あなたとの対話(Q&A)

何が起きても瞬時に心を落ち着かせる方法

パティパダー2015年12月号(218)

何か問題が起こったときに、自分の心が暴れ出して落ち着かなくなります。そういった瞬間に心を落ち着かせる方法というのは何かありませんか?

想定外の事態に心が驚く

 これは難しい質問です。何か問題が起こったとき心が落ち着かなくなるということには、いろいろと理由があります。まず「そんな問題は起こらないだろう」と自分たちが勝手に思っているということがあります。私たちの心の中で、結構よくあることです。「私は当分、死なないだろう」と思っていたりするでしょう。もしかしたら、今日死ぬかもしれないのに、そんなことはないと思っているのです。ですから、例えばお医者さんが「あなたの命が危ない」と言った途端に、ショックで倒れてしまったりするのです。その場合は予測しなかったことが大きな問題なのです。このように、想定外のことが起こったから、問題に対応できなくて、興奮して、心が驚いてしまって困るということがよくあります。それは憶えておいてください。

聖者は何も想定しない

 気休めに言いますが、人間が遭遇する問題というのは、すべて至って簡単に解決できるものなのです。ただ興奮してしまったから正しい対応ができなかっただけなのです。人間が対応できない問題は起きません。「こうなったら、こうする」という答えが、いつでもあるのです。それが、「いや、こうなるはずじゃなかった」という予断・妄想が入ってしまうと答えが出てこないのですね。私たちは予測しなかったこと、想定外のことに直面すると心がパニックを起こします。それは「こんなことは起こるはずがない」という予断・妄想の通りにことが進まなかったから、頭が混乱しているのです。一般の人々は想定外の出来事にうろたえますが、修行を完成した聖者は何一つも予測しないで自由に生きるのです。明日のことを想定せずに生きるということは、冥想をして人格を育てた人々の能力です。明日のことは何も予測しないで元気に生きること、解決できない問題はひとつも存在しないという境地に至ることは、修行して智慧を開発しなければできません。

聖者ではない私たちの対処法

 聖者ではない私たちはどうすればよいのでしょうか? 心が興奮して落ち着かなくなったら、「なるほど、私はこんなことになると想定していなかったから、こんな状態になってしまったのか」と理解して、「もう仕方ない。問題が起きたんだから解決するぞ」と心を変えればいいのです。現実的に問題があるのですから、想定していなかった私がバカだったということで、「逃げられっこない」と対応すればいいのです。日常的な心構えとしては、「私には毎日問題がある。その問題を解決する能力もある」ということをよく憶えておいて、明日どうなるかとあれこれ想定しないことです。「今日はどんな一日になるか?」「今日の問題は一体なんだろう?」という感じで生きることです。

問題には二種類のセクションがある

 もうひとつポイントがあります。何か問題が目の前にあるそのとき、「私はどうすればいい?」と調べたところで、「私にはどうすることもできない」という答えが出る場合もあるのです。しかし、問題は起きている。そのとき悩んだり・困ったりすることは無意味です。なぜなら、私にはどうすることもできないのですから。

 私たちが毎日遭遇する問題・トラブルには二種類のセクションがあることを憶えておくといいと思います。ひとつは、自分に解決できるセクションです。もうひとつは、自分にはどうすることもできない、要するに管轄外のセクションです。前者であれば、すぐに答えが出てくるはずなのです。自分が行わなければいけないパート(仕事・役割)が見えてきます。それをこなすのです。

 例えば、人が病気になったとする。これは大きな問題です。それでどうするのかというと、私にできることはこの人を病院に連れて行くだけです。それが自分にできるパートなのです。それから、お医者さんにどんな病気かよく教えてもらって、どのように看病すればいいのかと手を尽くすことが自分のパート。病気の人を治療してあげることはお医者さんの仕事であって、自分の仕事ではないのです。

自分のパートを果たすこと

 ひとが病気になるというような大きな問題の場合には、自分のやるべきパートがあって、お医者さんのパートがあって、他の人々にもパートがあって、それぞれ全部のパートを合わせたところで、やっと問題を解決することができるのです。もちろん、病気になった本人には自分の病気を治癒するというパートがあります。病気というのは、薬だけでは治りません。薬はただ何かを補ってあげるものであって、患者さんの生命力が病気を治すのです。

 ですから、患者さんに精神的な力・生命力がない場合は、病気が治らないのです。それでも、私は私のパートをしなくてはいけない。病院の先生は先生のパート、看護師さんは看護師さんのパートをやる。各自のパートをきちんと果たすことが問題解決の条件です。しかし、患者本人の生命力がなければ仕方がないのです。例えば、病気になったのが88歳ぐらいのおじいさん、おばあさんとしましょう。もう生命力はあまりありません。ですから、たとえあなたが自分のパートを果たしたとしても、おじいさん、おばあさんは亡くなってしまう可能性が高い。別にそれは何の問題もありません。仕方がありません。

管轄外の問題も起こる

 そういうことで、私たちの管轄外の問題も起こるのです。例えば津波が襲ってくる。誰だって困るでしょう。では、あなたはどうしますか? 津波そのものは管轄外です。でも、自分のパートはきちんとあるのです。高いところへ逃げることです。逃げて命が何とか助かったとしましょう。しかし津波で街はかなり壊れています。「あぁ、困ったな」と悩まなくてもいいのです。家が流されたとしても、自分にはどうすることもできません。そこで気楽に、明るく、「すごい、家が流されちゃった」と落ち込まずに過ごさなくてはいけないのです。「じゃあ、避難所で生活しましょう」と気持ちを切り替える。それが自分のパートです。「どうしよう、家が流されて…」と暗い気持ちになってはダメです。落ち込むのは愚か者のやり方です。

 ですから、問題の中から自分に解決できるセクションを見出して、それに対応するということなのです。それならば、できます。自信を持ってください。自分の義務として出てくることは、自分の役割なのです。例えば、生まれてきた赤ちゃんが肺炎になったとする。親にできることはする。しかし、赤ちゃんの体は小さいのですから、体力がなく死んでしまうこともあります。親がやるべきことを一生懸命やって、お医者さんたちもやるべきことを一生懸命やって、それでもその生命には力がなく死んでしまったとする。そうすると、「仕方がありません」ということで落ち着くべきです。このような理由で我が子が死んでしまったとしても、落ち着いているのは正しい態度ですが、なかなか上手くいかないことでしょう。

 子供に対して強い愛着があるから、それにあわせてたくさん希望も持っていたのです。大きな夢を持っていたのです。それで、子供が亡くなったら、その現象は想定外のことになるのです。激しく悩むはめになるのです。しかし考えてみれば、人の死は自分にはどうすることもできない問題なのです。病気を治すために必死で頑張ってみるのは自分のパートです。しかし、死そのものは人の管轄外です。

自分のパートをさぼるのは悪行為

 子供の死のように極端なケースは無かったとしても、私たちは日常起こる諸々の問題について自分のパートをこなさない、後回しにすることがよくあります。これが大変な問題になります。自分の義務を果たさないことは、悪行為だと理解しましょう。悪行為は必ず、不幸という結果をもたらします。例えば、子供が病気になりました。治療を受けさせようという努力はしなかった。結果として、子供が亡くなりました。それから、その人は一生、悩まなくてはいけないのです。社会の非難を受けなくてはいけないのです。法律で裁かれることになるのです。悪果はそれに止まらないのです。死後も不幸に陥るのです。ですから、私たちは「たいしたことではない、面白くない、いま忙しい、誰かがやればいいでしょう」などなどの理由で自分のパート・義務を果たさないことは軽く見てはいけないのです。それは悪結果を招く悪行為なのです。

管轄外のことを管理しようとするのも悪行為

 自分のパート・義務をしっかりとこなさない割に、人々は管轄外のことを管理しようと無駄な努力をするのです。管轄外のことに対して手を加えようとすることも悪行為です。悪果になります。そうはいっても、人間は調子に乗ってしまって、管轄外のセクションについつい手を出してしまうものです。それは悪行為・罪になってしまうのです。例えば子供が病気になったら、神様に助けてくださいと、いろんなところに行ってお祈りをしたりするのは親心としてはわかりますが、それは管轄外のことです。それでも子供が死んでしまったら、あれほど祈ったのに、あれほど題目を唱えたのに、と余計なところにまで怒り憎しみを抱いて、本人が自己破壊する羽目になったりするのです。「子供を必ず生かしてやるぞ」と自分の管轄外にまで手を出したことで、その悪行為の結果を受けてしまうのです。

 ですから、理性のある人は毎日毎日様々な問題に出会いますが、その問題を二つに分けるのです。ひとつは「私のパート(自分の管轄)」を見つけて対応すること。それから「自分の管轄外」を理解して、そこには手を出さない、放っておくことです。

ひとに頼むのも自分の仕事

 前者の自分にできるパートであっても、「人に頼む」ということはあります。病気の場合は、病院に連れて行ってお医者さんに診てもらうとか、この病気の場合は良い先生がどこの病院にいるのか調べるなど、そういうことも自分にできるパートです。また、看病してあげたいのですが、仕事にも行かなくてはいけない場合もある。そういう時は自分の親にでも電話して、子供の面倒を一日みてほしいとお願いするというふうに、他人に頼むことも自分のパートになるのです。そのように自分のパートを見つけて、その都度、対応すればいいのです。

誰もが問題を乗り越える能力を持っている

 これは必ず、憶えておいてください。私が行わなくてはいけない義務は、「できること」なのです。できないことは生命法則の中で現れません。例えば、ときどき何か体に障害を持って生まれる人々がいるでしょう。そういう人々には、自分の障害を気にしないで生きていく精神力があるのです。私たちの場合は、突然目が見えなくなったら、もうどうしようもなくなってしまいます。その問題に対応できる能力がありません。若いときに脚が壊れて使えなくなってしまうと、「あぁ、どうしよう?」と困るのです。しかし、生まれつき脚に障害を持っている人々には、その問題を補える精神力が付いているのです。

法則を破ってはいけない

 言いたいのは、誰にだって問題があるということです。その問題を乗り越える能力も当然あるのです。そうは言っても、皆さんは心の中で「でも、問題を解決できない人もいるだろう」と思うことでしょう。確かに、問題を解決できない人もいます。そういう人々は、やはりやり過ぎなのです。自我を張って、法則を破っているのです。調子に乗り過ぎなのです。自然法則を破る人々は、目の前で不幸になっていくのです。

 例えば、借金をする。借金をするということは、いまの自分に経済能力がないということでしょう。お金の使い方がわかっていない。それでも胸を張って、金を払えばいいだろうという態度を取る。いま実際にお金がないのに、どうやって払えるのでしょうか。それで借金をして、借金地獄に陥ることになるのです。日本ではどこを見てもローンの宣伝ばっかりです。商売や事業を始める資金調達のために、銀行などの組織から融資をしてもらうことは常識的なことで、問題ありません。私はそれ以外の借金はダメだと思っています。個人に限らず、時々、企業がとんでもない負債を抱えて、税金を払わないで誤魔化したりして、会社そのものが倒産したりするでしょう。それはどこかで法則を侵してしまって、調子に乗り過ぎてしまって、自分に問題を解決できない、管轄外のところにまで手を出しているということなのです。その場合は、必ず破綻します。必ず壊れます。

まとめ

 まとめると、①理性を持って、「私には毎日問題がある。その問題を解決する能力もある」と憶えておいて、明日のことは思い煩わないこと。明日ではなく、今日一日に集中して生きること。②問題に突き当たったら、「これは自分のパートだ」「これは管轄外だ」と二つに分けてみること。そんな程度のことをしておけば、いつでも落ち着いていられると思います。

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