怒らないとなめられる?/「恐怖」はなぜ「怒り」に分類されるのか?/「利他」をどう考えるべきか?/勉強だけで預流果になったら自覚はあるのか?
パティパダー2015年2月号(208)
怒らないとなめられる?
怒りのコントロールということについてお訊きします。自分でも怒らないように、怒りが出たらその気持ちで行動しないように普段気をつけているのですが、付き合いの長い人とのやり取りで、こちらが怒ってはいけないと思っていると、相手が「この人は怒らないぞ」ということで対応をしていると感じ、そこで「なめるなよ」ということで怒ってしまいました。怒らないことでなめられているという気持ちが出てくるのですが、どのように対応していけば、この気持ちを抑えられるでしょうか?
感情の関係と知識の関係
いくつかに分けて説明します。私たちは人と関係を持って、たとえば純粋に仕事関係だったら、頭で「この人は○○をやっている人」というだけで、仕事が終わればさようなら、という感じでサバサバ付き合う場合もあります。それから、どうも人間というのは仲良くする場合、感情で付き合うことがあります。気に入る人とか、気に入らない人とかですね。感情で付き合う場合は、あらゆる感情が人間関係で割り込んできて結構トラブルになったりします。
気持ちを除けた知識だけで人と付き合うのも、なにか冷たいのですね。カウンセラーみたいに「あなたとは15分だけですよ」とか、時間が終われば「はい、さようなら」という関係ですね。そういう関係も冷たく感じます。ですから、仕事上でも我々はより深く付き合おうとするのです。その時は感情漬けになってしまいます。感情と言えば、貪瞋痴です。ですから、トラブルが起きます。どうしようもないのです。
理性で人付き合いする
それで私たち仏教の世界というのは、知識でも感情でもなく、理性で客観的に物事を観て、理性で付き合いましょうと教えるのです。理性で付き合う場合は、その問題は解決します。理性とは事実ですから、事実の範囲で人々と付き合ってみるのです。
例えば家族や親族などの場合は、どの程度で付き合うかというリミットがあります。それと違って会社の人々だったら、この程度の付き合いが必要ということが出てくるでしょう。突然挨拶をした人だったら、その程度の付き合い方だという具合に、理性で観るとその都度、どんな付き合い方がいいのかとわかるのです。
例えば突然、2、3歳の子どもと付き合わなくてはいけなくなったとします。その場合、ビジネスライクには付き合えません。感情で付き合うといっても、実の親ではありませんから子どもが感情に反応してくれません。やはり、必要なのは理性なのです。その場合、理性を使うことで、その子にどんなふうに対応して、どんな冗談を言って、どんなふうにしゃべればいいのかということが観えてくるのです。
そういうことですから、我々は出来るだけ理性で人と付き合うように頑張らなくてはいけないのです。この理性の付き合いの中には、感情がこなす役割も、知識がこなす役割も、両方とも入っているのです。しかし、知識と感情がもたらす問題は起きないのです。理性で観ると、この人を慰めてあげなくてはいけない、この子を抱きしめなくてはいけないと、その都度、対応の仕方がわかってくるのです。この人は落ち込んでいるから、ちょっとおだててあげなくてはいけない、といったことが観えてくる。そうすると感情が割り込みません。すごく上手くいくのです。
ですから、頑張らなくてはいけないのです。答えは、人付き合いは理性でやるものであると理解する。そうすると、付き合いが短くても長くなっても、あまり怒りの感情などが割り込んでこないのです。感情が割り込んできても、心で「これは怒り、これはダメだ」と自分でもわかります。この感情で反応したら上手くいかないとわかるのです。あくまでも理性を保つということです。理性とは知識と違うものです。事実を観れば、どの程度で付き合うべきかと、はっきり分かるのです。それで問題なく生きていられます。そこを先ず勉強しておきましょう。
相手になめられてしまう場合の対処
次のポイントは、相手になめられてしまう、ということですね。ご自身が怒らないように頑張っているのですから、それはある程度でいいことなのです。周りの人も「この人は怒らないんだ」と知っているのです。それは、ある程度で自分が上手くいっているという証拠にもなります。でも、いくらなんでも「こいつは怒らないんだ」と調子に乗って人をなめてバカにすることはいけないのです。
そういう目に遭った時も、理性を持って、「それは間違いです、こうするべきです」と、「ニコニコしていてもわかっていますよ」というふうに、少し躾をしないといけないと思います。ですから、怒らないということで他人になめられたら、そこで相手を躾するのです。そうすると怒らずに物事は済むと思います。それだけです。
仕事関係や家族関係でも同じですが、どうしても相手が調子に乗って、自分の都合通りに物事を運ぼうと企んでいる場合、普段なら怒ります。それは感情です。その反応はいたって簡単です。怒ったとしても結局相手はあきらめません。とにかく自分の目的に達するまで、あれこれと企むのです。その場合は、「躾」ということをした方がいいのです。よく覚えておいてください。
仏教の「しつけ」には二種類ある
日本語の「しつけ」という言葉のニュアンスとぴったり合うかわかりませんが、仏教用語では言葉が二つあります。「アワワーダ(avavāda)」と「アヌサーサナ(anusāsana)」です。
アヌサーサナの場合は、「あなたはこのように自分を育てなさい」と教えることなのです。ですから、怠ってはいけませんとか、怒ってはいけませんとか、それは躾でしょう。いわゆる、これからどのように自分を育てて成長していけばいいのか、ということを教える場合はアヌサーサナというのです。
もうひとつの単語は、アワワーダです。アワワーダというのは、「あなたは何をしているのか? それは直ちにやめなさい!」と、「そういうことをすると、こんなことになります」「けしからん!」と、いわゆる過ちを正すことなのです。その場合は、相手が過ちを犯しているのです。
ですから、しつけは二種類です。過ちを正すことと、これからどのように成長して、人間として生きるべきかという指導をすること、教えることです。そういうわけで、相手が自分をなめてかかってきたら、それは相手が過ちを犯しているのですから、過ちを犯そうと企んでいるのですから、その場合はアワワーダという躾になるのです。間違いを犯している場合は、厳しく「それは止めなさい」「認めません」ということを言わなくてはいけないのです。我々は人間関係において、二種類のしつけが必要だと覚えておいてください。
ブッダの教えは、すべてアヌサーサナなのです。お釈迦さまは時にはアワワーダもなさいましたが、全体的に観れば、ブッダの教えはアヌサーサナなのです。人格完成に導く躾なのです。お釈迦様は人類の師匠なのです。ですから、説法師みたいに話術を使って人を魅了するような、そんな誤魔化しはしないのです。見事に的確な躾をして、人を覚りに導くのです。
「恐怖」はなぜ「怒り」に分類されるのか?
仏教では「恐怖」は、貪瞋痴の瞋というのに分類されると聞きました。どうして、そのようになるのか教えてください。恐怖というのは、対象がはっきりとしない、対象のことがわからないから恐れを感じるのであって、痴に分類されるのではないかと思いました。その部分が分からないので教えてください。
「嫌」「気持ち悪い」という感情は怒りです
痴・無知には、人は気づかないのです。我々が簡単に気づくのは、欲と怒りです。ポイントは、なぜ恐怖感は怒りに分類されるのかということですね。
そこで、欲と怒りには定義があります。心にデータが入る。入ったデータを素直に「これはいいものだ」と受け入れると欲なのです。入ってきたデータを「これはちょっと避けたい」という反応が起きたら怒りなのです。ですから、定義は“受け入れる”か“拒絶するか”ということになります。欲と怒りは、それだけの差なのです。
例えば、「落ち込み」は怒りに分類されます。しかし皆さんは、落ち込みが「怒り」であるわけがないと思ってしまうでしょう。説明はいたって簡単です。「あなたは落ち込んで気持ちいいですか?」と聞いてみてください。あの落ち込みの感情は嫌でしょう。ですから、怒りなのです。恐怖感というのは気持ちいいですか? 嫌でしょう。避けたいでしょう。逃げたいでしょう。それは怒りなのです。それほど難しくはありません。心が対象を素直に受け入れるか、拒絶するのかというそれだけです。
ですから他の感情についても、「これは気持ちいいですか?」と自分に訊けばいいのです。例えば、退屈とか、つまらないという感情は、決して気持ちいいものではないでしょう。「無いほうがいいですか?」と訊くと、やはりこれは無いほうがいいと思う。「無いほうがいい」「気持ちよくない」と思うものは、すべて怒りのグループなのです。欲の場合は、「これはあったほうがいい」と思うのです。
例えば、どこかにドライブに行って、キレイな公園を訪れたとしましょう。そこで、「あぁ、早く帰りたい、帰りたいな」と思うことはないでしょう。普通はいろいろと見学して、花を見たりして喜びたいのです。理由は、この美しい環境を見て気持ちがいいからです。それは欲の分類なのです。そういうことで、すごく簡単に分類できます。
無知の発見が難しい理由
私たちには、欲と怒りを分けて見ることはいとも簡単です。それは分けてみた方がいいのです。でも貪瞋痴ですから、痴はどうなっているのかというと問題があります。これはかなり難しい問題なのです。あまり貪瞋痴に分けるために頑張らなくてもいいのです。まずは、感情を欲と怒りだけに分けてみる。
それで、どんどん経験を積んでプロになってくると、「あぁ、これが痴なのか」とわかってくるのです。問題は、無知(痴)はずっとあるのです。無知がない瞬間はありません。ですから、無知だと発見することは難しいのです。
海を見たら何が見えますか? クイズです。答えてみてください。水を見る人は一人もいません。波を見るのです。波がない海というのは、カッコ悪いのです。波がない場合も、「波がなくて静かだな」と結局は波を見ています。波の概念を入れて判断するのです。「○○がない」と思う。そのためには「○○」という概念が浮かんでいないといけません。
とにかく、海を見ると波が見える。海水は関係ありません。我々が感動してじっと見ているのは、次から次へと押し寄せる波なのです。それは何時間でも見ていられます。この海の例えで理解してください。ずっと貪瞋痴の中で無知があります。無知には気づきません。無知が作る波に気づくのです。ですから、欲と怒りは気づきやすいのです。
欲もない怒りもない場合は無知だけです。では、なぜその時に気づかないのか? これは経験してプロにならなくてはいけないのです。いつも自分の無数に出てくる感情を欲と怒りに分けていくのです。分けていくと時々、びっくりするときがあります。欲でもなく怒りでもない、だったら無知になるでしょう。問題は、無知が無知であることに気づくと、そこに無知はないのです。もう気づいているのですね。
邪見は無知のからくり
邪見というのは、無知のからくりです。欲や怒りで思考を捻じ曲げると、本人もなんとなく知っているのです。データを捏造して気づかない場合は、邪見になります。邪見でいるときは、純粋に無知なのです。神様を絶対的に信仰して、神様は絶対にいるはずだと思っていたら邪見になってしまいます。その時は、欲も怒りもないのです。純粋に無知が働いているのです。
例えば、ある人が素直に邪見を持っているとしましょう。そうすると無知に気づきやすいと思うでしょう。しかし、全然気づかないのです。本人は自分が正しいと思っているのですね。ですから、本人にはその邪見が無知であるとわからないのです。その人がいろいろと考えたところで、「あら? 自分はバカだった。そんな話は成り立たない、あれは邪見だった」と気づくと、もう無知がないのです。というわけで、無知はすり抜けやすくて、気づかないのです。
「利他」をどう考えるべきか?
結局、自分が幸福になると他人も幸福になる。そのような考え方は「情けは人のためならず」と言って、要するに自分のためにやっているということで、ある意味では理解できます。初期仏教では、自分の目的(解脱)のために修行をしていると聞きます。よく耳にする利他優先、「他人(衆生)の幸福を先にする」という考え方は、「結局それも自分のためになるのだから、そちらが先」ということで正しいことなのでしょうか?
心は自分のためでないと働かない
その考え方はインドで出来たものです。それを作った人々は、仏教を破壊するために、修行する人の修行を止めさせるために作った破壊的な考え方です。嘘を言っているのです。生命・人間は自分のことを置いといて、他人のことをするということは、あり得ない話なのです。誰もそんなことはやったことはありません。ですから、その考え方を作った人々は科学・心理学を知らないのです。
心は自分のためでないと働かないのです。例えばお母さんが、子供のためなら死んでもいいという話があるでしょう。では、それはお母さん自身のためではないのかというと、そうではないのです。お母さんは子供が生まれて最高に幸せなのです。子供の面倒をみることで楽しくてたまらない状態なのです。ですから、死んでもいいと思えるのです。ときどき、オキシトシンという幸福を感じる物質が生まれない場合は、平気で子供を殺したりもします。ですから、そういう「他人のために」というのは心理学を知らないだけの話です。あまり気にする必要はないと思います。
自利・利他は区別できない
それから「他人のためにやっている」「自分のためではない」と言う人々がいます。そう言って、その人々は堕落していくのです。結局、他人のためにやったことは何もないのです。初期仏教では、自分の心を清らかにすることで、自分が真剣・真面目に仏教を学ぶことで、周りも幸せになるのだと考えるのです。ですから、初期仏教の世界では自利と利他を区別しないのです。自分がよい人間になることで、社会も他人も助かります。
自分が他人を助ける。それで自分が楽しいでしょう。助ける度に自分が不幸になるのだったら、絶対に人助けなんかしませんよ。人を助けることで、心は安らぎを感じるのです。例えば、他人が自分を頼りにしている。頼りにされると面倒なのです。面倒なのですが、頼られる方は活き活きしているのです。結局、自分自身に生きる勇気を与えてくれているのです。そういうことで、自利・利他というのは区別不可能です。区別した時点で間違えているのです。
勉強だけで預流果になったら自覚はあるのか?
四聖諦を理解することで、冥想しなくても預流果に悟れるとお聞きしました。四聖諦の苦集滅道をずっと勉強して、もし預流果になったとしたら、自覚があるものなのでしょうか?
真理への疑いが無くなれば、当然その自覚はあります
理解する程度に合わせて順番に、心が変わっていくのです。どんどん理解して、理解していくのです。これはある学問を学ぶことに比較してみてください。学問を始めたら、ごく基本のテキストを読みながら、基本的な言葉を憶えながら、どんどん進んでいくと一人前になって、そしてプロになって、研究者になっていくとしたら、そうすると自分でわかっているでしょう。自覚があるでしょう。
例えば物理学にしましょう。物理学といっても、子供にしてみたらやっているのは実験など遊ぶことだけでしょう。そんなものだけが物理学ではありません。しかし、そこで興味を持ってわかって喜んで、更に勉強して勉強して、やがてノーベル賞まで取れるようになるのでしょう。
ですから、四聖諦についても、私たちは今の認識範囲で頑張って理解して、でもまだ心は納得していないのですから、もっと勉強して勉強して、そして議論もしてみる。というふうに、微塵も四聖諦に対して疑いがない、これが真理というところに達するまで調べていくことなのです。
「あっ、これが真理だ」とわかったところで、もう預流果になっているのです。「あぁ、わかった」ということは自分でも自覚があるでしょう。理解にはいろいろとレベルがあります。頭でっかちな考えというものもありますが、それは大したことではありません。しっかりと、「これだからこれだ」という確信に至ることが大切なのです。そういうふうに、ブッダの智慧を、経典にある知識としてではなく、頑張って自分の智慧にするのです。それが冥想しなくても勉強して預流果に達する方法なのです。
勉強だけの道に絞らないほうが安全・安心です
しかし、そうやって預流果に達する人々は少ないかもしれません。理解する能力があるにも関わらず説法の仕方が不味く理解できなかったということもあり得るし、真剣に教えたとしても相手の素質というか、能力が適応しない場合もあったりします。理論的には、仏教を理解して自分の理解になった時点で預流果に達したことになるのです。自分の理解になっていますから、その人には敵わないのです。自分の智慧になっています。
気を付けないといけないのは、だからといって欲張って勉強だけしてやるぞと思わない方が安全・安心なのです。なぜなら、私たちは自分にどれぐらいの能力があるのか分からないのですから、一応、勉強も冥想実践も両方とも頑張ってみた方がいいと思います。冥想そのものは、すごく簡単なのです。勉強する道は結構キツイです。しかし、そのほうが性格に合っている人にはいいのです。