あなたとの対話(Q&A)

介護の心構え/怒りの伝染を避けるには

パティパダー2014年12月号(206)

介護の心構え

私はこれから実の両親と義理の両親4人の介護が控えています。これから介護が始まるのですが、心がけることがあれば教えてください。

「問題」と思うことが問題

 介護のことでみんなが困っていることは、「介護が問題だ」と思っていることなのです。ですから、難しくなってしまうのですね。日常生活に加えてちょっと別な仕事をやる羽目になりました、とみんな思いがちなのです。普通は料理をしたり洗濯をしたり、それとは別に余分に仕事を加えられた。自分は今の仕事で精一杯なのに、ひとつ新たに増えたと思うその思考で大変なのです。

「アディショナル ワーク(Additional work)」、余分な労力なのです。ですから、当然疲れてしまうのです。この思考が間違っているのです。この妄想のせいで、他人のお世話をすることが大変なことになってしまうのです。ですから、妄想を捨ててしまえばいいのです。
 
 人間は一日24時間で出来る範囲のことしかできません。ですから、いくら我々が忙しいとかあれこれ言ってもそれも妄想であって、自分の体でできないことはできないのです。ですから、仕事の内容は変わりますが、介護も日常の一環であると理解することです。人間というのは誰だって毎日忙しいでしょう。そのように毎日していることとして、「毎日忙しい、これが人生だ」とそのように思った方が正しいのです。
 
 それから、そんなことは当たり前のことで、家族がいるならみんな順番で体が壊れて寝たきりになって亡くなっていくのです。これが人生のプログラムなのです。このプログラムに「別にどうということはない」と普通にいればいいのです。
 
 例えば、新しく子供が生まれたら、いきなり日常生活が変わるでしょう。でもそれはみんな当たり前のことだとやっているでしょう。赤ちゃんが生まれたら、人ひとりが増えたのです。それで増える仕事の量は大変なものです。それを18年間以上もやりますね。何の文句も言わないでしょう。
 
 ですから、赤ちゃんの場合は当たり前だと思っているのです。赤ちゃんが生まれたのだから、あれもやらなくちゃこれもやらなくちゃと思っていて、その時の思考は「こんなものは当たり前」と思って楽しくやっているのです。

 逆も同じことです。高齢の方々はこれから体が壊れて、あの世に逝ってしまうのです。それは自分の人生のプログラムの一環なのです。ですから、新しく子供が生まれたら我々は頑張れるのに、なぜ他人が病気になって自分のことを自分でできなくなったところで、それだけ「あぁ~大変だ」と思うのですかね。介護も同じ考えで見たほうが、すごく楽になると思います。疲れませんし、上手く介護ができるようになります。

完璧を求めない

 完璧に上手くいかなくてもいいでしょう。子育ても完璧に上手くはいかないでしょう。子供が学校でトラブルを起こしたり、学校に行かないでどこかに逃げたりとか、いろんなことがあります。それでも何とか頑張っています。そのように、ときどき上手くいかないこともあり得るかもしれません。それもごく自然で、当然で、こんなことは人生のプログラムの一部であると思ってやればいいのです。

余計なプログラムを消す

 私たちはいつでも忙しいのに、あれもやりたい、これもやりたいと別な人生プログラムを組むのです。それで困るのです。プログラムを組んでも実行できないでしょう。介護をしなくてはいけない人が家にいるのに、どこかで踊りを習いたいな、友だちと喫茶店で2、3時間でも世間話をしたいなと、別な計画を立ててしまうのです。それは実行できないのです。時間的に間に合わないのです。そういう計画が頭にあると、それは妄想です。実行できない計画は妄想なのです。実行できる計画は問題ありません。
 
 そういうふうにタイムラインの中で、我々に実行できない妄想が結構割り込んできて、人生を台無しにするのです。ですから、介護をしなくてはいけない人が現れてきたら、それが自分の人生プログラムで他に時間はないのです。頭で余計な妄想をするプログラムを消した方が、すごく気持ち良いのです。そうすると自分に必要な時間が取れます。問題ないのです。自分個人にどうしてもやらなくてはいけないことが現れてきたら、きちんと時間が取れます。損はしません。

他人の世話をすることが修行

 それから、介護することだけで精一杯であっても、仏教的には構わないのです。他人のお世話をすること自体が修行なのです。ですから、その人は修行しているのです。自分の目の前で一日一日と死へ向かって進んでいる姿を見るのです。生きることは、いかに虚しいのかと見えてくるのです。お年寄りの人が若い時にはどんな態度でいたのか、吾輩は天皇であるというふうな態度がいまはどうなったかと、結局は誰にしても、すべてを捨てて呆気なく惨めに消えていくのだと、そういうふうに観察しながら、それでも人は「生きていきたい」と、こんなに弱い体であっても生きていきたいという存在欲が見えてくるはずなのです。そうすると「人生とはなにか?」と観察できるのです。
 
 それで体が不自由で弱い方々は、わがままを言ったり、怒ったりいろいろとするのですね。その時も自分は怒らないで、本人には何もできないのになぜ自我を出すのでしょうか?と観察する。その時、「あぁ、なるほど。何もできないからこそ、希望通りにいかないからこそ苦しんでいるのか」と、そのように心の働きが見事に見えてくるのです。

そこにあるのは人間関係

 ですから、寝たきりのおじいさん、おばあさんであっても、ニコニコしていると自分もすごく気持ち良くて、お世話するときに「本当に申し訳ないね、お前に迷惑ばかりかけて」と言われると、あの疲れも飛んでいってしまうでしょう。ですが、介護される方々が必ずそういうふうに言う保証はありません。皆様は体が弱くなって不自由になったら、そのような態度にしてください。ずっと感謝しっ放しで、相手の苦労をものすごく評価してあげると、相手の疲れが消えてしまうのです。そうすると新しい雰囲気・人間関係が生まれてくるのです。すべては人間関係です。寝たきりであろうがなかろうが、人間関係は人間関係なのです。

人格向上の道に損はない

 そういうことで、自分には一瞬も暇がなくて、外へ出る暇もないし、遊びに行く暇もないし、介護以外に他に何かをする暇がない。ただ付きっきりで面倒をみなくてはいけない状態になっても、それだったら「これは私の修行の場である」「いま道場にいる」「いま私は修行をしている」ということで、ヴィパッサナー冥想の方法を学んで、修行として介護もやってみてください。
 
 もう信じられないほど人格が向上するのです。ですから、損はしていません。いくらこの世で金を儲けても、やがて捨てます。それは徳にはなりません。いくら社会の中でみんなどギャーギャーと活動しても、死ぬときにはすべて捨てていくのです。しかし、この場合は人格そのものが成長するのですから、自分が持っていくものがいっぱいあるのです。ですから、なにひとつもできなくて面倒をみることだけになったとしても、全然損はないのです。ものすごい徳を積んでいるのです。仏道を実践しているのです。

病人の面倒を見る意味

 ですから、お釈迦様がおっしゃったように「病人の面倒をみることは、釈尊を直々に面倒みることと同じである」(Yo gilānaṃ upaṭṭheyya so man upaṭṭheyya)そのように教えられています。「誰かが病人の面倒をみているならば、その人は私自身(如来)のお世話をしているのです」と。

 お釈迦様は、看病は如来自身のお世話をするのと同じことだと説かれたので、看病する、または介護するチャンスが現れたならば、それはブッダ自身に会える稀な機会であると、またこの上のない幸福な出来事であると、理解した方がよいのです。釈尊に会うことができたら、その人は究極の幸福に達するのです。もし、「如来のお世話をしているのだ」という気持ちで介護するならば、ただちに自分の心は幸福に満たされるのです。

 どれくらい幸福を感じるのか、どれくらい智慧を開発して解脱に近づけるのか、ということは、私たちのアプローチ次第になります。要するに、「介護を受ける方はブッダの化身である」と素直に思えるならば、結果は百パーセントです。「釈尊に、『看病は自分自身の面倒を見ることである』と説かれても、この人をブッダとして見るのは無理だ。それでも頑張らなくては」という気持ちになると、幸福度はその程度になります。

 お釈迦様が説かれたからと言って、たちまちその気持ちになることが皆にできるとは思えません。しかしその言葉は正覚者の言葉なので、無理をしてでも釈尊の説かれたようなアプローチになったほうが、看病する方々が幸福に満たされることは間違いありません。なぜ釈尊に会うことが究極の幸福になるのでしょうか? 釈尊は天人師です。人格向上すること、心を育てること、心の汚れ(煩悩)を落とすこと、智慧を開発すること、解脱に達して一切の苦しみを乗り越えることを教えて指導するのです。清らかな心で看病したり介護したりすると、私たちも同じチャンスに恵まれます。心清らかにする稀なチャンスなので、看病は決して損する仕事ではありません。


怒りの伝染を避ける

働いていますと会社組織の中で、怒りのある人から怒りが伝染するようなことがあります。その怒りから離れたいのですが、そう簡単には会社を辞めたり、場所を変えたりすることができません。それが上司であったりするとき、その怒りを避ける場合に、どうしていいのか悩むことが多いです。どうしたらいいでしょうか?

自己を戒めるための宿題

 上司が怒りの炎をぶん投げてきたとしても、自分はそれを怒りの炎ではなくて、これは私の修行・宿題であるとして、そこで「この怒りの炎で私も燃えないように頑張らなくては」と思うのです。そういうことで、「相手が怒っても私は怒らないように」と自己を戒めるのです。自分を戒めることが修行ですからね。人を直すことではないのです。逃げてはいけませんよ。仏教徒は逃げません。
 
 相手に何か言われたら、「では心を清らかにしよう」と思うのです。「これは私の宿題だ」とするのです。上司の問題ではありません。上司が悪いわけではないのです。部下がとんでもないことを言っても、部下は悪くはないのです。お前は部下のくせに何を言うのか、という態度ではダメです。その時、私がどう対応するのかと、自己を戒めるための宿題なのです。
 
 ですから何事も、良い条件であるなら、威張らないように自己を戒める、舞い上がらないように戒める。悪い条件の場合は、怒らないように自己を戒める、落ち込まないようにと自己を戒めるのです。そういうふうに自分を育てていくのです。
 
 仕事はある時期で辞めてしまうものですが、人生は死ぬまで続くものです。ですから、自己を成長させた方が、仕事の給料よりは遥かに価値があるのです。そういうふうに頑張ってみてください。