宗派を超えた和合/吉祥経に説かれる「技芸」/「今に気づく」は冥想しなくても可能?
パティパダー2014年11月号(205)
宗派を超えた和合
テーラワーダ仏教を勉強し、冥想など実践されている方で、日本仏教やお寺さんを毛嫌いしたりする方がおられます。複雑な気持ちです。確かになかには相当非のある方もおられるかもしれませんが、真面目で立派な方も多いかと思います。一生懸命にお寺を支え、仏法を支えている檀家さんもたくさんおられます。お互い仏縁がある者同士として、宗派を超えて、思いやりを持って、仲良くしていくことは出来ないものでしょうか?
非難することは自我
もし初期仏教を学び、ヴィパッサナー冥想を実践している人々が、他のお寺、日本仏教全体のことを非難したりするということは、これは完璧な間違いです。偉そうに自我を張っているのです。冥想しても全然こころが成長しないという証拠になります。「あなたは自分の教えを守っていないのですよ」と、そう言ってあげてください。
ひとを非難することは、お寺だけでなく他宗教に対しても、人間としてやってはいけません。私は教理学的に面白おかしく言っているだけです。私もいろいろなことを言います。それは非難・侮辱ではないのです。それは皆にできるわけではありません。
ですから、質問に「相当非のある方もおられるかもしれませんが」とありますが、私が知っている日本のお坊さんの中では、ほとんどそのような人はいません。ただ信者さんが怖くて、大人しくしているだけなのです。みんな本当に立派な方々なのです。私はたくさんのお坊さんたちを知っていますし、いろいろな本山にも行ったことがありますが、非のあるお坊さんに会ったことはありません。私といろいろと言い合った若い人たちも、ものすごく立派な方々でした。それは若者だから何か言いたくなっただけの話です。
ひとを非難する時点で、自我なのです。これは決してやってはいけないことなのです。私たちは他人の長所を見る目を持たなくてはいけないのです。そこから始まるのです。短所を見る権利はないのです。短所を見る場合は、自分の子供とか、学校の先生だったら生徒たちだとか、それは短所も知っておかないと困ります。そこを直してあげなくてはいけないからです。社会では、私たちは人の長所だけを見る色眼鏡を持っていた方がいいのです。誰とでも仲良くすることが仏教でしょう。それが仏教の世界なのです。
「誰とも仲良くする」仏教徒の生き方
世界の宗教の間で、かなりの争いがあるでしょう。イスラム教では、平和の宗教だと言いながら、スンニ派とシーア派が殺し合いをやっています。キリスト教でも昔からカトリックとプロテスタントは争っています。今でもあまり仲は良くありません。では仏教は、どうでしょうか?仏教も宗派がたくさんあるのですが、ケンカをするでしょうか? ケンカはしません。しきたりが違うのでわからない部分もあるのですが、ケンカはしません。日本のお坊さんたちは出来る範囲で、人格者として頑張っています。
私もこれからやりたいことは、そのような立派なお坊さんたちを日本人に紹介したいのです。すごい損をしています。すごく立派なお坊さんに、いろいろとアドバイスを受けたり、悩み事をなくしてもらったり、人生を幸福にする道を教えてもらったりしないことは、とんでもない損なのです。大油田の上に小さなプレハブの家を作って住んでいるようなものです。ちょっと掘ってみれば、途轍もない得をします。
ですから、仏教徒は「誰とも仲良くすること」がひとつの生き方なのです。人間だけではないのです。動物などの他の生命ともです。例えば、自分の家に幽霊がいたとしても除霊してはいけません。「仲良くしましょう」という気持ちでいなければいけません。それだけです。
そういうことで質問にあった非難する方は、これは勉強不足で、自我を張っているだけの話です。
吉祥経に説かれる「技芸」
日常読誦経典にある「吉祥経」に、幸せになるために「技芸」が必要と書かれていますが、それがどういうことなのか教えていただきたいです。
生きる技術を身につける
お釈迦様は、本当に現代的に物事を教えるのです。仏教は迷信には、ものすごく反対です。迷信はなんの役にも立ちません。ですから、人が幸せになろうと思うならば、若いうちに、まず学ぶ。学ぶことは、人間であってもみんなにできるわけではないのです。あまり学校で勉強ができなかったとしても、いろんな技術を身に付けることはできます。そのどちらかをやってください。いわゆる成功を収めるために、何か腕に職があることが必要です。それだけのことなのです。
ですから、我々は何か技術を身に付けておかなければいけません。どんなことでもいいのです。掃除をすることでもいいのです。そうすると人が自分を雇ってくれるでしょう。給料を払ってくれるでしょう。料理でもいいのです。散髪でも何でもいいのです。自分で自分の食べ物を買って生活するために、身体で何か学んでください。「技芸」とは、そういう意味なのです。
「今に気づく」は冥想しなくても可能?
冥想の素晴らしさが、いまひとつ分かりません。冥想は「今に気づく」ことと思って実践してはいるのですが、それは冥想に限ったことではなくて、例えば一流のスポーツ選手などが、自分のやっていることに限っては今に集中して、冥想状態ではないかもしれませんが、似たようなことをしているような気がします。一般生活の中でもご飯を食べることなど、やろうと思えばゆっくりと今に気づいていることもできます。冥想の素晴らしさを教えてください。
それから、冥想の世界を知らない人でも、「今に気づく」ということをできてしまう、している人がいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
冥想の技法で俗世間も幸福に
ヴィパッサナー冥想の技法は、一般人の中でも専門家たちが、自分の専門の世界で似たようなやり方を発見しているのです。例えば電車を運転する運転士は一人でいるのですが、一人でしゃべっているでしょう。「信号、よし」「スピード、よし」とか、なんとか。それは確認をしているのです。なぜかというと、自分の仕事を失敗なくこなしたいからです。信号なんかただ目で見ればいいでしょうが、それではダメなのです。危ないのです。きちんと口で言わないといけないのです。
ホームにいる駅係員さんも、問題ないのですが「~、よし」と言葉で確認しているでしょう。あの言葉をかけることで、自分が果たしている仕事が全部頭に入ってきて、「ホームを確認しなさい」「座席を確認しなさい」とか、電車が入って来る前にきちんと両側を確認できるのです。微妙にでも人が白線の前に出ていると、すぐ「下がってください」と呼びかけたりします。ですから、言葉で言うことによって仕事は失敗なくできるのです。
それで一流のスポーツ選手たちが一流になるということは、一万人に一人とかしかいないでしょう。みんな野球をしていますが、プロになれるのはほんの一握りなのです。そういう人には、生まれつき体格的に能力があったかもしれませんが、それから必死にひとつのことだけやるのです。そういうことで雑念がなくなって、今の瞬間に集中できるようになるのです。
イチロー選手も同じで、イチロー選手にはどんな球が来ても、それしか見てないのですから、はっきりと見えるのです。どんどん見えてきて、誰もいないところに球を打つことができるのです。それは他の選手には無理なのです。世の中にプロの選手はたくさんいるのですが、イチロー選手のやることは他の人にはできません。
ということで、この冥想の仕方というのは、世の中で失敗しないで生きていきたければ、どうしても必要なことなのです。これは俗世間の話です。それなら、苦労して冥想する必要はないでしょう、という考えが現れます。答えは、冥想すると俗世間でも完璧に幸せになります、ということです。
仏道を歩めば究極の幸福に達する
しかし、正しい生き方とは何でしょうか? 生きる目的は何でしょうか? 何を目指して精進すれば実りのある精進だと言えるのでしょうか? などなどの疑問に、俗世間では答えはないのです。プロは今の瞬間に気づいていることによって、自分の仕事を失敗なくこなしているだけです。世界一流のプロに「何のために人は生きるのでしょうか?」と訊いたら、答えられないでしょう。お釈迦様が「今に気づく」という技法を使って、「生きるとは何か?」「生きる目的はあるのか?」「生命は何を目指して精進すれば正しい精進と言えるのでしょうか? などなどの疑問に正解を見出したのです。これは一般の人々にできなかったのです。 結局、お釈迦様の教えを学んで実践しないと、我々の生き方が正しい生き方に転換しないのです。お釈迦様が説かれる方法を実践するならば、人は誰でもこの世で幸福に生きられるだけではなく、究極の幸福である解脱に達することもできるのです。
人間は生きることにしか関心がない
大体、人間は生きることにしか関心がないでしょう。「いかに生きるのか」ということだけです。だから、今に気づくことを実践しません。苦労して生きるだけで、自分は成功者だと自称することはできません。今に気づくことを実践するならば、誰だってイチロー選手のようなすごい人々になるはずです。
私たちにとっても、自分の仕事があります。自分の仕事はしっかりとやりたい、失敗したくはない。結婚した奥さんたちが、家族の面倒をみたい、失敗したくはない。それ以上、何も目的を持っていないのです。お母さんたちにとっては、子どもがしっかり成長すればそれで十分です。旦那さんが病気で倒れなかったら、それで満足です。一般世間の人生論は、その程度のことです。今に気づくことを実践しないので、それも上手くいっていないのです。失敗だらけの人生になります。「人格向上しよう」などという考えは毛頭ないのです。
人格向上と仏教の集中力
今の瞬間に気づいて生きようとすると、おのずから人格向上が始まります。例えばイチロー選手も、酒を飲んで二日酔いになってしまったら打てますか? 打てないでしょう。遊び人になったら打てますか? 打てないのです。ですから、自動的に彼は性格も制御されて、すごく落ち着いているのです。
別な例です。学校の教師がいるとしましょう。自分の仕事のこと、その瞬間のことに集中すると、全体的にすべて見えてくるのです。子供たちが聞いているのか、理解しているのか、聞く気持ちを持っているのかどうか、自分がきちんと内容を明確にしゃべっているのか、などです。少しでも混乱があると、言っていることも混乱するでしょう。そうすると聞いている人の心も混乱するのです。はちゃめちゃになるのです。
ですから、仏教で教えている集中力は俗世間でいう集中力ではないのです。それは、もう少し違う集中力なのです。物事をよく知っているという集中力なのです。普通の集中力は、我を忘れてひとつの対象しか見えないということです。誰かにぶん殴られても分からないというような集中力は危険なのです。
お釈迦様の教える集中力はそうではなくて、することに集中しているのですが、誰かが後ろから来るとそれも知っているのです。全体的に知っているのです。全体的に見て、瞬時に判断できる。そのような集中力は、「今に生きる」という訓練で身に付くものなのです。
真理は「発見」するもの
私たちは、いつも「お釈迦様が発見された真理」という言葉を使うのです。決して、「お釈迦様が創造した真理」とは言わないのです。この「発見」という言葉がとても大事です。真理は世にあるものです。しかし、まだ発見してないので、誰も真理を知らないのです。世にある真理をお釈迦様が発見するのです。無常・苦・無我は、世に常にあるのです。「今の瞬間に気づいてみる」という方法も、世にあったのです。
しかし、「何事も上手く成功する秘訣は、今の瞬間に気づいてみることである」と、誰も知らなかったのです。お釈迦様の教えからその方法を学んだ方々は、「あれっ? 一流のプロたちも今の瞬間に集中しているのではないか」と、びっくりするのです。それはお釈迦様がその真理を発見したお陰なのです。では、一流のプロたちに「今の瞬間に気づく方法を教えて下さい」と頼んだら、どうなることでしょうか? その人々は、自分の職業をどのように訓練しているのかと説明するだけで終わるはずです。
真理は変わりません。俗世間的な目的であっても、成功を収めるためには、今に気づいていることが必要です。集中力が散漫になっていると、どんなプロにも自分の仕事ができません。今に気づくという、集中力がある人は、プロであって、それが無い人々は一般人です。
幸福を壊す「わたし」を調べる
そこで一番ネックになるのは、「自我」なのです。「我・わたし」ということです。仏教になってくると、集中力があっても失敗するのです。何年も訓練しても失敗する。人はなぜ失敗するのかというと、それは自我が入っているからなのです。「わたし」という気持ちが入った途端に、今に気づくことも集中力も、壊れていくのです。
それで我々は更に確認して、「わたしとは何か?」と調べていくのです。そうすると「わたし」というのは、我々をダメにする、あらゆる悩み苦しみをつくってくれる錯覚であると発見するのです。それで、すべて瞬間、瞬間だけのことである、幻想である、蜃気楼や虹のようなものであると発見できる。蜃気楼も虹もあるのですが、本当にあるのですか? そうすると見えてくるのが、あると言いたければ言ってもいいのですが、ある条件によって一時的に現れてくる現象、ということです。それは明日に持っていくことはできません。執着することは不可能です。キレイだなと思ったら、その瞬間で止めてなくてはいけない。
そういうふうに「無常」を発見するところまで、この冥想を持っていくのです。存在とは何かと発見するところまで智慧を開発していくのです。そして、一切の精神的な悩み苦しみから解放されるのです。イチロー選手はそこまでやらないでしょう。そこが差なのです。