あなたとの対話(Q&A)

感謝の落とし穴/他人を笑うということ/冥想体験への戸惑い

2015年1月号(207)

感謝の落とし穴

突然、他人から受けたご恩や感謝を感じたのですが、どのように返していけばいいのでしょうか? 教えてください。

感謝する癖をつけましょう

 感謝できる人がいるならば、感謝すればいいいでしょう。簡単なことです。私たちは気づいた時からでいいから、感謝する癖をつけたほうがいいのです。それですごく生きやすくなります。
 
 あなたに突然、感謝という気持ちが出てきて、感謝が大事だと気づいたのです。ですから、今日から適宜に感謝すればいいでしょう。感謝とは「ありがとうございます」という決まり文句を言うだけではありません。決まり文句は、あまり感謝とは感じません。ですから、その都度適切な言葉・表現で感謝することです。
 
 故人など、もう会えない人には感謝の気持ちを伝えられませんが、それに悩むことは止めてください。できないことは、もうどうしようもないのです。自分の課題ではありません。悩まずに放っておいてください。

感謝が煩悩になる危険もあります

 感謝という行為には、注意すべきポイントがあります。感謝についてあまり真剣に考えてしまうと、煩悩になってしまって、自我がものすごく強くなるのです。それは危険です。「あぁ、感謝しなくてはいけない」「どうやって感謝すればいいんだ」と引っかかってしまうと、詐欺師のよいカモにされてしまいます。たとえば新興宗教では、「あなたは先祖に感謝してこなかったでしょう。だから不幸になっているのです」などと、感謝してこなかったことへの罪悪感をくすぐって、洗脳するのです。ですから、「感謝」ということも理性ではなく感情的に受け取ると煩悩になって、人を苦しめるのです。

 仏教的なアプローチでは、感謝は「ほどほど」が大事です。なぜかというと、私たちが言っている「感謝」とは、自分を生かしてくれた人々にするものなのです。それは突き詰めれば、存在欲の働きです。原始脳の感情(煩悩)なのです。ですから、それはほどほどにしなくてはいけないのです。

恩を知る人は人格者です

実は、感謝という問題についての答えは単純ではないのです。
 
 お釈迦さまも、感謝する人間、いわゆる「恩を知る」人は世の中に稀なのだと仰っています。人間というのは、ほとんどが恩を忘れたいのです。自我が強くて、できるだけ恩を忘れる。誰かが間違ったことをしたら、それだけは忘れずに憶えておく。また、恨みは決して忘れません。人から受けた恩だったら、いとも簡単に忘れてしまうというのが人間の普通の生き方なのです。
 
 ですから、逆に恩をよく憶えている人は人格者です。人格者は、恨みをキレイさっぱり忘れるのです。思い出したとしても、「あの時はあいつも私もバカだった」と流して、すぐに感情を消すのです。しかし、誰かが助けてくれたこと、協力してくれたことは、ずっと恩を憶えておくのです。人の恩を忘れないことは、すごく大事な道徳です。逆に、恨みを忘れることも道徳になります。

感謝を仏教的に分析しましょう

 しかし、日本の社会に見られる「感謝」というのは、あまりにも生きることへの愛着があって、生きることを賛嘆する気持ちから出てくるものですから、いくらか仏教的に調整したほうがいいと思います。具体的な方法を提案いたします。感謝の対象を二つに分けてみましょう。

①生きることを助けてくれた人です。
 まず親がいますし、親戚・友人たちなど、たくさんの人々が対象になります。

②自分の人格を向上することを助けてくれる人です。
 煩悩・存在欲をなくすために協力してくれる人です。

 この両方の恩を憶えて、感謝するのです。存在欲を応援してくれる人々にも感謝する。存在欲をなくすことを教えてくれる人々にも感謝の気持ちを抱くのです。

 しかし、①のなかでも悪行為を応援する人々は避けたほうがいいのです。例えばパチンコ好きの人が落ち込んでいる友人を見て、「あなたは落ち込んでいるでしょう。じゃあ一緒にパチンコに行きましょう」と誘う。二人で一緒にパチンコでもして楽しくなって帰ってくる。それで誘われた人は「誘ってくれて、ありがとうございました」と感謝するのです。誘った人は悪いことをさせたのですが、落ち込んでいた人の落ち込みもなくしてくれたのです。

 要するに、存在欲を応援してくれたのです。仏教的には、そういうケースは避けたほうがいい。悪行為を応援する人には、別に感謝しなくてもいいのです。いま落ち込んでいるからといって、酒を飲んで頭がいかれたら、もっとひどい目に遭います。そういう誘い・悪行為は止めたほうがいいのです。
 
 このように観察すると、感謝の複雑さが見えてきます。自分が病気になったときに、一生懸命に看病してくれた人。それは命を助けてくれたのです。お医者さんや看護師さんですね。その場合は感謝する。べつに悪行為を応援したわけではないのです。親には必ず感謝する。親は命を助けてくれるのですけど、悪行為は応援しないのです。ですから、悪行為を応援しない、しかし生きることを助けてくれる人々には、断言的に感謝しなくてはいけないのです。

 次に、存在欲をいくら応援したとしても、輪廻を続けるだけで苦しみからは脱出できません。でも①の人々は、そこまでの真理は知らないのです。母親は自分の子供を育てるのですけど、解脱に達しなさいという教えまでは知らないのです。知らないのですから、そこは母親が知っている範囲で助けてくれたことについて、「ありがとうございます」と感謝する。

 しかし、親は自分の人生について全面的に面倒を見てくれるわけではありません。自分は独立して成長しなくてはいけないのです。社会人になってから、経験は増えるかもしれません。しかし、人格向上は無いのです。それにも他人の助けが必要です。自分は人格向上して、存在欲を乗り越えて、解脱に達するところまで進むのだと決めたら、その目的に達するために助けてくれる人々がいるのです。その人々に対する感謝の気持ちは②になります。このように、「感謝」を分析してみることです。それが感謝に対する仏教的な態度なのです。


他人を笑うということ

勤めている会社で、手続きを知らなくて間違えた人がいました。私の立場では、そのようなことがないように周知徹底することなのですが、その間違いを知ったときに「この人はこんなこともわからないのか」と心の中で笑ってしまいました。その後に、他人の不手際を笑うというのは品がないと思いました。仏教では、そのような他人を笑うことは邪思惟にあたるのでしょうか?

慈しみを持って他人に接してください

 その例は、邪思惟という項目には当てはめるほどのものではありません。ただ慈しみが足りないだけなのですね。ひとには分からないこと、知らないことがいくらでもあります。他の人から見れば、「あなた、これぐらいも知らないのか?」ということは、いくらでもあるでしょう。自己観察が足りていないのです。
 
 私にはわずかな範囲の何かができるだけであって、しかし生きる上で必要なものごとの中で、知らないことがたくさんあるのです。会社で偉そうにしている役員でも、家に帰ると魚の塩焼きもろくにできないとか、味噌汁も作れなくてインスタントに頼るとか、そのインスタントさえお湯の温度を間違えてしまうとか、そういう自分が知らないことはいくらでもありますよ
 
 ですから、命のことをもっと大きい心で見ると、「おれ様は知ってるぞ」という態度がなくなるのです。私にしても、大胆に仏教のことをしゃべっていますが、世間のことになると知らないことだらけです。ですから、私はなんの躊躇もなく、分からないことがあったら「これはどうすればいいですか?」と訊くことにしています。
 
 そういうわけで、人が何か失敗したら、もっと慈しみを持って接してあげればいいんじゃないでしょうか? それほど大きな問題ではありません。嘲笑うのではなく、ニコッと「これは、こんな簡単なことですから」と明るく教えてあげればいいのです。
 
 誰にだって、分からないこと、知らないことがあります。分かるべきことが分からない場合もありますし、余計なことを知ってしまって、迷惑になる場合もあります。役に立たないことはたくさん知っているけど、必要なことは知らないとか。人間というのは、そんなものですね。そこで必要な態度は、「まぁ、いいや」と慈しみで必要なことを協力して助けてあげることなのです。


冥想体験への戸惑い

病気で手術など受けたりしていますが、冥想実践を続けています。座っていると集中力が高まった感じもします。冥想を続けていると、普段と違う体験があったりし、戸惑うこともあります。どうすればいいのでしょうか?

智慧のチェックポイントを間違えないことです

 冥想をしていると、普通とは違う経験をします。そういうことは、まったく気にしないで、執着しないで、修行をそのまま続けたほうがいいのです。修行を変えたり、止めたりするのはよくないのです。
 
 冥想・実況中継というのは普通なことではないのですから、どうせ違う経験をするものなのです。執着せずに進めれば、どんどん真理がわかっていきます。その時にびっくりしてしまったら、大損します。驚いたりすることも一種の執着なのですね。
 
 冥想中に戸惑ったりすることは、初期段階では避けられません。最初に無常が観えた、無常を経験したとすれば、それは驚きます。しかし、そこで次に淡々と修行を続けなければいけないのです。ポイントは、心が清らかになったのか、自我の錯覚が消えたのか、ということです。経験したことは間違っているわけではないのですが、何かあったのだからといって、どうということでもないのです。「きちんと心から執着が落ちたのかどうか?」というところがポイントになるのです。
 
 執着が落ちるといっても、何かが派手に変わるわけではないのです。智慧の働きで、「こんなものに執着してどうするのか」という気分に、どんどんなっていくのです。
 
 智慧が開発されると、最終的には「執着するものは、はじめからなかった。今もない」という発見をして、執着はほとんど消えてしまいます。それからも実践を続けて、微妙な執着まで消えて、心が完全に無執着状態になるまで努力し続けなくてはいけないのです。

 ヴィパッサナーを実践すると、徐々に智慧が顕れてきます。自分が発見する真理に合わせて、智慧に名前を付けてあるのです。冥想実践の最終段階で顕れる智慧は、ウペッカーニャーナ(upekkhā ñāṇa)と言います。ウペッカー(捨)とは、どちらにも偏らない冷静な精神という感じです。そこに達するまでは、戸惑うことも、誤解することもあり得るのです。気をつけるべきポイントです。というわけで、引き続き、頑張ってみてください。