意識は止まらない/恐怖感を手放すために/煩悩とコミュニケーション/冥想と怒り/業のメカニズム/覚りと有身見
パティパダー2016年3月号(201)
意識は止まらない
意識のことで質問です。身体が壊れても認識が回転していくということですが、頭で考えて推測では分かります。しかし、それを生きているうちに自分で確認することはできるのでしょうか?
いたって簡単に確認できます。仏教ではヴィパッサナー実践という方法を教えています。それで皆様に言っているのは、「ただ実況中継しながら歩きなさい」「実況中継しながら、座ったら身体の感覚を感じなさい」それだけなのですが、それを全然やらないで妄想ばかりしているのですね。
そこで、すでに確認しているのです。存在もしない過去の出来事が、頭の中でぐるぐると回転してストップしていない。それは「意識(認識)は止まることなく回転し続ける」という法則があるからこそ、そうなるのです。ですから、身体が壊れてもそのように意識は流れて続いてしまいます。
例えば身体が壊れる瞬間、死ぬ瞬間で、意識が妄想し始めるのです。そのときは、だいたい何か過去のことを思い出してしまって、その妄想にぴったりと囚われてしまいます。その妄想が次の生に繋がるのです。
「意識は止まらない」ということは、ヴィパッサナー実践をするとすぐに分かることです。普通、俗世間的に考えると、意識が止まらないということは理解できないとも知っています。俗世間の知識レベルでは、そんなことは分かるわけがありません。
恐怖感を手放すために
生命には「存在欲」と「恐怖感」があるということで、個人的にも恐れがつきまとってくるということを自覚しております。瞬間、瞬間に何をするにしても、どんな人に対しても、恐れがもとで相手を攻撃するような、自分を守るために攻撃してしまう、怒りを持ってしまうということがあります。日常的にもその恐怖感・恐れを手放すためにはどうしたらいいのでしょうか?
自分が何者なのか自己観察すれば、恐怖感はキレイに消えていきます。それよりも先に、慈しみの実践をすることです。相手は敵ではなくて生命です。ですから、「みんな幸せで幸福であってほしい」という気持ちを自分で育てるのです。たとえば、「うわぁー、ゴキブリだ!」という見方ではなく、「このゴキブリも生命です」と生命としてみる。ゴキブリもひとつの生命体ですから、幸せに生きていきたいと思っているだろうから放っておいてあげる。人間同士でも一人ひとり個人だから、みんな幸せで安穏でいたほうがいいなという気持ちを育てるのです。そのような気持ちを育てることで、恐れが消えていきます。
そのような気持ちは「慈悲の冥想」で育つのでしょうか?
はい、その通りです。慈悲の冥想で、慈悲喜捨という生命に対しての正しい見方であるデータを繰り返し、繰り返しインプットするのです。インプットすることで脳が成長していき、生命を敵ではなく生命として理解できるようになっていきます。
恐れに対する反応が癖になっているので、それを直していく、見方を変えていくということですか?
はい、そうです。頑張ってみてください。
煩悩とコミュニケーション
生命は共通している煩悩のところでコミュニケーションをするということを聞きましたが、それでは仮に煩悩が減ってくると、逆に他人が理解できなくなるのでしょうか? それとも慈しみがあれば他人とコミュニケーションが取りやすくなるのでしょうか?
煩悩が減っていくと、どんどん他の生命のことが理解できるようになっていきます。煩悩があるということは、自分の主観・色眼鏡で見ているということです。それは磨りガラス越しに見ているようなものなのです。煩悩がなくなるということは、磨りガラスではなく透明なガラスになったということ。そうすると、よく見えますね。
ですから、煩悩があるからこそ私たちは他人のことを理解できないのです。それは煩悩という擦りガラスを通しているからなのです。煩悩は皆に共通しているので、互いに似た煩悩を合わせることで、コミュニケーションに似た行動をして、互いに理解しているつもりになるのです。こころが煩悩で汚れている限り、他人をありのままに理解することは不可能です。
煩悩がなくなればなくなるほど、心は落ち着いて、穏やかになって、他人のことをよく理解できるようになります。相手はカレーが食べたいのかラーメンが食べたいのかなどのどうでもいい話ではなく、真理の立場から生命として理解できるようになるのです。
いま煩悩がある状態では、自分が相手のことを理解できているのかどうかも、よくわからないのですが?
煩悩で人を理解しようとすると、理解するのは相手のことではなく、相手が自分にとってどうなって欲しいのかというイメージです。自分の主観的なイメージと、相手から取り入れるデータが似ているならば(一致はしないのです)、相手を理解した気分になるのです。自分という個人が、相手という個人を理解しようとすると、起こるのは理解ではなくイメージ合わせです。
仏道を歩む人々に、お釈迦さまが説かれた実践方法があるのです。それは自分のことも他人のことも、個人として見るのではなく、五蘊に分けて、五蘊という組織として見ることです。この場合は、データが一致します。相手を理解したつもりが、生命全体を理解できるようになるのです。
これは科学的なアプローチです。例で説明します。地球上に六十億以上の人間が生きているのです。個人として、一人ひとりが違うのです。六十億以上のすべての人間を理解しようとするならば、それは成り立たない不可能な話です。ですが、科学的に「人間という種」を調べると、ものの見事に仕事は簡単になります。それで人間だけではなく、地球上に住んでいる他の生命のことも理解する結果になるのです。仏教は生命の種の区別を措いておいて、五蘊という五つの組織を観察して学ぶことを推薦しているのです。その結果として、相手を理解するばかりか、生命全体を理解することになるのです。
それでは、私たちが俗世間で持っている人間関係とはどのようなものなのでしょうか?
それは煩悩の繋がりです。煩悩とは、生き続けるという目的を全うしようとするエネルギーです。しかし、煩悩は真理ではないのです。ただの主観的な感情です。正しくないのです。煩悩の判断も信頼できないのです。生き続ける目的でやっていることが、生きることをさらに苦しくさせるのです。時々、煩悩が発信する指令で、生きることもできなくなる場合もあります。
平和な社会で、みな互いに仲良くしているように見えます。生き続けるためには、互いに仲良くしたほうがよいのです。ですから、会社の社員たちが仲間として行動する。クラスの生徒たちが、仲間として行動する。夫婦は互いに理解しているつもりで、仲良く生きているのです。日本人は日本人という枠で仲良くしているのです。記者クラブや医師会、経団連、PTAなどの団体も現れるのです。同じことを行なっている人々は、このような組合団体を作って仲良くしているのです。すべて存在し続ける目的で成り立っているのです。
仲良くしていると言っても、本当に仲が良いのかと言えば疑問です。互いに理解しているのかというと、そうでもないのです。煩悩がある社会に見えるのは、煩悩同士の繋がりです。
冥想と怒り
冥想をしていると、自分は怒りが強いと感じます。「自分が正しい」ということと、「怒り」が抑えられないくらい出てきます。冥想中にどのように気をつければいいのでしょうか?
「怒り」が出たら素直に、「自分で怒りを作っている。これは破壊的で、怒りのせいで一向に私は幸せにならなかった。まだやるのか」と自分を厳しく叱るのです。「怒りは自己破壊で、みんなにも迷惑だ。性格が悪い」と自分を戒める。いきなり怒りは消えません。どんどんゆっくりと減っていきます。怒りが長い間の癖になっているのです。ですから、怒りが出てきたその都度、自分で自分を叱ってください。
叱ったとしても、また怒ってしまいます。しかし、またやってしまったとしても、同じように自分を叱ってみる。それを繰り返していくと、徐々に怒らないようになっていきます。それから、時々現れる怒りにも気づけるようになります。
自我の錯覚がなくなるまで怒りが起こります。ですから、長い目でみてください。解脱に達しない限りは、主観があるので煩悩もパッケージで起こります。それでも悪性にならないように抑えることはできます。
ですから方法としては、怒りが出てきたら、まずは「怒り、怒り、怒り」と気づいて実況中継で確認する。それから、「情けない」と自分を叱る。「冥想ではなく怒りを育てているじゃないか、これはけしからん」と自分を叱って、冥想を続けるのです。ちょっと叱るだけですね。そのようにやってみてください。
業のメカニズム
業についてお聞きします。例えば、中東あたりの厳しい世界というのは、地域として悪業が多いということで、逆に日本はツイていて、日本人はもっと徳を積まないといけないということでしょうか?
そういうふうに考えると、ものすごく差別的な意識になってしまいます。業はそういうものではありません。誰だって無始なる過去から輪廻転生をしているのです。ですから、業の力というのは誰でもほぼ同じようなものです。
あの方々・民族は我々より不幸だということではなくて、一人ひとり大量の業があり、どの辺の業がログイン(接続)状態になって、結果を出そうとしているかということです。
例えば、私はスリランカという国に生まれました。それで、いま日本に住んでいます。そうすると私は日本の食べ物を食べたり、キレイな水を飲んだり、涼しい環境で楽々と生活をしている。ですから、環境によって私の無量の業の中で、いま善業がログイン状態になっているということです。もし私が中東に行ったら、どこでどんな目に遭うかわからない。そこで環境によっても業へのログイン・ログアウト(切り離し)が変わるということになります。
それから自分の生き方によっても、業のログイン・ログアウトは違ってきます。なぜ慈しみを実践しなさいと教えるかというと、その場合いつでも善業にログインできるようにするためです。悪業は待機中となり、結果を出すチャンスが無くなります。
ということで、生命は犬猫であろうとも私たちと同じ業の力を持っています。ただ犬になった生命は、無量の業の中でもほんの一部しか機能しないというだけです。
業(行為)によって、生まれ変わる(結果が変わる)ということですが、いま行った行為がいまの人生にどのように返ってくるのかメカニズムを教えてください。
生まれ変わるという過程は、智慧で理解する課題です。智慧で観察すると、生まれ変わるなどの概念は出てこないのです。経験するのは、すべての現象の流れです。その流れかたを決めてしまう原因は、業というのです。業とは行為をおこなう時、その行為を司令した意志です。この意志によって、現象の流れが変わるのです。
輪廻と業の関わりは、知識では理解できない項目として措いておいて、日常の生きかたを観察してみれば、業のはたらきの一部を理解できると思います。我々は生まれたときから死ぬまで、行為をしているのです。その行為を司る意志によって、様々な結果を受けるのです。子供がお母さんのお手伝いをするというエピソードで考えましょう。ひとりの子はお母さんのことを心配して、自分で一生懸命お手伝いしようとする。もう一人の子は、面倒くさいという顔をしてお手伝いをする。もう一人の子は、お母さんがあまりにも強引に頼むから、断れなくなってお手伝いをする。もう一人の子は、頼んだことに激しく怒って、母を侮辱しながらお手伝いをする。お母さんのお手伝いという行為をしたからといって、みな同じ結果を得るわけではありません。結果は各自の意志によって変わるのです。
行為に結果という単純なケースも、そうでないケースもあるのです。喉が渇いた時、水を飲みたいという意志が現れて行為をする。渇きが消える。単純です。一方で私たちは、学校に通うという行為をしているのです。だいたい十六年にわたる行為です。しかし、学んだことの結果は一生得られます。真剣に勉強して、人格も変えて良い人間になったならば、なおさら良い結果が得られるのです。またある人々の行為を、その人々が亡くなってからも社会が賛嘆する場合があります。意志→行為→結果の関係は、シンプルではないのです。しかし、行為には結果が必ずあるのです。
結果が出る場合は、時間は関係ないのです。瞬時に結果が現れることも、時間が経ってから結果が現れることもあります。不注意で熱いものを触ったら、火傷するという結果は瞬時です。若者の暴飲暴食は、その場で結果を出しません。中年になるまで待つのです。結果は出しても、行為のエネルギーは消えない場合が多いのです。ひとつの行為が時間をかけて結果を出したり、繰り返し結果を出したりもします。犯罪をおかす人々が、司法の手で裁かれたとしましょう。決まった罰金を払ったり、服役を終了したりして、社会に戻ります。法律では普通の社会人ですが、人生は簡単に行かないのです。仕事をみつける時も、友人関係を築く時も、結婚相手をみつける時も、犯した罪が影響を与えるのです。
社会復帰という言葉は軽々しく使われますが、現実はそうではないのです。社会復帰しても、過去の行為が影響を与え続けることはけっこうあるのです。お釈迦さまは「たとえ罪を犯したとしても、たくさん善行為をしてそれを隠しなさい」と説かれたこともあります。それなら、社会復帰できます。行為の結果が何回続くのか、何年かかるのかは分からないことです。業のエネルギーは解脱に達するまで追ってくるものです。アビダンマでは、行為の結果は七分の一がこの世で、七分の一が次の世で、残り七分の五は条件が揃うたびに結果を出すために残るのだと、説明してあります。
私たちにできるのは、巧みに業を管理することです。死後があってもなくても、死後のことを理解できてもできなくても、けっこうです。この世においても悪行為に悪い結果が出ます。善行為に善い結果が出ます。幸福に生きたければ、善行為をすることです。人間ですから、罪を犯してしまうこともあり得るが、ギリギリまで罪を犯さないようにこころを制御する。たとえ罪を犯してしまったとしても、大量に善行為をして悪行為に蓋をする。
善行為とは幸福に達する生きかたであると定義されているので、実行するのは難しくないのです。一人ひとりが幸福になるように、巧みに生きてみればよいのです。ということで、我々が生きている社会で日常茶飯時に起きている業の機能を理解すれば、役に立つと思います。それで業のメカニズムを理解できるのです。
覚りと有身見
覚りについてお聞きします。預流果という覚りの段階に至ったときに「有身見」という煩悩はどのような変化を受けるのでしょうか?
「有身見」という錯覚、その錯覚が無くなるだけです。有身見は変化しません。はじめから陥っている錯覚から覚めるだけです。いまはそれが錯覚であるとわかっていない、それだけ。
例えば虹が見えます。虹は光の屈折で見えていると皆様は知っているでしょう。ですから、昔話のように虹を渡って誰かが来るとは信じないでしょう。虹というのは、はじめから目の錯覚で見えている。それで終わりです。いまも虹は現れます。預流果では、有身見が錯覚だとわかっただけです。
では、預流果で有身見という錯覚に気づいて無くなったことで、次の一来果においても一来果における「有身見」というものが無くなるということでしょうか?
一来果には有身見はありません。一来果には「自分がいる」という気持ち・実感は残っています。これは有身見ではありません。「変化している自分」という実感です。一来果では、欲と怒りが薄くなるのです。「私」という実体(有身見)はありませんが、それでも「生きている」という実感はあるのです。実体はないのですが、変化しつつ生きているという実感がある。それで生きているのですから、何かあったら欲を出さなくてはいけないし、怒らなくてはいけない。
それでさらに冥想を続け、「これではいけません」と頑張って、この肉体に対して執着を減らすのです。肉体と心に対する執着が減ったら、その分で欲と怒りが減っていくのです。次の不還果では、欲と怒りはキレイさっぱり消えてしまうという順番です。すべて無常・苦・無我だと覚って、根深い「慢」が消えるのは阿羅漢果になったときです。



