「いじめ」にどう対処すればいいのか? ~慈しみと共存の進化論~
パティパダー2016年2月号(200)
いじめへの対処法
いじめにどう対処すればいいでしょうか? 小学6年の子供がずっといじめられ学校に行きたくないと言っています。学校に対策を求めると一時的には収まりますが、子供同士ではいじめてもいい存在という認識のようです。学校に限らず弱肉強食の世界に、どう対応していけばいいのでしょうか?
子供の問題は子供に答えるべき
これは子供の問題ですから、その子供本人に答えなくてはいけないことです。そうするとズバリという答えが出てきます。仏教的には、この質問には答えられません。悩んでいる人に答えがあるのであって、「私の友達が悩んでいるんだけど、どうすればいい?」と他人が質問したとしても、その答えは「関係ないお前は黙っていろよ」ということになるのです。
だいたい問題というのは、その問題に関係ある人にしか解決できないのです。なぜかというと、「私の問題」は私の生き方から現れてきたものなのです。ですから、私自身が自分の生き方をどのように調整すればいいのか? ということが、いじめに対しても、他の問題・トラブルに対しても答えになるのです。多くの人は第三者として、親が子供のいじめに対して問題の解決方法を聞くのですが、それでは答えは出てこないのです。その場合、私に答えられるのは、第三者として親はどうするべきか? ということだけです。
いじめ撲滅はありえない
では、少し時間を取りますが、「いじめに対してどう対応するべきか?」ということに答えます。いじめというのは、弱肉強食という法則なのです。みなこの法則によって生きているのですから、いじめということは無くならないのです。いじめ撲滅ということは、あり得ないことです。
地球に現れた生命というのは、弱い者を殺して、潰して、食べて先に進むという進化過程なのです。結局、世のなかはいじめたほうが勝ちでしょう。たとえば人間が地球上のすべての生命をいじめて、潰して、絞め殺して、食べて生きていて、自分たちは存在のなかで一番上だと威張っているでしょう。残酷といえば残酷なのですが、それが世のなかにある生命の法則になっているのです。
どう考えても弱肉強食が良いわけがないでしょう。良いわけがないのですから、仏教は別な道を教えているのです。だからと言って、肉体を持っていきている生命が弱肉強食で生きることは、それは避けられないことでもあります。たとえば、我々が肉魚を食べないことにしたとしても、かわいそうに逃げられないジャガイモやキャベツを取って食べている。その場合、野菜などは育てているから大丈夫という言い訳も成り立ちますが、植物のなかでも生存競争があります。競争はあるのですが人間が手を加えているから、一部の植物は虫にも食われないで元気で育つのです。ですから、育てているから食べてもいいと言い訳できます。
そこで人間の社会も、お互いに闘わなくてはいけない社会になっているのです。互いに闘わないとどうなるのかわからないのです。勉強も闘いで、仕事も闘いで、何から何まで闘いです。結局は兄弟でもライバル意識を持っている。ですから、そういう現象は生命・人間がいる限りはあると理解した方がいいでしょう。
一人ひとりが環境のなかで勝ち抜かなくてはいけない
一人ひとりが「生存しなくてはいけない」と理解する必要があります。そして、それぞれの置かれた環境のなかで闘わなければならない。そうでないと現実的ではありません。一人ひとり、個人がいる環境は違います。同じ家族であっても、お母さんの環境とお父さんの環境は違うのです。四人家族だとしても同じ環境でいるわけではありません。たとえば四人家族では、父親役の人は他の三人を父親としてみているのです。母親は他の三人を母親という役柄でみているのです。それぞれ違う立場で、違う環境なのです。子供は姉という立場や、弟という立場で社会をみている。ですから、個人個人に自分固有の、闘う世界が現れるのです。
それで、その環境のなかでどう勝ち抜くのかということは、あくまでもその個人の勝負です。母親には子供の立場になって、子供としてどうやって家族のなかで対応するのかということは教えられません。母親にできることは、母親としてどうしてほしいのかということだけなのです。しかし、子供から見れば、母親の言う通りにしてあげるかどうかということは別な話になります。ですから、いつでも親子の間でトラブルが起こったりします。母親は子供にこうしてほしいと言う。子供は母親にこうしたほうがいいと思っているのですが、それは言えない。それで、言った通りにやらないということでケンカになる。ダメと言ったのにやったということで揉める。
ご質問に対して、私の答えはややこしくて、わかりづらいかもしれません。しかし、少し考えればこれが答えなのです。慰め、気休めの答えではありません。生きることは怖いことなのです。
自分がいじめられる側だとしたら
たとえば大人でも、いじめられたり、いろんな環境があるかと思いますが、いま自分がいじめられている側だとしたら、どのようなことができるでしょうか?
誰もがいじめられている
みんないじめられる側だと思った方がいいでしょう。私も皆さまにいじめられています。わがままで、いい加減で、話は聞いてくれない、理解してくれない。冥想会に来てこうしなさいと言っても、全然やってくれない。散々いじめられているのです。ですから、誰だっていじめられる側だと思ったほうがいいのです。
それで、自分が「いじめられている」と一般常識で思う側の人々は、いじめる側よりも精神的に耐える能力がないのです。また嫌な人を簡単に蹴り飛ばすような人は、もうすでに負けているのです。この生存競争は、ものすごく微妙にことを運ばなければならないのです。私は皆さまにいじめられていると言いましたが、だからと言って皆さまに暴言を吐いても意味がありません。これに対して、私が巧みに頑張らければいけません。いじめられる側は、まず腹が立つ。腹が立って攻撃的になる(怒る)。それで精神的に負けるのです。
環境は一時的なもの
子供にしても、いじめられているのは私だけのことではなく、誰だって人間ならいじめられているのです。その環境で闘って成長していかなくてはいけない、と理解する必要があります。自分の周りが自分にとっての立ち向かうべき現場であって、そこで私は相手を潰すことではなく、私自身が「どう生き延びるのか?」と考えなくてはいけないのです。学校はひとつの環境で、家に帰ればそれも別な環境であって、また大きくなっていくたびに環境が変わっていきます。学校で問題があっても、それも数年で終わることです。学校で対応できても、社会に出て対応できなくなってしまったら、どうしますかね。
ですから、それぞれの環境というのは一時的なことなので、そこで起こる問題はたいしたことないという感じで、上手に対処したほうがいいのです。自分が置かれたその環境で、どのようにして生き延びるのか、ということ。たとえば、学校でいじめられているとする。これは自分だけの世界です。それに対応できるよう根性の曲がらない、折れない人間になろうと思わなければいけません。死ぬまでいじめられる環境にいると思ったほうが楽ですね。
成功しなくてはいけない世界
ですから「いじめられる」という言葉は良くありません。我々は死ぬまで競争して、そのなかで生存を勝ち取らなくてはいけない社会のなかにいるのです。別な言い方をすれば、負けてはいけない世界で生きているのです。もっと違う言葉で言えば、成功しなくてはいけない世界です。
「成功する」というと、その反対に「失敗する」という現象があるでしょう。たとえば、買物に行ってキャベツを買うときにでも失敗したいですか? 新鮮でいいキャベツを選びたいでしょう。ただキャベツひとつ選ぶことでさえも微妙に「良いものを選びたい」という闘いが成り立っているのです。ミカンを袋で買うときにでも、ひとつでも腐っているものが入っていると嫌でしょう。別に大損するということはないし、ただそのひとつを捨てればいいだけの話ですが、しかし気持ちとしては、全部いいミカンが入っている袋を取りたいでしょう。それが普通ではないでしょうか? ですから「いじめ」と大袈裟に考える必要はないのです。
いじめを乗り越える提案
具体的には言いづらいのですが、いろいろと提案はあります。ひとつは、学校でいじめられる役を喜ぶこと。しかし、少しぐらいふざけて蹴られるぐらいはいいのですが、常識を超えて殴ったりする暴力はダメです。暴力は悪行為であって、法律にも引っかかります。そこは厳しく訴えていく。それも闘いです。そうでない場合は、いじられて蹴られたり、いろいろとからかって文句を言われたり、一応自分はからかわれる役目である、みんなのストレス発散のための対象であると思えば、自分にも大事な役割があることになります。そういうグループを結構見たことがあります。
ある人がいつでもからかわれる。でも、いつでもその場に入ってくるのです。入ってきて、からかわれて、みんなにバカにされて、笑われて、それでも仲良しでいる。やはりグループにからかわれる人がいないと、みんな暗いのです。その人が入ってくると、みんな元気になって、ニコニコとその人をからかうことにする。その人のやったことや、やっていないことまでストーリーを作ったりして話す。その人も自分の役割を知って、何のことなくニコニコとしている。
そういうことで、「いじめられる」という言葉を日本では使っていますが、そのようにいろいろと言われたりする役も悪くはないのです。環境と闘うことで自分の精神がどんどん強くなっていきます。
これは環境に対するアプローチのしかたです。
たとえば、姑さんにいじめられるお嫁さんが、嫁というのはそういうものだと理解すれば、何のことなくお嫁さんとしての能力が上がっていくのです。姑さんは何かいじめようとお嫁さんの粗を探しているのですから、お嫁さんもそれに対応していく。姑さんに攻撃したら終わりです。攻撃したら姑さんの勝ちです。ですから、今度は文句を言わせないという感じで自分を直していく。次は何を言うのかと待っていて、何か粗を見つけて言ってきたら、それも直してみせる。また直してみる。直せないことだったら、「だからなんですか?」ということで気にしないようにする。
あるいは、学校に行って「お前はバカだ」と言われる。すぐにバカは直せないし、頭のいい人なら、他人に対してバカとは言わないのです。なぜならば、誰だって何も知らないバカで生まれて、さんざん苦労して賢くなるのです。うまくいく人も、なんとか間に合う程度に賢くなる人もいるのです。ですから、他人に向かって「バカ」と言っても、それは成り立たない言葉なのです。「バカで悪かったね」「私ははじめからバカで、これからもバカですよ」というふうに認めると、バカといっても反応がないから面白くなくなってしまうのです。自己紹介するときでも、「みんなに言う必要もないけど、大バカ者の〇〇です」と言われたらどうしますかね。そういうふうに巧みに、毎日の生存競争を闘わなくてはいけないのです。
いじめ問題をより深く考える
いじめ理解の間違い
「いじめ」という単語が間違っているのです。単語が間違いということは、理解も間違っているということです。いじめという単語は悲観的です。あってはならない行為を意味する言葉です。あってはならない、やってはならない行為などは、ほとんどの人々は気をつけるのです。例えば、すべての子供たちが万引きするわけではないのです。ストレスが溜まって我慢できなくなった稀な子供は、万引きするかもしれません。電車に乗るすべての人々が痴漢するわけではありません。頭がおかしくなった稀な人が、たまたまやるかもしれないだけです。そのように、やってはいけない行為など、この社会ではほとんど誰もやっていないでしょう。やったとしても、社会がそれを認めないので、それなりに裁く制度があるのです。
いじめも同じタイプの問題として考えてはいけません。なぜならば、考えてみれば誰でもやっているのではないか、という気がします。法律で取り上げることも難しいのです。しかし、いじめにも程度があります。程度を超えたら犯罪扱いされますので、それなりの対処法もあるのです。しかし学校のいじめ、会社のいじめなどは、法律で裁くことは不可能です。子供のいじめに対応しようとする教師たちのあいだでも、結局はいじめがあるのです。自分もいじめをやっているのに、他人のいじめを止めさせようというのは虫が良すぎます。ですから、誰でもやっている他人にぶつかることを、いじめという単語で理解するのは良くないのです。理解が間違っているから、対処法も見当たらないのです。
環境という固有の宿題
では、いじめではないならば、我々が周りを敵に回す生きかたは何なのでしょうか? それはこの地球上に生きているすべての生命に共通する問題です。生きるために、我々は環境に適応しなくてはいけないのです。環境はライバル的にはたらくものです。私には寒さが耐えられないからといって、冬は暖かくなってくれないのです。雪山で遭難した人が食事を携帯していなかったからといって、空から食べ物が降ってきてくれるわけがないのです。我々が生きている環境は、我々の命に対して何の価値観も持っていないのです。生かしてあげようという気持ちもないし、殺してやりますという気持ちもないのです。環境に置かれている個々の生命体に、環境に対してどのように対応するのかという問題が現れるのです。
うまく対応できる種は、進化していきます。対応できない種は、絶滅するのです。人間も進化過程に置かれている一種の生命体です。私たちにとって、人間社会も一つの環境です。人間がつくっている政治・経済・法律・文化・宗教・習慣なども、個が対応しなくてはいけない環境なのです。クラスの仲間も、教員たちも、生徒が対応しなくてはいけない、それぞれの環境です。学校でいじめをやっている子供たちには、相手をいじめて、懲らしめて学校から追い出そうという気持ちはないのです。自殺に追い込もうという気持ちもないのです。恐喝してお金を取りあげる時も、自分が遊びたい、金を貰いたいと競争しているだけで、被害者になる子供の状況を考えないのです。
ですから、それは個が生かされている環境であると理解しなくてはいけないのです。環境は個の命に対して無関心です。法律制度、経済制度なども、同じ環境なのです。個を生かしてあげよう、あるいはいじめよう、という目的は無いのです。しかし個の対応の仕方によって、法律制度によって命を守ることも、経済制度によって幸福を獲得することもできるのです。ですから、社会にあるのは、いじめではありません。個が対応しなくてはいけない環境です。環境に対応できる能力をそれぞれの個が育てなくてはいけないのです。要するに、各個人に固有の宿題があるのです。
心からライバル意識と敵意を取り除く
仏教はこの問題をこのように冷静に見て、何か解決策があるのかと考えるのです。それは心からライバル意識、敵意を取り除いて、調和して仲良く生きられる精神能力を育てることになります。社会システムに操られてロボットのように生きている人間は、この方法に賛成しません。闘わなくてはいけないと思うのです。しかし相手が自分に戦いを挑んだら、嫌がるのです。いじめだと言うのです。「私は汝をいじめますが、汝は私をいじめるなかれ」というもの言いは成り立ちません。ですから、矛盾だけ喋っている社会の意見に乗らず、「全ての生命に対して慈しみを実践しなさい」という智慧の完成者の言葉を実践したほうがよいのです。闘う本能で生まれる生命が、本能に逆らって慈しみを実践すると、奇跡的に成長するのです。進化するのです。勝利を得るのです。
慈しみ論は進化論そのもの
ブッダの慈しみ論は、生物学者の言う進化論に反対しません。まさに進化論そのものです。生物学者が説く進化の過程を考えると、重視するポイントがずれているような気がします。競争で勝ち抜いたほうが進化して生き延びると強調しているのです。しかし一個の生命体の力は微々たるものです。どこまででも競争できるわけではないのです。それが事実であるならば、地球上の生命は全て、すでに全滅しているはずです。生き延びている生命を観察しましょう。競争するより共存することを優先した生命のみ、生き延びているのです。みな仲良くグループを組んで環境に対応したほうが、楽に勝ち抜くことができるのです。
生命は単細胞で現れたそうです。単細胞で生き延びることは成り立たないと思った細胞たちが、グループを組んだのです。細胞同士で互いに協力し合って、環境に対応したのです。それで多細胞の生命が現れたのです。多細胞の生命組織のなかで、最たるものは四十兆の細胞組織である人間です。人間の身体のなかに、脳と神経という細胞組織も現れたのです。それでけっこう上手に、環境に対応しています。人間は二本の足で歩かなくてはいけないから、動物よりスピードが遅いのです。それなら、環境に負けて全滅するはずです。その問題に、人間はグループで対応したのです。車、電車、飛行機などの機械を開発したことで、で人間という種は、スピードの問題に対して全ての生命より進んでしまったのです。このようなことを考えると、相手を敵として見るのではなく、グループの一員として見たほうが正しいのではないかと簡単に分かります。
私たちはいじめられていない
ですから、私たちはいじめられていないのです。環境に対応できる能力がないか、環境が自分の機嫌を取って合わせるべきだという桁違い傲慢な存在であるか、どちらかです。環境に対応しようとしても、一人の力ではそれほど進めません。相手が敵だと思ったら、その微々たる力も消えてしまうのです。ですから、全ての生命に対して慈しみの気持ちを抱いて、敵意から心を解放するのです。そのような精神が現れたら、微生物さえも自分の味方に回ります。生物学では重視しないポイントですが、進化の衝動とは、競争ではなく共存なのです。



