まれたり生まれなかったりするのですけど、観察することで、その全体のからくりが観えてくるのです。覚りの智慧が現れるのです。